2回天皇になった天皇・天皇にならなかった天皇・天皇になれなかった天皇・天皇ではなかった天皇1~重祚・称制など~

天皇と言えば、即位して天皇となり、譲位や崩御することで天皇ではなくなります。しかし、歴史上では例外的な天皇がいました。

まずは2回天皇になった天皇です。一度退位した後、再び天皇になっています。

次に、しばらく天皇にならなかった天皇です。最終的には天皇になっています。

次は、天皇になれなかった天皇です。「それは天皇じゃないでしょう」と言われるかもしれませんが、天皇なのです。

最後は、天皇ではなかった天皇です。これも「それは天皇じゃないでしょう」と言われるかもしれませんが・・・。

今回・次回でそんな異例の天皇を紹介します。

即位・践祚・重祚・称制

まずは即位に関する言葉を説明します。

①践祚と即位

天皇になることを「即位」と表現することが多いのではないかと思います。一般的にイメージするのは、①前天皇が崩御して、間も無く跡を継ぐこと、②前天皇が生前に退位して、その跡を継ぐこと、の2通りでしょうか。しかし、これは「即位」とは限りません。

即位と似た意味の言葉に「践祚(せんそ)」があります。時系列にすると、践祚が先で即位が後になります。

践祚というのは、本来は即位と同じ意味でしたが、桓武天皇の崩御後から意味が変わりました。桓武天皇の崩御後、ただちに剣璽(剣と印鑑)が次の平城天皇に伝えられ、これが「践祚」となりました、後日、即位の儀が行われ、これで「即位」となります。

前天皇の崩御→ただちに剣璽が次の天皇に伝えられる(践祚)→後日、即位の儀によって即位という順になります(ただし、崩御と践祚は同日とは限らず、少し日が空くこともあった)。

例えば、大正天皇が大正15(1926)年12月25日に崩御し、同日中に昭和天皇が践祚しました。昭和天皇の即位は約2年後の昭和3(1928)年11月10日でした。

一方、戦国時代の後奈良天皇は弘治3(1557)年9月5日に崩御しますが、次の正親町天皇が践祚したのは同年10月27日でした。即位は永禄3(1560)年1月27日でした。

以下では、紛らわしいので、践祚も含めて「即位」と表記します。

②重祚

次に「重祚(ちょうそ)」です。これは一度退位した天皇が再び即位することを言います。該当する天皇は2人おり、ともに古代で女性天皇です。

1人は皇極天皇で、重祚して斉明天皇になりました。もう1人は孝謙天皇で、重祚して称徳天皇になりました。

③称制

最後は称制(しょうせい)です。称制とは即位しない(天皇にならない)まま、天皇としての政務を執ることです。これも2人おり、共に後に天皇になっています。しばらく天皇にならなかった天皇です。

1人は有名な中大兄皇子(後の天智天皇)です。もう1人は壬申の乱で有名な天武天皇の皇后であった鸕野讚良皇女(うののさららのおうじょ、後の持統天皇)です。

では、重祚・称制と、天皇になれなかった天皇、天皇ではなかった天皇について、それぞれ見ていきましょう。時代が前後するとややこしくなるので、時代順に見ていきます。

2回即位した天皇①~皇極・斉明天皇~

まず、重祚(2回即位)した1人目の天皇・皇極(斉明)天皇についてです。

皇極天皇は第35代の天皇です。重祚した後は第37代の斉明天皇となりました。

皇極天皇は敏達天皇(皇后は推古天皇)の曾孫で、舒明天皇(推古天皇の次の天皇、皇極天皇の伯父)の皇后です。中大兄皇子(天智天皇)・大海人皇子(天武天皇)の母でもあります。推古天皇に続く女性天皇です。

夫の舒明天皇の崩御の翌年(642年)に即位しました。

舒明天皇の崩御時点では他にも皇位継承候補者はいました。舒明天皇と皇極天皇の子である中大兄皇子、舒明天皇と蘇我馬子の娘との子である古人大兄皇子、厩戸皇子(聖徳太子)と蘇我馬子の娘との子である山背大兄王が主な候補者でした。

しかし、いずれの候補者もまだ若く、即位するには適齢ではありませんでした。これが皇極天皇が即位した理由と考えられています。

皇極天皇の時代には、教科書にも載っている出来事が起こります。それは645年に起きた乙巳の変とそれに続く大化の改新です。

「乙巳の変」とは中大兄皇子・中臣鎌足等が蘇我入鹿を倒した事件(皇極天皇臨席の儀式の場で事件が起きた)で、「大化の改新」とはその後に行われた新たな政治を指します。「大化の改新」が蘇我入鹿を倒した事件と思われがちですが、それは誤りです。

この乙巳の変後、皇極天皇は弟の軽皇子(孝徳天皇)に譲位しました。平成31(令和元)年に久しぶりの生前譲位が行われましたが、日本史上で確認できる最初の譲位は、皇極天皇から第36代・孝徳天皇への譲位です。

大化の改新の中で、都が難波に移されますが、やがて中大兄皇子は飛鳥へ戻ることを申し出ます。孝徳天皇はこれに反対しますが、中大兄皇子は母である皇祖母尊(皇極天皇の退位後の名称)と孝徳天皇の皇后である間人皇后(中大兄皇子の妹)と一緒に飛鳥に戻ってしまします。

難波に残された孝徳天皇は白雉5(654)年に崩御します。

翌年、退位していた皇祖母尊(皇極天皇)が再び即位して第37代・斉明天皇となりました。譲位だけでなく、重祚したのも斉明天皇(皇極天皇)が史上初めてです。

孝徳天皇の崩御時点では、天皇の子である有間皇子がいました。しかし、当時16歳前後で、即位するには若過ぎたと考えられます。そこで、他の候補者であった皇祖母尊(皇極天皇)と中大兄皇子の親子の内で、皇祖母尊(皇極天皇)が再び即位しました。

斉明天皇は土木工事を盛んに行い、中には「狂心の渠(たぶれごころのみぞ)」と揶揄されるものもありました。

また、有力な皇位継承候補者であった有間皇子が謀反の疑いで殺害されました。有間皇子が亡くなったことにより、皇位継承候補者は中大兄皇子だけになりました。

斉明天皇の時代、660年には朝鮮半島にあった百済(日本と友好関係にあった国)が唐・新羅連合軍に敗れ、遺臣が日本に救援を求めてきました。

斉明天皇は、百済を救援するために661年に筑紫(九州)の朝倉宮へ赴きます。しかし、その朝倉宮で急死します。

その後は中大兄皇子が即位しないまましばらく政治を行い、やがて即位して天智天皇となりました。

しばらく天皇にならなかった天皇①~天智天皇~

天智天皇は中大兄皇子の名でも有名です。皇極(斉明)天皇のところで書いたとおり、皇極(斉明)天皇の子で、乙巳の変では中臣鎌足と共に蘇我入鹿を倒しました。

孝徳天皇・斉明天皇の時代にも政権の中にいましたが、661年の斉明天皇の崩御の後、中大兄皇子が政治を行うことになりました。しかし、中大兄皇子は即位することなく、称制のまま政治を行いました。

中大兄皇子は斉明天皇の百済救援を引き継ぎ、百済へ救援軍を派遣しました。しかし、663年の白村江の戦い(日本・百済連合軍 対 唐・新羅連合軍)で大敗しました。

この敗戦を受け、中大兄皇子は飛鳥へ戻ります。また、664年には唐への警戒のため、対馬・壱岐・筑紫に防人(さきもり)・烽(とぶひ)を設け、筑紫に水城(みずき)を築きました。水城は現在も一部が太宰府市に残っています。また665年から667年にかけて瀬戸内海沿岸等に朝鮮式山城を築きました。

667年、中大兄皇子は近江の大津宮に遷都し、翌年に即位して第38代・天智天皇となりました。称制の期間は661年から668年まででした。

天智天皇の時代には官僚機構の整備、庚午年籍(戸籍)の作成等が行われました。

天智天皇は671年に崩御しますが、その後、子の大友皇子と弟の大海人皇子(後の天武天皇)による内乱(壬申の乱)が起こることになります。

天皇になれなかった天皇~弘文天皇~

弘文天皇とは大友皇子のことで、天智天皇の子です。母は天智天皇の皇后・倭姫以外の女性でした。671年に史上初の太政大臣となり、天智天皇の弟である大海人皇子よりも高位になりました。

同年、天智天皇の病状が悪化します。大海人皇子は病床に呼ばれ、後事を託されます。しかし、大海人皇子は天智天皇の皇后・倭姫の即位と大友皇子の立太子(皇太子になること)を進言して出家します。数日後には吉野に入りました。

ちなみに、当時は同世代の人物が存在する場合には兄弟で皇位継承がなされることになっていたようです。しかし、天智天皇は「不改常典の法」を定め、直系で皇位継承することとしました。これは大海人皇子ではなく、子の大友皇子の即位を目指したためと推定されています。

大海人皇子の辞退により、671年12月に天智天皇が崩御すると、近江の朝廷は大友皇子が中心となって運営されることになりました。

しかし、翌672年5月に大海人皇子は吉野を脱出し、壬申の乱が起こります。7月22日、近江の瀬田川で決戦が行われ、大海人皇子側が勝利します。敗れた大友皇子は翌23日に自害しました。

奈良時代の漢詩集『懐風藻』では大友皇子は皇太子と記されています。また、平安時代中期以降の史料では大友皇子は即位していたと書かれているものがあります。

江戸時代には、「大友皇子は即位したが、『日本書紀』では編者の舎人親王(大海人皇子=天武天皇の子)が即位の事実を故意に記さなかった」という説が唱えられます。

通常、天皇は崩御後に「聖武天皇」といった名前(諡号という)が付けられるのですが、大友皇子は付けられていませんでした。それが、明治3(1870)年になって、明治天皇により弘文天皇の名が贈られました。弘文天皇は第39代にあたります。

明治以降は天智天皇の皇后・倭姫の即位説や称制説も唱えられました。

さて、今回はここまでです。壬申の乱で勝利した大海人皇子は即位して第40代・天武天皇となります。この後も称制や重祚が見られます。次回も引き続きそれらを見ていきます。

《参考文献》

  • 『日本史広辞典』(山川出版社、1997年)
  • 米田雄介編『歴代天皇年号事典』(吉川弘文館、2003年)
  • 吉村武彦『女帝の古代日本』(岩波書店、2012年)

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