歴史の授業でも習う、世界遺産の富岡製糸場。多くの人が知っている、明治の産業遺産です。ただ、名前はよく聞くものの、どんな所なのか、行ったことが無いという人も多いのではないでしょうか?
今回は富岡製糸場の歴史と現在の様子を紹介します。
アクセス
富岡製糸場はそもそもどこにあるのか?その場所は群馬県富岡市です。上越・北陸新幹線の高崎駅がある高崎市からは南西の方向になります。
最初にアクセスを書いておきます。私は電車を使用しました。自動車の場合、富岡製糸場専用の駐車場は無いようです。周辺の有料駐車場を利用することになります(上州富岡駅北東にある駐車場は無料のようです)。
まず、新幹線も停まる高崎駅から上信電鉄に乗ります。上信電鉄は1時間に1~2本です。高崎駅から約40分乗車し、上州富岡駅で下車します。駅舎はリニューアルされたのか、かなりきれいです。


駅前(駅の斜め向かい側、南西側)には、世界遺産センター・セカイトがあります(紹介は後ほど)。

富岡製糸場は上州富岡駅から見ると南西方向にあります。徒歩10分余りです。道はそれほどわかりにくくないので、グーグルマップ等を見ながら行けば大丈夫だと思います。
ここで注意ですが、上州富岡駅から富岡製糸場までの間、周辺には飲食店はあまりありません。富岡製糸場の入口の目の前に飲食店がありますが、私が行った日曜日の13時代には並んでいました。昼食等は他の場所で済ませた方が良さそうです。
では、ここから世界遺産センター・セカイトと富岡製糸場を紹介していきます。
世界遺産センター・セカイト
上州富岡駅前にある世界遺産センター・セカイトは、絹産業遺産群、養蚕・製糸技術の伝播、絹や養蚕に関する遺産群紹介の他、群馬県内の観光情報について紹介している施設です。無料で入れます。それほど大きくないので、ゆっくり見ても30分あれば十分だと思います。

なお、駐車場は無いので、周辺の無料・有料駐車場を利用することになります。
開館時間は9~17時、休館日は、3~11月は毎月最終水曜日、12~2月は毎週水曜日で、祝日の場合はその翌日が休館日となります。12月29日~31日も休館です。
富岡製糸場の歴史①~官営工場の時代~
では、メインの富岡製糸場です。初めに、富岡製糸場の歴史を見ていきます。
幕末に日本が開国し、生糸が主要な輸出品の一つとなります。これには世界的な生糸不足がありました。
世界的に生糸の需要が高まっている中、日本の製糸(蚕の繭(まゆ)から生糸を作ること)技術は座繰りという方法で、生産が追い付かず、粗悪品も出るような状態でした。そのまま明治維新を迎えます。
このような状況に対し、幕末にヨーロッパに派遣された使節団のメンバーであった渋沢栄一は、ヨーロッパの工業技術力を目の当たりにしていました。渋沢は帰国後に近代的製糸工場の建設を検討し始めました。
そして、明治政府は明治3(1870)年2月に工場設立計画を実行に移しました。設立の指導者には横浜居留地で生糸検査人として働いていたフランス人のポール・ブリュナが選ばれました。
ブリュナは明治3年7月に工場設立の計画書を明治政府へ提出し、現在の群馬県や長野県で建設地を探します。富岡の地に決まったのは10月でした。その理由としては次のようなことが挙げられます。
- 広い用地がすぐに確保できる。
- 元々養蚕が盛ん(生糸の原料である繭が調達できる)。
- 利根川の水運を活かせる。
- 器械を動かす蒸気機関に必要な亜炭が近くで採れる。
- 地元の人々の同意があった。
ブリュナは交流のあった横須賀製鉄所の所長を通じて技師バスティアンを紹介され、バスティアンによって工場の設計図が作成されました。この設計図は横須賀製鉄所を参考にしていたことから、富岡製糸場の特徴である「木骨煉瓦(レンガ)造」は横須賀製鉄所に由来しています。
こうして建設が始まりましたが、西洋の技法が用いられ、日本の職人は苦労したようです。
中でも、日本で工業生産されていなかった煉瓦(レンガ)については、瓦職人を呼び寄せて焼きました。しかし、不慣れであったため、形が不揃いでした。明治5(1872)年完成の3棟(東西の置繭所と繰糸所)と、翌年完成の3棟(首長館・検査人館・女工館)を比べると、煉瓦の質や積み方が向上していることがわかるそうです。
富岡製糸場が完成し、操業を開始したのは明治5年10月でした。
富岡製糸場は、①器械製糸による均一・良質な生糸を大量生産するとともに、②伝習工女に習得させた器械製糸技術を全国に広める、という役割を担っていました。
しかし、当初から従業員である工女が不足しており、製糸場の運営を担った人々は様々な方法で工女を確保することに努めました。
富岡製糸場では時計を用いて就業時間を管理し、1日8時間労働で、毎週日曜日は休み、手厚い福利厚生といった、当時としては先進的な労働条件でした。
一方で、官営(国営)の模範工場であったため、当初は利益追求でなかったこともあり、赤字経営に苦しみました。また、器械製糸技術や工場システムは全国に波及した一方で、先進的な労働条件や木骨煉瓦造の工場建築は波及しませんでした。
この内、赤字経営に対しては改善が試みられ、黒字化にこぎつけますが、一方で民間への払い下げが進められます。そして明治26(1893)年に三井家への払い下げが決定し、民営化されました。
富岡製糸場の歴史②~民営工場の時代~
富岡製糸場の払い下げを受けた三井家は、他にも国内に3ヶ所の製糸工場を運営しました。また、生糸の輸出先をフランスからアメリカへ変更しました。
三井家のもと、富岡製糸場では設備投資により、器械・工場の増設や作業場の変更等が行われました。生産規模も拡大しました。
しかし、日清戦争の戦後不況の影響を受けるなどし、富岡製糸場を含む4ヶ所の工場は三井呉服店に移管されました。更に明治35(1902)年、原合名会社へ譲渡されました。
原合名会社は、原富太郎のもと、外国商館にほぼ独占されていた輸出について、フランスのリヨンに代理店を設置して直輸出を開始しました。
また、生糸の品質は原料の繭の質に左右されるため、蚕種の改良や繭の生産技術の向上を目指しました。地域の養蚕農家に蚕種を無償配布したり、指導員を派遣したりし、収穫された繭を直接取引しました。このようにして周辺農家は技術が向上して収入を得、製糸場は品質が揃った繭を安定して確保できました。
そのような中、明治42(1909)年に日本は生糸輸出量で世界1位になりました。
昭和11(1936)年には富岡製糸場の生糸生産量が過去最高を記録し、この時の工女数は900名を超えていました。
好調な経営でしたが、原合名会社の経営は昭和13(1938)年で終了しました。それには次のような要因がありました。
- 満州事変・日中戦争といった対外情勢の悪化。
- 原富太郎の高齢化。
- アメリカでのナイロン繊維の流通拡大。
原富太郎は昭和13年に製糸場を「株式会社富岡製糸場」として独立させ、経営を片倉製糸紡績株式会社に委任しました。翌年に両社は合併しました。
片倉のもとで富岡製糸場では積極的な機械設備の更新や福利厚生施設の整備が行われました。昭和15(1940)年には、現存する2棟の女子寮や診療所・病室、社宅3棟が建てられました。
戦争の激化に伴い、昭和16(1941)年、蚕糸業の統制のため「蚕糸業統制法」が制定され、日本蚕糸統制株式会社が設立されました。富岡製糸場は昭和18(1943)年にこの会社へ賃貸され、軍需品のための糸を生産しました。
昭和20(1945)年の終戦に伴い、翌年に賃貸は終了して片倉の経営に戻りました。
富岡製糸場の歴史③~戦後から終焉へ~
戦後、昭和27(1952)年に富岡製糸場では自動繰糸機が導入されました。自動繰糸機は繭から自動で生糸を繰る器械です。自動繰糸機はヨーロッパでは19世紀後半から、日本では明治時代から研究が行われていましたが、それが戦後にようやく導入されたのです。現在の富岡製糸場に残るのは自動繰糸機です。
そのような中、富岡製糸場では昭和49(1974)年に生糸生産量のピークを迎えます。昭和58年まではピークと同程度の生産量を保ち続けます。
しかし、化学繊維の台頭や海外の安価な生糸の流入等で生産量は減少し、昭和62(1987)年に富岡製糸場は操業停止となりました。世界遺産と言うと、とても古く感じますが、約40年前まで富岡製糸場は現役だったのです。現在50歳代以上の人にとっては、まだまだ近い過去なのではないでしょうか。
片倉はその後も富岡製糸場を維持・管理し続けます。そして平成17(2005)年に建物全てを富岡市へ寄贈しました。富岡市は一般公開を開始し、翌年にかけて国の文化財指定を受けます。
その後、世界遺産登録が目指され、平成26(2014)年にユネスコ世界遺産に登録されました。世界遺産に登録されるほどの富岡製糸場の良好な残存状況は、片倉による保存活動が重要だったようです。
富岡製糸場の内部
では、ここからは富岡製糸場の中を見ていきます。初めに、パンフレット掲載のマップとおすすめ見学コースを載せておきます。


では、正面入口から中に入ります。

入場券売場は上の写真の門を入って左側(少し前)にあります。
入場券を買って、まっすぐ奥へ進むと、左右に広がる大きな建物があります。この建物は東置繭所(国宝)です。



操業当時の東置繭所は、1階は事務所・作業場等で、2階は乾燥させた繭(まゆ)を貯蔵していました。
現在は、入って左側が売店等、右側が富岡製糸場等の歴史を紹介する展示室・売店になっています。
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東置繭所を出て広場を奥へ進むと、一番奥に西置繭所(国宝)があります。
※令和8年4月時点では広場は工事で通り抜けできませんでした。東置繭所から西置繭所へ行くには、東置繭所の入口から外へ出て、東置繭所を外から回り込む形(社宅群の前を通る)で広場へ向かいます。


西置繭所も東置繭所と同じく、2階に繭を貯蔵していました。
現在は1・2階ともに展示スペースとなっています(一部撮影禁止)。道具や日常品の展示、富岡の年表、建具や建築技法等の展示があります。


西置繭所は2階のベランダ(東側)に出ることができます。
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西置繭所を出て右に向かうと、鉄水溜(てっすいりゅう・重要文化財)があります。先ほど2階からも見えたものです。

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鉄水溜はその名のとおり、鉄製の水を溜めておくモノです。生糸づくりにはきれいな水が必要でしたが、富岡製糸場では初代の水槽がすぐに水漏れで使えなくなり、明治8(1875)年にこの鉄水溜が造られました。国内現存の鉄製構造物では最古級です。
直径は15.2m、深さは最大で2.4mあります。
西置繭所から北東、敷地の北端中央付近に向かいます。ここには富岡製糸場の役職者用の社宅が3棟並んでいます。最初にも載せた地図(下の図)では③社宅76の左の方にある3棟になります。

この社宅群は富岡製糸場の民営化後に建てられました。一番西の端の2階建ての社宅は富岡製糸場の長(工場長)の社宅でした。

この社宅群の向かい側(南側)には桑畑があります。桑は生糸の原料となる繭を作る蚕のエサです。

先ほどの役職者用の社宅に続いては一般の社宅が並んでいます。一部は中に入ることもでき、往時の室内を見ることができます。




ここから東置繭所の外側を回り込んで、東置繭所の入口まで戻ります。そこから更に南へ進んでいきます。
東置繭所の入口前(東置繭所とは道を挟んで向かい側、南東)にあるのが検査人館(重要文化財)です。


検査人館は明治6(1873)年に建てられたお雇いフランス人(生糸検査人等)用の宿舎です。一部改造・増築されているものの、建築当初の部屋割り等がよく残っているそうです(中には入れません)。
検査人館に続いてあるのは男子寄宿舎です。説明板等は無かったので、詳細はわかりませんでした。
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男子寄宿舎の隣にあるのは女工館(重要文化財)です。
女工館は検査人館と同じく、明治6年に建てられたお雇いフランス人用の宿舎です。工女に器械製糸技術を教えたフランス人女性教師4名のために建てられました。
1階は大正12(1923)年から食堂として、操業停止まで使用されました。

女工館と道を挟んだ反対側(西側)にある小さな建物が高圧変電所です。
この変電所は、送電線から引き込んだ高電圧の電気を、工場内で使用する電圧に変える施設です。

変電所を過ぎてすぐ、渡り廊下のような所を過ぎて右側に繰糸所(国宝)があります。ここから奥に長い建物なので、外からでは建物の全貌はあまりわかりません。

繰糸所は繭から生糸を取る作業(繰糸)を行う所です。天井の小屋組はトラス構造で、従来の日本には無かった建築工法で造られていました。
ここは中に入ることができます。奥に細長い建物の中には、昭和41(1966)年以降に設置された自動繰糸機が両側に並んでいます。この光景は富岡製糸場の象徴的なものではないでしょうか?




繰糸所を出て、隣には糸整理室があります。ガラス越しに外から見ることができます。
糸整理室は糸枠から取り外した生糸を整え、梱包する所です。現在は梱包した箱を運ぶローラーや「片倉工業」の名前が入った段ボールが残っています。

道に戻り、少し進むと、左側に診療所・病室が見えてきます。




現在の診療所と病室は3代目で片倉経営期の昭和15(1940)年に建てられました。設立直後の官営時代にはフランス人医師が常駐し、フランス人だけではなく日本人に対しても医療活動が行われました。その後は日本人医師となり、診療は操業停止まで続けられました。
さて、昔の建物ではありませんが、診療所の向かい側辺りには防災設備があります。ここにあるのは太い配管です。
富岡製糸場では平成30(2018)年度から総合防災設備工事が進められています。この配管は敷地外の貯水槽から消火のための水を場内各所へ送るためのものです。

富岡製糸場では地下にも遺構があり、遺構の保護のため、配管をあまり地下に通すことができず、地上に見えているのです。
景観を損ねているようにも見えますが、歴史遺産を保護し、守って後世に伝えるための大切な設備なので、理解が必要です。
この配管の隣にあるのが首長館(ブリュナ館、重要文化財)です。


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首長館は明治6(1873)年に、富岡製糸場の設立指導者・ブリュナのために建てられました。ブリュナは明治8年12月までここで暮らしました。
その後、首長館は宿舎や女性従業員の学びの場、娯楽行事や式典の場として使われました。
首長館の前を通って側面に回り、更に裏側へ回り込みます。裏には3棟の寄宿舎があります。
首長館につながるように建っている寄宿舎(榛名寮)は女性従業員のためのものです。元々はもう1棟ありましたが、現存していません。
現存の榛名寮は昭和初期に建てられました。2階建ての民家(農家)を転用して増築・改造したものと考えられています。各部屋は20畳以上の大部屋となっています。内部には畳の部屋が残っているのが見えます(ガラス越しだったので、写真ではうまく見えないため、載せていません)。

残る2棟の寄宿舎は首長館の裏の更に奥(西)にあります。それぞれ妙義寮・浅間寮という名前です。
昭和15(1940)年建築の女性従業員用の寄宿舎です。15畳の部屋が16室、2棟で計32室あります。

最後に、首長館・榛名寮の南にある広場に行きます。ここには世界遺産登録のプレートがあります。なんか、「最初に見に来いよ」という声が聞こえそうな気もしますが(笑)
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ここからは南の方が一望できます。特に何があるというわけではありませんが、良い眺めです。
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ここで見学ルートは終わりとなります。東置繭所入口付近までは通って来た道を戻ります。
以上が富岡製糸場の内部です。東置繭所や西置繭所の展示をざっと見れば、富岡製糸場全体で1時間30分ぐらいあれば十分でしょうか。展示をじっくり見るなら2時間は必要かもしれません。
富岡製糸場は明治時代の初めにできた工場です。増改築はあるものの、それほど古い近代産業遺産を間近に見ることができる貴重な場所です。一度訪れてみてはいかがでしょうか。
なお、群馬県内には他にも碓氷峠鉄道文化むら、上野三碑があります。一日で全ては難しいですが、こちらも行ってみましょう。
※特に断りの無い限り、記事の内容は令和8年4月時点のものです。
《参考文献》
- 富岡市『富岡製糸場―継承される革新の歴史』(2020年)

