前回は史上初めて重祚した皇極(斉明)天皇、しばらく天皇にならなかった天智天皇、天皇になれなかった大友皇子(弘文天皇)を紹介しました。大友皇子を破った天武天皇が即位しますが、天武天皇の崩御後は再び重祚や称制が続きます。
最後には、天皇ではなかった天皇も見ていきます。
しばらく天皇にならなかった天皇②~持統天皇~
持統天皇は天智天皇の娘で天武天皇の皇后です。2人が結婚したのは斉明天皇の時代でした。持統天皇の名は鸕野讚良皇女(うののさららのおうじょ)で、持統天皇が即位するまでは「鸕野皇后」と表記します。
天武天皇は壬申の乱で勝利し、即位します。その治世は略しますが、病気がちとなった晩年の朱鳥元(686)年7月に、鸕野皇后と子の草壁皇子(母は鸕野皇后)に政務を委ねます。9月9日に天武天皇は崩御します。
天武天皇の崩御後、鸕野皇后は即位せずに称制のまま政治を行います。
当時、皇位継承の有力候補者としては皇太子・草壁皇子と大津皇子が有力でした。
大津皇子は天武天皇の子ですが、母は大田皇女(天智天皇の娘。鸕野皇后の同母姉。)でした。しかし、天武天皇崩御の直後に大津皇子は謀反の疑いで捕らえられ、自害させられます。
こうして草壁皇子が唯一の皇位継承の有力候補者になりますが、約2年半後の689年4月に草壁皇子は亡くなってしまいます。
草壁皇子には軽皇子(持統天皇の孫、後の文武天皇)がいましたが、まだ7歳でした。称制を行っていた鸕野皇后は軽皇子の成長後に皇位継承させることにしたと考えられています。
鸕野皇后は689年に、高校の教科書にも載っている、飛鳥浄御原令という法令を施行しました。
そして、690年に即位して第41代・持統天皇となりました。即位したその年には全国的な戸籍である庚寅年籍を作りました。
694年には藤原京に遷都しました。藤原京は碁盤目の区画を持つ、初の本格的な都城です。
696年、天武天皇の第一皇子(母は持統天皇以外の身分の低い女性)で、持統天皇のもとで太政大臣として政務を執っていた高市皇子が亡くなりました。その翌年の697年2月、軽皇子(15歳)が皇太子となりました。このことから、高市皇子の存命中には軽皇子が皇太子になることは不可能であったと考えられています。
同年8月に持統天皇は軽皇子(第42代・文武天皇)に譲位しました。持統天皇は退位後も文武天皇と共に政治を行いました。
大宝元(701)年には有名な大宝律令ができ、翌2年に持統天皇は崩御しました。
2回即位した天皇②~孝謙・称徳天皇~
孝謙天皇は名を阿倍内親王といい、第45代・聖武天皇と光明皇后(藤原不比等の娘)の娘です。
天平10(738)年、女性として初めて皇太子となりました。これまでの女性天皇は全て皇太子にならないまま即位していました。
この時点で聖武天皇の子は、藤原氏の血も引いている(母が藤原不比等の娘)阿倍内親王と、母が藤原氏出身ではない安積親王の2人のみでした。聖武天皇の皇后・光明皇后は38歳で、更なる子の誕生は難しい状況でした。
このような中で、天武・持統天皇系統(聖武天皇は両天皇の曾孫。天武・持統天皇―草壁皇子―文武天皇―聖武天皇―阿倍内親王。)と藤原氏系統の血を引く人物を天皇とするために、女性である阿倍内親王が選ばれたと考えられています。
阿倍内親王(孝謙天皇)は退位後に、「光明皇太后が草壁皇子の血統を絶やさないために、女性であるものの、自分(阿倍内親王)に皇位を継がせた」と述べています。
ちなみに、安積親王は阿倍内親王が皇太子となった6年後に亡くなっています。
そして天平勝宝元(749)年7月、聖武天皇は譲位し、阿倍内親王が即位して第46代・孝謙天皇となりました。
孝謙天皇の時代は、母の光明皇太后と藤原仲麻呂(不比等の子である武智麻呂の子。光明皇太后の甥。)が政治の中心にあり、徐々に仲麻呂が実権を掌握していきました。
天平宝字2(758)年、孝謙天皇は譲位し、太上天皇(譲位した天皇の呼称)となりました。この譲位は、母の光明皇太后が病気になったことと、藤原仲麻呂の意向によるものと考えられています。
新たに即位したのは大炊王(第47代・淳仁天皇)です。淳仁天皇は草壁皇子の弟・舎人親王の子です。
藤原仲麻呂には子・真従がいましたが、既に亡くなっていました。その真従の妻が淳仁天皇の妻となっています。
天平宝字4(760)年、光明皇太后が亡くなりました。
この後、孝謙太上天皇は僧・道鏡を寵愛し始めます。道鏡が孝謙太上天皇を看病したためとされています。淳仁天皇は道鏡の寵愛に反対します。両者の対立は表面化し、孝謙太上天皇・道鏡と淳仁天皇・藤原仲麻呂の対立となります。
やがて天平宝字8(764)年に藤原仲麻呂はクーデターを起こそうとしますが、敗れます。淳仁天皇も加担したとして廃位され、淡路国へ流罪となります
クーデター鎮圧の直後、孝謙太上天皇が再び即位(重祚)し、第48代・称徳天皇となりました。しかし、実は重祚を示す具体的な史料は無いそうです。淳仁天皇廃位の5日後に、孝謙太上天皇が皇太子(この場合、淳仁天皇の次に天皇になる人物)を定めない事を宣言しており、これが孝謙太上天皇の重祚を意味するとされています。
称徳天皇は道鏡を引き続き重用します。在位期間中には、道鏡を天皇にすべきという宇佐八幡宮の神託があったとすることに対し、和気清麻呂がそれを否定する八幡神の神託を伝えた「宇佐八幡宮神託事件」が起きています。
神護景雲4(770)年、称徳天皇は崩御します。即日、天智天皇の孫の白壁王が皇太子となり、道鏡は白壁王により追放されました。称徳天皇の崩御から約2か月後に白壁王は即位し、第49代・光仁天皇となりました。ちなみに、光仁天皇の跡を継いだのは子の桓武天皇です。
この称徳天皇から光仁天皇への皇位継承により、皇位は天武天皇系統から天智天皇系統に移りました。そして、称徳天皇を最後に、江戸時代初めの明正天皇まで859年間、女性天皇は途絶えます。なお、明正天皇の母は江戸幕府2代将軍・徳川秀忠の娘・和子(東福門院)です。
天皇ではなかった天皇
「天皇ではなかった天皇」とは、天皇として即位しなかったものの、後に天皇号を贈られた人物です。全部で4人います。
①岡宮天皇(草壁皇子)
草壁皇子は天武天皇と持統天皇(鸕野皇后)の子です。持統天皇のところで書いたように、草壁皇子は天武天皇崩御後の有力な皇位継承候補者の一人でしたが、689年に亡くなってしまいます。
子の軽皇子はまだ7歳であったため、天武天皇崩御後に称制を行っていた鸕野皇后は引き続き称制のまま政治を行いました。鸕野皇后は690年に即位して持統天皇となりました。
697年2月、軽皇子(15歳)が皇太子となり、8月に持統天皇は軽皇子(文武天皇)に譲位しました。
草壁皇子の妻は後の元明天皇、子には軽皇子(文武天皇)の他に、元正天皇等がいます。
持統天皇の後、文武天皇、元明天皇(草壁皇子妃、文武・元正天皇の母)、元正天皇の順に即位しました。
天平宝字2(758)年、文武・元正天皇の父であることを理由として、草壁皇子は岡宮天皇の名を贈られました。
②崇道尽敬皇帝(舎人親王)
舎人親王は天武天皇と新田部皇女(天智天皇の娘)の子です。孝謙・称徳天皇のところで登場した淳仁天皇の父です。『日本書紀』の編纂者として有名です。
元正天皇・聖武天皇のもとで政界の重鎮でしたが、天平7(735)年に流行した天然痘により舎人親王は亡くなりました。天然痘は2年後に再び流行し、当時政界を牛耳っていた藤原四子(不比等の子)も相次いで亡くなっています。
舎人親王の子・淳仁天皇が即位した翌年の天平宝字3(759)年、天皇の父であることを理由として崇道尽敬皇帝の名を贈られました(「天皇」の2字は入っていませんが)。
③春日宮天皇(施基親王)
施基親王は天智天皇の子で、称徳天皇の崩御後に即位した光仁天皇の父です。
亡くなったのは霊亀2(716)年とされています。光仁天皇は神護景雲4(770)年に即位しますが、天皇は即位と同年に、天皇の父であることを理由として施基親王へ春日宮天皇の名を贈りました。
④崇道天皇(早良親王)
早良親王は光仁天皇の子で桓武天皇の弟(母も同じ)です。怨霊としてその名を知っている人もいるでしょう。
天応元(781)年の桓武天皇の即位と共に皇太子となりました。
ところが、延暦4(785)年に藤原種継暗殺事件が起きます。これに関して、早良親王を皇位につけようとする計画があったとして、親王は幽閉されました。その後、淡路国に移されることになりますが、親王は朝廷によって飲食を絶たれ、移送途中に亡くなりました。
早良親王は皇太子でしたが、皇太子を廃され(皇太子ではなくなる)ました。代わって皇太子になったのは、桓武天皇の子・安殿親王(後の平城天皇)でした。
早良親王の没後、桓武天皇の周辺では不幸な出来事が相次いだようで、早良親王の祟りであると考えられるようになりました。そして、遅くとも親王の没後約5年が経った延暦9(790)年に親王の霊を鎮めるための対応が実施され、以降も次々に行われます。
桓武天皇が造営した長岡京でも災害が起こり、長岡京は廃止されます。早良親王の祟りから逃れるためと考えられています。
その中で延暦19(800)年、早良親王に対して崇道天皇の名が贈られました。
これまでの3人はいずれも天皇の父であることを理由として天皇号を贈られましたが、それ以外の理由で天皇号が贈られるのは早良親王が初めてでした。それだけ、桓武天皇が早良親王の祟りを恐れていたということが窺えます。
さて、1回のみ即位する通常の天皇とは異なる天皇を見てきました。2回即位(重祚)、即位しないままの事実上の天皇(称制)など、現在ではまず無いであろう出来事です。
私見ですが、今回紹介した天皇はいずれも飛鳥時代から平安時代初めばかりです。日本という国(朝廷)の体制が整えられていく途中の時代です。天皇と言う存在もまだまだ軌道に乗ったとは言い難い時代だったのではないでしょうか。
だからこそ、女性天皇や2回の即位、一定期間即位しないなどといった、(当時としても日本史上としても)異例の天皇が複数人誕生したのではないかと想像します。
《参考文献》
- 『日本史広辞典』(山川出版社、1997年)
- 米田雄介編『歴代天皇年号事典』(吉川弘文館、2003年)
- 山田雄司『跋扈する怨霊』(吉川弘文館、2007年)
- 吉村武彦『女帝の古代日本』(岩波書店、2012年)
- 木本好信『藤原四子』(ミネルヴァ書房、2013年)
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