豊臣秀長の家臣~吉川平助とは?~

豊臣秀長の家臣・吉川平助。……って誰?って感じでしょうか?しかししかし、大河ドラマ「豊臣兄弟!」にも登場します。ということは、それなりの人物だったのでは?

今回はこの吉川平助についてみていきます。主に参考にするのは、黒田基樹氏の『羽柴秀長とその家臣たち』です。

歴史の舞台への登場

吉川平助は、元々は長浜の有力商人であったのではないか、と考えられています。

信長の時代に伊勢国大湊(現在の三重県伊勢市)から紀伊国紀伊湊までの船奉行であった、という後世の記録(『譜牒余録』)がありますが、黒田氏はこれは信用できないとしています。

それは、天正9(1581)年時点では秀吉の家臣であったことがわかっているからです(秀吉の家臣であれば、秀吉の管轄範囲を考えた場合、平助が大湊や紀伊湊に関わる権限は無い、ということでしょうか)。この年の6月、秀吉から但馬国城崎郡竹野浜(現在の兵庫県豊岡市)に使者として派遣されています。この派遣は、竹野浜衆を動員して、それを指揮することを目的としていました。

これは秀吉の鳥取城攻めに関係しており、水軍を率いる行動です。平助は元々水軍に長けていた人物であったとされます。

この時点では秀吉の家臣でしたが、では、いつ秀長の家臣になったのか?その時期はわかっていません。天正13(1585)年4月時点では秀長の家臣であったと考えられています。この時期は秀長が紀伊国を与えられた頃です。平助は紀伊湊を管轄し、伊勢国大湊までの海運を管轄する船奉行を務めたとされます。所領は7千石と伝わっています。

前述の『譜牒余録』の話は、この頃の平助の立場を、信長時代のものと勘違いして書かれたものでしょう。

秀長の家臣として

天正14年(←推定)11月、徳川家康を紀伊湊から大湊まで船で送っています。家康からは無事に到着したとの報告の書状をもらっています。

これまで、この家康を送った出来事は本能寺の変の時とされていましたが、黒田氏は天正14(1586)年であると推定しています。

天正16(1588)年、近江国長浜の与六いう人物に金銀を貸しています。この貸付けは、平助が元々長浜の有力商人であったことによるとみられます。これが返済されるのは天正18年です。

同年9~10月に秀長は熊野地域の大半を攻略しますが、これは平助の他、吉川三蔵・堀内氏善が大将として進められたといいます。

同年12月の『多聞院日記』(興福寺多聞院の僧の日記)には、平助は雑賀に城を築いていたとあります(この頃に完成したのか、以前に完成し、この時点で城主だったのか、どちらか不明)。雑賀城は紀伊湊を管轄する場所にあり、平助が紀伊湊を管轄することに伴って雑賀に城を築いたと考えられています。

この紀伊国は森林資源が豊富な土地で、材木については秀吉が直接管轄しました。その下で現地管理をしたのが平助で、熊野山奉行に任じられたとされます(船奉行でもあったため、水運による材木搬送ができた)。

突然の失脚

この天正16年、平助にとって運命の出来事が起こります。それは、平助が不正を行っていたとして秀吉によって処刑されたことです。家臣・平助の不正・処刑によって、秀長は「天下の面目を失う」こととなりました。

平助の不正とは、熊野の山から伐り出した2万本の材木を大坂に送って売り、多額の売り上げを得ていたことです。これが秀吉の知るところとなり、12月5日に奈良の西大寺で処刑されました。

熊野の材木伐採は秀吉の京都大仏の建造のためでした。熊野の材木の処分権は秀吉が持っていたと考えられ、平助は秀吉の命令を受けて材木を販売していたと考えられています。秀吉は平助の材木販売のあり方に容認できないところがあったらしいです。ただし、それ以上の詳細は不明です。

『多聞院日記』には、大阪での材木の販売で「過分」な売り上げを得たことが原因と書かれています。また、九州の島津氏の島津義弘(在京中)は、平助が材木関係で処罰されたと書状に書いています。

処罰については平助のみであり、秀長も平助の家族も処罰対象ではありませんでした。平助の財産は没収されましたが、吉川家は存続し、2代目平助も大和豊臣家(秀長の家)の家臣となっています。

天正18(1590)年に秀長が秀吉の命を受け、熊野那智山権現社を修理した際に、2代目平助が奉行を務めています。

処刑された平助の孫・庄兵衛は町人となりました。更に庄兵衛の子は京都三条通菱屋町に住んで、松屋庄太夫と称しました。

なお、天正18年1月、藤堂高虎と羽田正親が山内一豊(近江国長浜城主)に対し、長浜の与六が平助から天正16年に借りた金銀(前述)の返済が完了したことを通知しています。これは藤堂高虎と羽田正親が平助の業務を引き継いだためとみられています。

さて、吉川平助の生涯を見てきましたが、歴史の表舞台に登場してから亡くなるまでは10年も無く、とても短いです。そのためか、わかっている事も多くはありません。

豊臣秀長が大河ドラマになり、平助も登場します。これに伴い、平助の事が少しでも多く明らかにされたのかもしれません。それでもこれだけの量です。平助に関する古文書も少ないようです。謎に包まれていると言ってもいい平助の生涯が、もっと明らかになる日は来るのでしょうか。

《参考文献》

  • 寺沢光世「紀州雑賀城主吉川平助について」(柴裕之編『豊臣秀長』、戎光祥出版、2024年)
  • 黒田基樹『羽柴秀長とその家臣たち』(角川選書、2025年)
  • 黒田基樹・柴裕之編『羽柴秀長文書集』(東京堂出版、2025年)

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