豊臣秀長の家臣~羽田正親とは~

豊臣秀長の家臣に羽田正親という家臣がいます。恐らく無名に近いでしょう。今年の大河ドラマ「豊臣兄弟!」にも登場しますが、どんな人物なのか?わかっていることは少ないですが、黒田基樹氏の『羽柴秀長とその家臣たち』を中心に見ていきます。

歴史の表舞台への登場

羽田正親の生没年・出自はともに不明です。史料で初めて登場するのは天正13(1585)年5月で、羽田忠兵衛(史料では平仮名)という名です。直後の史料には忠右衛門尉という名前で登場します。「兵衛」や「右衛門」という官職にある名前であることから、黒田氏はこの時30歳代であったとしています。そうであれば、秀長より少し年少ということになります。

この天正13年は本能寺の変の3年後です。秀吉は紀州や四国を攻めていく時期です。

紀州攻めでは、正親は高虎らと共に根来寺攻めを行っています。

6月8日、正親は白樫左衛門尉(紀伊の秀長与力)に四国出陣への従軍と、船材木の供出を通知しています。これは現在確認されている中で、正親が出した最初の書状です。この時点で秀長の有力家臣となっていたとみられています。

7月には秀吉から正親と横浜一庵(秀長の家臣)に対し、紀伊国雑賀にある兵糧米を四国在陣衆に給与するために引き渡すよう命じています。

天正14年5月、奈良の興福寺に対し、在京の秀長の命令を伝えています。このことから、正親は秀長の側近く仕えていたとされています。秀長の側にいるというと、横浜一庵も同じような立場です。

徳川家康との関係

正親は徳川家康との関係も見られます。

天正14年に家康は上洛しますが、その段階では家康への取次を務めています。

天正16年4月27日、正親は本願寺の下間頼廉に書状を出しています。この頃、家康が三河国の本願寺系の寺院に諸役を賦課しました。これに対し、本願寺は秀長に、家康が諸役を免除するように働きかけてほしいと依頼しました。秀長は家康に働きかけ、家康はそれに応じます。その結果を本願寺へ伝えたのが、この正親から下間頼廉への書状です。

また、この書状では正親は「長門守」と名乗っています。長門守になったのは、この下間頼廉宛の書状が出される直前であったとみられています。

秀長は家康に対する「指南」という役割を担っていましたが、その秀長のもとで正親が家康への取次役を務めていたとされています。

天正17年12月には、家康の子・長丸(後の秀忠)の上洛について世話をし、家康から礼を述べられています。

毛利家との関係

徳川家康以外に正親が取次を務めた大名として、毛利家(実際は毛利家家臣の小早川隆景)が見られます。

時期は少し戻りますが、天正15(1587)年8月、秀長が小早川隆景に送った書状の中で、正親が秀長と隆景の間に入っていることがわかります。

天正16年7月、福智長通・桑山重晴・藤堂高虎等(いずれも秀長の家臣)とともに毛利輝元より進物を贈られています。

9月にも、桑山重晴・福智長通・加藤光泰・池田秀雄・藤堂高虎等(いずれも秀長の家臣)とともに毛利輝元より進物を贈られています。

この9月に毛利輝元は秀長の居城がある大和国郡山に滞在しており、その宿所は正親の屋敷でした。この時に、正親の嫡男とみられる伝八という人物が確認できます。

熊野山奉行として

天正16(1588)年12月、熊野山奉行であった秀長の家臣・吉川平助が処刑されます。これにより、正親は藤堂高虎と共に熊野山奉行の代理となっています。

翌天正17年1~3月にも藤堂高虎と共に熊野山奉行を務めています。その中で、高虎と共に材木の調達等を行っています。

2月、秀長から正親・藤堂高虎に対し、熊野本宮社の造営が命じられます(11月完成)。

5月には熊野北山地域(前月に攻略)に藤堂高虎と共に赦免を保証する証文を出しています。

また、熊野とは関係ありませんが、9月、秀吉らが秀長の病気回復を祈るために大和国薬師寺に花瓶等を奉納します。その際、秀長家臣の中で横浜一庵・秋篠伝左衛門尉と共に正親が奉納しています。

天正18(1590)年1月、山内一豊に対し、吉川平助からの債務の返済が完了したことを、藤堂高虎と共に通知しています。これは吉川平助の業務を引き継いだためとみられています。

4月、杉若無心・多賀秀家(共に秀長の家臣)と共に、聚楽第にある大政所(秀吉・秀長の母)の屋敷の番を命じられています。

8月には、秀吉から藤堂高虎・杉若無心と共に、京都東山大仏(方広寺大仏)用の材木を送るように命じられています。これも熊野山奉行としての役割でしょうか。

秀長死去直後になりますが、天正19年閏1月6日時点でも、藤堂高虎・杉若無心と共に熊野山奉行代理とみられます。

秀長の死去と秀保のもとでの活動

天正19(1591)年1月22日、秀長が死去します。正親は、秀長の跡を継いだ養子・秀保に引き続き仕えます。

天正19年の1~6月の間とみられる、何らかの行列を示した史料には、秀保の行列に桑山重晴・池田秀雄等と共に正親の名前が見られます。

同年閏1~4月にかけて、正親・藤堂高虎・杉若無心は秀吉から、京都東山大仏の材木等を熊野から調達するように命じられています。

2月、上洛した秀保・慈雲院殿(秀長室)・秀保室に、正親は藤堂高虎・杉若無心と共に同行したとみられます。

天正20(1592)年1月末にあった後陽成天皇の聚楽第行幸(行幸とは、天皇がお出かけすること)において、行列に供をした秀保の家臣として、池田秀雄・宇多頼忠等と共に正親の名前が見られます。

3月、秀保は朝鮮出兵のために出陣します。朝鮮へは藤堂高虎・桑山一晴等が渡海し、秀保は九州の名護屋に在陣します。秀保と共に名護屋にいた家臣は正親・多賀秀家・小川祐忠等です。

同年11月の茶会において、秀保と共に正親等の家臣が参加しています。

文禄2(1593)年2月、この時正親は名護屋に在陣中とみられますが、東大寺に対して書状を出しています。内容は、東大寺の使者が秀吉に拝謁し、秀吉から朱印状が出されたこと、秀保も書状を出したこと、正親への贈物の礼です。少なくともこの頃の正親は秀保と東大寺をつなぐ役割を担っていたのでしょうか?

3月、秀吉は秀保に大和郡山城から多聞山城への移転を命じ、多聞山城の普請が始まります。この普請に伴い、3月と4月に豊臣秀次(秀保の義兄)は正親等に「大和算用帳」を持参するように命じています。

5月、郡山町から秀保への進物に対し、正親は礼を述べる書状を出しています、また、郡山町から正親へも贈物があったようで、それに対しても例を述べています。この時の正親は名護屋に在陣中です。

同じ5月、秀保が朝鮮在陣中の小早川隆景に対し、在陣を労う書状を送りますが、正親が両者の間に入っています。

8月、「伏見大光明寺」再建の勧進者の一人として正親の名前が見られます。

その他、年は不明ですが、大和国の長谷寺が秀保へ贈物をした事に対し、秀保が礼状を出します。正親はこの礼状で秀保と長谷寺の間に入っています。

秀保死去後の動向

文禄4(1595)年4月、正親の主君・秀保が死去します。

『駒井日記』同月22日条では、秀保の養母・瑞龍院殿に伺候していた「大和衆」の中に正親の名前があります。また、秀保の葬儀に際して道具を準備した者の中にも正親の名前があります。

秀保の死去後、一旦は豊臣秀次の子が相続する方針となりますが、7月に秀次事件が起こったことでこの話は無くなり、大和豊臣家(秀長・秀保の家)は断絶することとなりました。

主君を失った正親は、関白豊臣秀次の家臣となります。秀保死去後に秀次の家臣になったことがわかっているのは正親のみです。

しかし、同年7月に秀次が高野山で自害する秀次事件が起こります。これに伴い、正親は越前国北庄の堀秀治に預けられ、切腹させられました。後世の史料では8月24日のことであったとされ、40歳代半ばであったとみられます。

以上が羽田正親の生涯になります。秀長の重臣であったとみられますが、出自や家族をはじめ、あまり詳しくはわかっていないようです。ただ、これでも、大河ドラマで秀長が取り上げられたことをきっかけに、詳しくわかってきた方なのでしょう。

それは、秀次事件に伴い、正親が自害し、子孫が武士として残らなかった(=史料が残らなかった)ためかもしれません。

今後も大河ドラマを初め、「秀吉を支えた秀長」を支えた家臣たちの動向が明らかになるとよいですね。

黒田基樹氏の『羽柴秀長とその家臣たち』では、正親をはじめ、マニアック?な家臣についても詳しく紹介されています。他の家臣にも関心がある人は読んでみてはいかがでしょうか?

《参考文献》

  • 柴裕之『羽柴秀長』(角川選書、2025年)
  • 黒田基樹『羽柴秀長とその家臣たち』(角川選書、2025年)
  • 黒田基樹『羽柴秀長と藤堂高虎』(NHK出版、2025年)
  • 黒田基樹・柴裕之編『羽柴秀長文書集』(東京堂出版、2025年)

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