豊臣秀長の家臣では有名な部類に入る小堀正次。それは正次が江戸時代まで生き抜き、子の正一にバトンを繋いだことが大きいかもしれません(正一がいなければ、正次はそこまで有名でなかったかも?)。
正一は小堀遠州の名で有名な茶人であり、大名です。このブログでも紹介した藤堂高虎の養女は正一に嫁いでいます。その婚姻には、高虎と正次の秀長家臣時代の同僚関係があったのかもしれません。
今回は秀長家臣時代の正次について、例の如く黒田基樹氏の『羽柴秀長とその家臣たち』を中心に、古文書も交えて見ていきます。
小堀正次の出自・名前・家族
小堀正次は、浅井氏家臣・小堀正房の次男として天文9(1540)年に生まれました。秀長と同い年です。なお、天正18(1590)年の『多聞院日記』には正次は49歳と書かれているため、天文11(1542)年生まれの可能性もあります。
母は浅井新兵衛尉の娘です。
正次の通称は新介です。正次の名で知られていますが、天正11(1583)年12月~同12年9月の間だけは秀言と名乗っています。
正次の兄弟としては、兄に三右衛門尉という人物がいます。天正12(1584)年5月に秀長の領国であった播磨国(現在の兵庫県)加東郡の清水寺からの申請に対し、秀長からの回答を伝える書状が残っています。三右衛門尉も正次と同じく秀長の家臣であったことがわかります。天正16年8月26日に病死したとされています。
正次の妻としては、1人目に池田秀雄の娘、2人目に磯野員昌の娘がいる他、横浜一庵の娘もいます。
池田秀雄は初め六角氏家臣、後に信長・秀吉の家臣でしたが、天正14年11月時点では秀長の家臣となっています。磯野員昌の娘よりも先に結婚していたとすると、員昌娘との結婚は後述のように天正5年頃と推定されているので、正次と池田秀雄の娘の結婚は天正5年以前となります。その時点では秀雄は信長の家臣と考えられるでしょうか。
横浜一庵も秀長の重臣でした。詳細は以下の記事をご覧ください。
磯野員昌は浅井氏家臣、後に織田信長家臣です。
磯野員昌は藤堂高虎が一時期仕えた主君でもあります。ここでも高虎が関係していそうですが、高虎が磯野員昌に仕えたのは天正元年頃とされています。一方、正次と員昌の娘の結婚時期である天正5年頃、高虎は既に秀長に仕えています。高虎が旧主君・員昌の娘と同僚の正次の間を取り持ったという想像もできますが、史料的には正次の結婚に高虎が関係しているかはわかりません。
正次と磯野員昌の娘との間には、天正7(1579)年に嫡男正一(後の遠州)が生まれます。このことから、黒田基樹氏は、結婚は天正5年頃かと推定しています。
員昌の娘は天正20(1592)年6月に死去しました。院号は長寿院殿です。
正次の子としては、正一が生まれるよりも前に男子(後の池田七左衛門)と長女(伊藤掃部の妻)が生まれています。但し、池田七左衛門は池田秀雄と磯野員昌の娘との間の子(正一の異父兄)という説もあります。
正一に次いで正行・二女・正長・正春・宗栄といった子がいました。この内、正行・正長・宗栄の母は磯野員昌の娘、正春の母は横浜一庵の娘です。
また、養子として小堀久左衛門という人物がいます。
以上が正次の出自や家族です。
正次の経歴―秀長期―
正次が史料に初めて現れるのは天正9(1579)年10月です。もっとも、正次の名が出てくるのではなく、「小堀内 寺本久内」とあります。「小堀内」というのは小堀の内、つまり「小堀の家臣」という意味です。この「小堀」が正次とされています。
この史料は、秀長の領国であった但馬国城崎郡馬庭村(現在の兵庫県)に対し、馬庭村内の地の帰属について通知するものです。少なくともこの時点では秀長の家臣であったことがわかります。
天正11(1583)年9月~翌12年9月は秀長領国の播磨国多可郡・加東郡の寺社支配を行っています。寺社への所領確定の業務を担っていたとされています。
天正13(1585)年、秀長が紀伊・和泉・大和国を所領とします。正次はここで村落統治に関する業務を行います。
まず紀伊国では天正13年閏8月、正次は検地奉行として各村に派遣されることとされています。但し、実際に紀伊国で検地が行われたのは天正15~19年で、正次は検地奉行を務めました。
同じ閏8月、正次は和泉国の瓦屋庄という地域に対して政所役(村での年貢納入の取りまとめ役)を任命しています。これは検地の結果を受けてのものとされ、和泉国でも検地奉行を務めたと推定されています。
大和国での業務は翌天正14(1586)年に確認されます。2月から10月にかけて、興福寺への寺領帳交付といった、寺領に関する業務等を行っています。
10月には秀長の長谷寺(現在の桜井市)に対する命令に関し、正次は副状(そえじょう)を出しています。副状とは、主君の命令書や手紙に附属して出される家臣の手紙等です。
11月、秀長から奈良の法隆寺への60石加増を受けて、法隆寺から、①秀長の命令を遵守する旨の請文(承諾書のようなもの)と、②東寺との紛争に関する請文が正次宛に出されています。正次宛である理由は、加増の差配を行ったのが正次であったためと考えられています。
興福寺への寺領帳交付や法隆寺への加増については、天正13~14年の大和国の検地(正次の関与は不明)を受けてのものとされます。正次の検地への関与が確認できるのは、天正15(1587)年10月の十津川郷の検地で、検地奉行を務めています。
天正15年11月に正次は十津川郷の玉置山に検地免除を通知し、玉置下郷と十津川上二村に、秀長からの諸役賦課は全て秀長発給の公文書によることを通知しています。
天正16(1588)年5月、郡山町から貸付利息を進上する際、正次に1貫文が進上されています。このことから、正次は郡山町支配にも関与していたことがわかります。
同年10月、紀伊国熊野北山地域の攻略に関し、十津川郷玉置山篠坊から正次に対し、北山地域の赦免が申請されています(十津川郷と北山地域は親密な関係にあった)。
12月には、藤堂良清(『羽柴秀長とその家臣たち』では藤堂高虎の家臣と書かれていますが、藤堂家の記録では家臣になったのは後のこととされています)から正次・横浜一庵宛に請状が出されています。この請状は、「藤堂良清と秀長与力の多賀秀家との紛争に関して出された秀長の命令」に対する請状です。この請状の内容を秀長へ報告するように(藤堂良清から)依頼されているので、正次は横浜一庵と共に、秀長家臣から秀長への取次役を担っていたと考えられています。
天正17(1589)年には再び興福寺との関係が現れます。2月、興福寺に信読大般若経の執行を命じています。8月には興福寺一乗院で芸能が奉納された際に、正次は大夫を務めました。
9月、横浜一庵・秋篠伝左衛門尉と共に、興福寺の東面築垣の角から北60間を築いています。
翌天正18(1590)年1月にも興福寺に信読大般若経の執行を命じています(正次の個人的な要請)。
4月には郡山町に対し、同町が執行した秀長の病気回復祈祷の巻数(僧が読んだ経典等の名前や数を書き上げた文書)と願状を秀長に取り次いだと報告しています。
同月、秀長から興福寺吉祥院に作事への褒美が与えられますが、これが正次から支給されています。
これらのことから、正次は奈良町や郡山町で秀長の財務管理を行っていたとされます。
年末には秀長の病気回復祈念に伴い、横浜一庵・井上高清とともに、興福寺に寺領15,000石を返還しています。
翌天正19(1591)年1月にも興福寺に信読大般若経の執行を命じています。
以上が秀長期の正次の動向です。正次の役割としては次のようにまとめられます。
- 大和・紀伊・和泉の各国で正次は検地奉行を務めた。
- 秀長の側近として秀長への取次役を務めた。
- 秀長家臣や寺社に対する所領引渡しに関与した。
- 大和国では奈良町・郡山町で秀長の財務管理にあたった。
秀長が但馬国や播磨国を領国としていた時期と合わせると、正次は一貫して検地奉行を務め、それに伴う業務や財務管理にあたっていたとみられます。
正次の経歴―秀保期―
秀長は天正19(1591)年1月22日に死去しました。跡を継いだのは養子の秀保です。秀保は秀吉の姉・瑞龍院殿の養子です(年齢から、実子ではなく、養子とされています)。正次は秀長の跡を継いだ秀保に引き続き仕えます。
相続当時の秀保はまだ13歳で、その治政は家臣の支えによるものでした。大和豊臣家(=秀長・秀保の家)の領国統治は正次と横浜一庵の連名で行われました。
天正19年8月、正次と横浜一庵は郡山町に対し、地子(土地税)の免除を通知しています。
9~10月に正次によって紀伊国高野山領の検地が行われ、10月には検地帳が作成されています。これをもって秀長統治時代から続いてきた領国の検地が完了しました。
10月には秀吉から横浜一庵に2,200石、正次に800石が加増されています。このことから、両名の領国統治は秀吉の指示のもとで行われたとされています。
天正20(文禄元、1592)年1月、秀長の恐らく1周忌のための千部経執行を法隆寺が直前に断ってきたことに対し、正次は「座配」(席の順序)を決めるので、実施するように指示しています。法隆寺が断った原因は「色々存分にて」としか書かれていないので、詳細は不明です。ただ、正次が座配について決めているので、法要の際の着席順序で争いがあり、収拾がつかずに実施困難になったのかもしれません。
3月、秀保は朝鮮出兵のために領国から出陣しました。正次はこれには同行しませんでした(秀保には藤堂高虎等が従軍)。横浜一庵等も残っており、領国統治に専従するためとみられています。
6月、正次と横浜一庵は領国内に対し、①郡山以外での酒造禁止、②郡山以外での市場設置の禁止、③他国から商売用の酒を持ち込むことの禁止 を通知しています。これらは今に始まったことではなく、秀長の大和入国以来の決まりであったと書かれています。
翌文禄2(1593)年1月、横浜一庵が和泉国の「源衛門尉」という人物に対し、秀吉の命令を受けて朝鮮へ鉄炮の火薬を送るための船を出すように命じています。これには正次も関わっていたようです。
秀保は肥前国名護屋に在陣しますが、正次・横浜一庵等は戦費の補充等にあたります。5月には、正次は和泉国熊取・中庄・瓦屋村から1,000石を供出させ、名護屋に送っています。
同じ5月、正次と横浜一庵は紀伊国の花井・河合という地域に対して、訴状の裁許を申し渡しています。
文禄4(1595)年に入ると、3月末頃に秀保は体調を崩したとみられます。
3月末には、高野山が秀保への見舞いの使者を派遣して銀子を贈りました。これに対し、秀保は書状(恐らく礼状)を出し、正次は副状を出しています。なお、この時は高野山から正次にも銀子が贈られています。
秀保は4月16日に死去します。『駒井日記』同月22日条では、秀保の養母・瑞龍院殿に伺候していた「大和衆」の中に正次の名前があります。また、秀保の葬儀に際して道具を準備した者の中にも正次の名前があります。
正次の経歴―秀保死去後―
秀保の死去後、一旦は豊臣秀次(秀保の義兄)の子が相続する方針となりますが、7月に秀次事件が起こったことでこの話は無くなり、大和豊臣家は断絶することとなりました。
大和豊臣家の家臣は、秀吉の直臣になった者(藤堂高虎等)、秀次の家臣になった者(羽田正親)等、様々でした。
正次は秀吉の家臣となります。秀保家臣の時期までは2,000石であったとみられており、秀吉家臣となったことで3,000石を加増され、合計5,000石となります。
ただ、この内の2,000石は三男・正行に分与し、正次は3,000石となります。
これ以降の正次については簡単に述べます。
文禄4(1595)年8~9月、秀保に代わって大和国郡山を領した増田長盛のもとで検地奉行を務めます。
秀吉死去後の慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いでは、徳川家康に味方し、同年12月に備中国松山で15,000石を与えられました。
正次は家康のもとで大久保長安・板倉勝重と共に畿内の政務に携わります。
慶長6年には伏見城内の作事奉行、同7年には近江国の検地奉行を務め、同8年には備前国の仕置役になります。
しかし、同9年に江戸へ向かう途中、2月29日に相模国藤沢で急死しました。65歳でした。正次の担った役割は子の正一(遠州)へと引き継がれました。正一は茶人として有名ですが、行政手腕も優れていました。それは父・正次譲りであったのかもしれません。
《参考文献》
- 上野市古文献刊行会編『高山公実録』上巻(清文堂出版、1998年)
- 深谷信子『小堀遠州の茶会』(柏書房、2009年)
- 柴裕之『羽柴秀長』(角川選書、2025年)
- 黒田基樹『羽柴秀長とその家臣たち』(角川選書、2025年)
- 黒田基樹・柴裕之編『羽柴秀長文書集』(東京堂出版、2025年)


.jpg)
コメント