豊臣秀長の家臣~横浜良慶(一庵法印)とは~

以前に豊臣秀長の家臣として藤堂高虎・羽田正親・吉川平助を紹介しました。

高虎は秀長の重臣と言われていますが、もちろん重臣は他にもいます。今回は重臣の一人である横浜良慶(一庵法印)を紹介します。

横浜良慶は秀長の重臣であるものの、あまり知られていないと思います。それは、秀長没後に大大名になった藤堂高虎とは異なり、秀長死去後数年で悲劇的な最期を遂げたからかもしれません。

なお、この記事では横浜良慶(一庵法印)の名前を「一庵」に統一して記述します。

この記事は多くを黒田基樹氏の著書『羽柴秀長とその家臣たち』によっています。この本は横浜一庵だけではなく、多くの秀長家臣について記しています。今までほとんど注目されていなかったであろう秀長家臣の実態を知るには良い本です(藤堂高虎についてはさすがに書き切れていませんが)。

横浜一庵の出自・名前・家族

横浜一庵の生年月日は天文18(1549)年11月3日です。これは、『多聞院日記』という奈良興福寺の僧侶の日記に天正18(1590)年時点で42歳、誕生日は11月3日と記されていることによります。

史料で初めて登場するのは天正13(1585)年7月13日、秀吉から羽田正親・横浜一庵宛の朱印状です。この朱印状からは、一庵が領国の兵糧米の管理をしていたことがわかり、秀長の有力な家臣の一人であったとみられています。この時、一庵は37歳でした。ちなみに、藤堂高虎は30歳です。一庵は高虎よりも少し年長ということになります。

この時点で朱印状には「一安」と記されていて、既に出家の身であったことがわかります。良慶は実名ではなく、法名です。

一庵の名前等については、次のような変遷をたどります。

  • 天正16年12月までは「一庵(壱庵)」。
  • 天正17年2月からは「大蔵卿法印」。天正16年12月~天正17年2月の間に大蔵卿法印に任官したとみられる。
  • 天正18年5月までは「一庵」であった(「大蔵卿法印」は官職名なので、「一庵」と両方を名乗っていたことになる)が、同年7月からはほとんど「一晏」に変わる。以降は死去まで変わらず。

次に、一庵の家族についてです。まず、父母については詳細不明です。ただ、母は文禄3(1594)年7月頃に死去しています。

一庵には妹がおり、その夫は四木甚左衛門という名前でした。甚左衛門は天正16年の古文書に名前がありますが、それ以外の詳細は不明な人物です。秀長の家臣であったと推定されています。

一庵の妻の姪には「やや」という人物がいました。

一庵には妻が2人(時期が重複するかは不明)おり、男子1人、女子3人も確認されています。

男子は詳細不明ですが、一庵には四郎三郎という子がいた可能性があるため、この男子と同一人物の可能性があります。ただ、四郎三郎は天正19(1591)年1月に自害したようです。

女子を上から順に①~③とすると、女子①は天正14(1586)年に存在が確認されます。この女子①は一庵と同じ秀長家臣である小堀正次の後妻となった人物と推定されています(文禄2年には男子・正春を出産)。

女子②は文禄2(1593)年6月6日に生まれ、翌年2月に死去したとみられます。女子③は文禄3年8月1日に生まれました。

妻は藤堂高虎の藤堂家に伝わった話で少し出自がわかります。ただしこの妻が2人の妻のどちらにあたるかは不明です。

一庵の妻は長越前守連久の次女で、藤堂高虎の養女です。藤堂家には、名前は「虎福」と伝わっています。姉は藤堂高虎の後妻(松寿院殿)であるため、高虎と一庵は義兄弟にあたります。ただし、高虎と松寿院殿が結婚したのは、大和豊臣家(=秀長の家)断絶後の慶長4(1599)年とされています。しかも、これは一庵の死去後なので、一庵生前には義兄弟の関係ではありませんでした。

一庵には後継者として民部少輔茂勝という人物が知られています。史料に登場する年代から、一庵の子の可能性は無く、あるとすれば弟や甥の可能性が考えられています。他に横浜玄助慶政という人物も一族の可能性があり、一庵の家臣の立場と考えられています。

なお、藤堂高虎は慶長13(1608)年に横浜内記正幸(16歳)という人物を500石で家臣として登用しています。この正幸は一庵の弟民部少輔正之の子とされています。年齢から、文禄2(1593)年の生まれということになります。

正之は民部少輔であることと、一庵の弟とあることから、茂勝の可能性が高いでしょう。茂勝は天正16(1588)年に30歳代と推定されており、正幸が文禄2年生まれというのは矛盾はありません。

横浜内記正幸は最終的に藤堂家で2,000石となり、子孫は後に1,000石になりますが、幕末まで藤堂家の重臣であり続けました。

正幸が高虎の家臣となる際の仲介を務めたのは小堀政一です。小堀政一は秀長の家臣であった小堀正次の子です。横浜一庵・藤堂高虎・小堀正次という秀長家臣時代の同僚関係が、正幸の登用に繋がったのでしょう。江戸時代になっても秀長時代の人間関係が生きていたということになります(もっとも、一庵死去後とはいえ一庵と高虎は義兄弟、高虎と小堀政一は舅と娘婿という血縁関係もありますが)。

一庵の経歴―秀長期―

前述のように出自がよくわからない一庵ですが、これも前述のように、初めて史料に登場するのは天正13(1585)年7月13日で、この時点で既に秀長の有力家臣であったとみられています。

同年閏8月に秀長は大和を与えられ、その後一庵は『多聞院日記』を中心に史料によく登場するようになります。全部は書けませんが、いくつか見ていきます(『羽柴秀長とその家臣たち』に書かれていない事も含みます)。

まず、秀長が大和を与えられた後、一庵は18,000石を領していました(大和拝領直後かは不明)。また、郡山城には「一庵丸(法印郭)」という郭を有していたようです。

天正13年9月、一庵は筒井郷(現在の大和郡山市)に、諸奉行・奉公人の不法行為の禁止等を通知しています。

同じ9月には秀長与力の伊藤祐時に、10月には多武峰に対し、知行帳を郡山城へ受け取りに来るように命じています。

11月、春日社に米80石を支給しています。

これらから、一庵は大和の領主や寺社への知行帳の交付を管轄していたことや財政を管轄していたことがわかります。

天正14(1586)年になると、1月に興福寺内部の紛争を調停しています。2月には在京して連歌の興行に参加しています。同じ2月には春日社の普請奉行として奈良へ赴いています。

3月には郡山での殺人事件に関する秀長の命令を、大坂から郡山へ通知しています。一庵は秀長の在京・在坂の多くに随行していたとみられ、そこから領国宛の秀長の命令を一庵が伝えています。

5月、秀吉・秀長の母親である大政所が高野山へ参詣しますが、一庵はそれに同行しています。6月には郡山を訪れた大政所の接待役を担います。

7月、一庵は京都で春日社の所領支配をめぐる紛争を裁定し、また、興福寺に対して秀吉が奈良を訪問することを伝えています。

9月には奈良の西大寺に伽藍での竹木採取禁止を保証するという、秀長の命令を伝えています。これは西大寺からの要請を一庵が秀長に取り次いだ結果と考えられています。

10月、秀長の妻である慈雲院殿(大河ドラマでは「慶」という名前ですが、あれは架空です。実名は不明なので、院号で呼んでいます。)が春日社参詣をする際に一庵も同行しています。

天正15(1587)年は九州出兵の年ですが、2月には出陣に関係する秀長の命令(船の用意、奈良に対する金銭の納入等)を一庵が伝えています。

秀長は九州へ出陣しますが、一庵は同行しませんでした。秀長出陣中は一庵の動向はほぼ不明であることから、一庵の動きは秀長の命令を受けてのものであった(一庵が秀長の近くにいないときは目立った動きが無い)ことがわかります。

5月には、後陽成天皇に鳥を献上しています。

8月、秀吉から興福寺に対して「かなふろ・同釜」の進上が命じられ、一庵に差し出されています。11月には興福寺の寺領の年貢未納分について、興福寺から支給を申請され、一庵はそれに同意しています。

天正16(1588)年5月、郡山町から貸付利息が進上される際に、一庵は一貫文を進上されています。このことから、一庵は郡山町の支配にも関わっていたことがわかるそうです。

12月には、藤堂良清(『羽柴秀長とその家臣たち』では藤堂高虎の家臣と書かれていますが、藤堂家の記録では家臣になったのは後のこととされています)から一庵・小堀正次宛に請状が出されています。この請状は、藤堂良清と秀長与力の多賀秀家との紛争に関して出された秀長の命令に対する請状です。この請状の内容を秀長へ報告するように(藤堂良清から)依頼されているので、一庵は小堀正次と共に、秀長家臣から秀長への取次役を担っていたと考えられています。

天正17(1589)年3月、後陽成天皇に紙・鳥・酒を献上しています。

4月、法隆寺からの要請をもとに、同寺の山木・下刈の採取について従来通りとするという、秀長の命令を伝えています。

9月には、以前に一庵が管轄して行った興福寺の築地が破損したことに立腹し、奉行を派遣しています。

12月、秀長に従って在京中に、秀長の病気回復のための祈祷を興福寺に依頼しています。その翌日には同様の祈祷のため、春日社に500石、東大寺に100石、西大寺と唐招提寺に各30石を与える等しています。

天正18(1590)年2月、再び興福寺へ秀長の病気回復の祈祷を依頼しています。

5月には郡山・奈良を訪問していた大政所の帰京にあたり、興福寺からの進物を取り次いでいます。

7月、秀長の妻・慈雲院殿の命令を受け、興福寺に秀長の病気回復の祈祷を命じています。ここでは慈雲院殿の意向を受けて、一庵が祈祷を差配しています。

10月には、秀長が病気の中、慈雲院殿の決裁により、大和の寺社領を秀長の入国以前のとおりに返還する旨を各寺社に伝えています。また、再び興福寺に秀長の病気回復の祈祷を命じています。

同じ10月には、有馬温泉で湯治中の秀吉へ「湯帷」を贈り、秀吉から礼状を与えられています。

12月、奈良大安寺の本堂が倒壊したことをうけ、修理することを通知しています。年末には小堀正次・井上高清とともに、興福寺に寺領15,000石を返還しています。

天正19(1591)年1月13日、秀長が危篤状態にあったことをうけ、興福寺に大般若経の執行を命じています。しかし、秀長は1月22日に死去しました。

さて、秀長の時期の一庵ですが、次のような役割がわかるとされています。

  • 秀長の側近くに仕え、奈良の寺社等に秀長からの命令を伝えていた。
  • 大和の領主・寺社に対する知行帳の交付や所領の画定を管轄していた。
  • 財政を管轄していた。
  • 寺社への年貢は秀長から支給する形になっており、それを管轄していた。
  • 郡山町の支配に関わっていた。
  • 奈良の寺社への祈祷命令やそれに対する寄進・布施の給付について差配していた。
  • 奈良の寺社の修造について差配していた。
  • 奈良の寺社内部の紛争について調停・裁定していた。

そのような一庵の地位については、他の秀長重臣とは大きく異なっていたとみられます。それは天正18年10月に秀吉が、秀長死去後(この時は秀長死去との誤報があった)に養子・秀保が相続し、その際には一庵が代官として秀保を守り立てるように命じているからです。実際に秀長が死去した直後にも、秀吉は万事一庵に従うように、秀長家臣に命じています。

黒田基樹氏は、秀長死去によって急に一庵が台頭したとは考えにくく、秀長死去以前も同様に一庵は重用されていたと考えています。

秀長死去後は(いや、秀長生前にも?)藤堂高虎が筆頭重臣のように言われます。私見ですが、実際は筆頭のような立場にあったのは横浜一庵ではないでしょうか。高虎の活躍や立場を否定するつもりはありませんが、一庵の重要性をもっと認識する必要はありそうです。高虎一強とは言えないのでしょう。

一庵の経歴―秀保期から死去まで―

天正19年の秀長の死去後、跡を継いだのは養子の秀保です。秀保は秀吉の姉・瑞龍院殿の養子です(年齢から、実子ではなく、養子とされています)。

相続当時の秀保はまだ13歳で、その治政は家臣の支えによるものでした。大和豊臣家の領国統治は横浜一庵と小堀正次の連名で行われました。ここでは一庵について見ていきますが、もちろん、一庵だけではなく、小堀正次や藤堂高虎等の他の重臣も活躍しています。

天正19年8月、一庵と小堀正次は郡山町に対し、地子(土地税)の免除を通知しています。

10月、秀吉から一庵に2,200石、小堀正次に800石が加増されています。このことから、両名の領国統治は秀吉の指示のもとで行われたとされています。

天正20(文禄元、1592)年3月、秀保は朝鮮出兵のために領国から出陣しました。一庵はこれには同行しませんでした(秀保には藤堂高虎等が従軍)。小堀正次等も残っており、領国統治に専従するためとみられています。

6月、一庵と小堀正次は領国内に対し、①郡山以外での酒造禁止、②郡山以外での市場設置の禁止、③他国から商売用の酒を持ち込むことの禁止 を通知しています。これらは今に始まったことではなく、秀長の大和入国以来の決まりであったと書かれています。

7月19日、藤堂高虎は朝鮮から一庵に書状を送っています(善福寺文書)。この書状は私の知る限り、一般にはほとんど知られていません。書状の中で高虎は、朝鮮での戦況や各武将の動きを詳細に知らせている他、一庵が紀伊国粉川(高虎の居城がある所)にいる高虎の父・虎高に細々と気遣いをしていることに礼を述べています。

9月、秀吉は一庵等に対し、京都・大坂・堺で金貸しをしている奈良の町衆を捕えるように命じています。

秀保は肥前国名護屋に在陣しますが、一庵・小堀正次等は戦費の補充等にあたります。12月、一庵は朝鮮在陣中であった秀保家臣の堀内氏善から兵糧米の補給を要請されています。

翌文禄2(1593)年1月、一庵は和泉国の「源衛門尉」という人物に対し、秀吉の命令を受けて朝鮮へ鉄炮の火薬を送るための船を出すように命じています。これには小堀正次も関わっていたようです。

5月、一庵と小堀正次は紀伊国の花井・河合という地域に対して、訴状の裁許を申し渡しています。

10月、秀保は大和に帰国します(『多聞院日記』)。

文禄3(1594)年1月、秀保は秀吉から大坂城・伏見城の普請を命じられます。これに際し、一庵は領国から資材や人足を集めています。

3月になると、秀吉は秀保に大和郡山城から多聞山城への移転を命じ、多聞山城の普請が始まります。この普請に伴い、3月と4月に豊臣秀次(秀保の義兄)は一庵等に「大和算用帳」を持参するように命じています。

翌文禄4(1595)年に入ると、3月末頃に秀保は体調を崩したとみられ、4月16日に死去します。『駒井日記』同月22日条では、秀保の養母・瑞龍院殿に伺候していた「大和衆」の中に一庵の名前があります。また、秀保の葬儀に際して道具を準備した者の中にも一庵の名前があります。

秀保の死去後、一旦は秀次の子が相続する方針となりますが、7月に秀次事件が起こったことでこの話は無くなり、大和豊臣家は断絶することとなりました。

大和豊臣家の家臣は、秀吉の直臣になった者(藤堂高虎等)、秀次の家臣になった者(羽田正親)等、様々でした。

一庵は秀吉の直臣になったと推定されています。大和豊臣家家臣時代の所領はそのまま安堵されたとみられますが、所在地や石高は不明です。文禄5(1596)年2月頃の時点では一庵と茂勝の2人合わせて20,000石とみられています。

そんな一庵の最期は突然訪れました。文禄5年閏7月12日、大地震が起こり、この時に伏見城の番をしていた一庵は建物の倒壊に巻き込まれて亡くなりました。享年48歳でした。

さて、秀長(と秀保)の重臣・横浜一庵について見てきましたが、一般にはほとんど知られていない一方で、有名な藤堂高虎と並ぶほどの重臣であったことがわかります。高虎とは活躍する分野は違ったのかもしれませんが、一庵も秀長・秀保にとって欠かせない家臣だったことでしょう。

《参考文献》

  • 播磨良紀「一庵法印なる人物について」(『和歌山市史研究』14、1986年)
  • 上野市古文献刊行会編『高山公実録』上巻(清文堂出版、1998年)
  • 上野市古文献刊行会編『公室年譜略』(清文堂出版、2002年)
  • 柴裕之『羽柴秀長』(角川選書、2025年)
  • 黒田基樹『羽柴秀長とその家臣たち』(角川選書、2025年)
  • 黒田基樹『羽柴秀長と藤堂高虎』(NHK出版、2025年)
  • 黒田基樹・柴裕之編『羽柴秀長文書集』(東京堂出版、2025年)

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