北条幻庵とはどんな人?~後北条氏の長老~

戦国時代から安土桃山時代にかけて、相模国小田原を拠点として関東に君臨し、豊臣秀吉の天下統一の最後の敵ともいえる北条氏(後北条氏)。

有名なのは5代にわたる当主、早雲・氏綱・氏康・氏政・氏直です。その北条5代の時代を生き、一族の重鎮であった北条幻庵という人物がいます。

ドラマ等ではまず登場しないであろう幻庵ですが、どんな人物だったのでしょうか?ゲームには登場しますが、皆さんの中では結構謎の人物ではありませんか?今回はこの幻庵について紹介します。

なお、幻庵の名前については宗哲等の呼称もありますが、有名な幻庵で統一表記します。

また、今回主に参考にした本の一つが黒田基樹『戦国北条家一族事典』です。幻庵以外にも後北条氏の当主5代とその妻子、一族、家臣団について詳しく書かれていますので、更に知りたい方は読んでみてはいかがでしょうか。

後北条氏とは?(簡単に)

はじめに、後北条氏について簡単に述べておきます。後北条氏は戦国時代から安土桃山時代にかけて相模国小田原を拠点として関東に勢力を拡大した戦国大名です。初代が早雲で、以降、氏綱・氏康・氏政・氏直までの5代にわたって栄えました。

鎌倉時代にも関東には鎌倉幕府執権の北条氏(北条泰時や時宗等)がいましたが、戦国時代の北条氏とは血縁関係はありません。同じ関東でややこしいのもあり、戦国時代の北条氏のことを、後の時代の北条氏ということで、「後北条氏」とも呼びます。

以下では煩わしいので、「北条氏」と表記します。

北条氏の出自は、室町幕府政所執事の伊勢氏の一族という説が有力です。初代の早雲は北条早雲の名前で有名ですが、実際は伊勢氏を称しており、北条に改姓したのは2代目の氏綱の時です。

戦国時代の15世紀末に、駿河国の今川氏のもとにいた早雲が伊豆国に進出し、やがて相模国小田原城を攻略します。以降、北条氏は関東に勢力を広めていきました。秀吉に攻められる直前(天正18、1590年)には相模・伊豆・武蔵・下総・上総・上野・下野国を支配下に収めました。

4代目氏政が隠居し、5代目氏直の時代、天下統一を進めていた豊臣秀吉に従わず、天正18(1590)年に秀吉に攻められます。難攻不落の小田原城に籠城しますが、領内の城を次々に攻め落とされ、最後は秀吉に降伏します。

隠居していた氏政とその弟氏照が切腹、5代目当主の氏直は高野山に追放されます。氏直は翌年(天正19、1591年)に1万石を与えられますが、同年に病死します。これをもって北条氏の宗家は滅亡しますが、氏政の弟・氏規の子孫が江戸時代も大名として存続しました。

以上が北条氏の簡単な説明になります。

幻庵の出自・父母・兄弟姉妹

さて、北条幻庵ですが、幻庵は早雲の四男です。幼名を菊寿丸といいました。

幻庵の母は法名を善修寺殿といい、伊豆国の狩野氏の女性で、早雲の側室と考えられています。狩野氏は当初早雲に敵対しましたが、明応7(1498)年8月に早雲に従ったとされています。

幻庵が生まれたのは永正年間(1504~21)の前半頃と推定され、通説の明応2(1493)年生まれ説は誤りとみられています。明応2年生まれ説は、「北条五代記」等にみられる享年(天正17、1589年に97歳)から逆算されたものです。

幻庵の兄弟は、北条氏2代目となる氏綱、氏時、氏広、長松院殿(三浦氏員室)、青松院殿(女子)です。この内、幻庵と母が同じなのは長松院殿と青松院殿とされています。

幻庵の妻子

はじめに、幻庵関係系図を載せておきます。幻庵の妻は1人、子どもは5人の他、養子1人が確認されています。

①妻・栖徳寺殿

幻庵の妻は実名不明で、法名から栖徳寺殿と呼ばれています。かつては幻庵の母と考えられていましたが、幻庵の妻というのが正しいようです。天文23(1554)年4月5日に死去しました。幻庵の次男・氏信の母は栖徳寺殿であることがわかっています。

②嫡子・三郎

幻庵の嫡子と考えられているのが三郎という人物です。実名は不明です。

生年は不明ですが、弘治2(1556)年から史料に名前が見られ、この年には既に幻庵から家督や武蔵国小机領支配を継承していたとみられます。幻庵の年齢は50歳前後ぐらいになります。

史料では三郎は本領が小机本郷(神奈川県横浜市)とされており、小机城主であったとみられています。

三郎の所領の中に、幻庵から譲渡された200貫文があるため、三郎は幻庵の影響下に置かれていたとされます。

その三郎の知行高は北条氏御一家衆(一門)の中では幻庵に次ぐものであり、三郎も有力な御一家衆の一人でした。

永禄元(1558)年4月に古河公方足利義氏が小田原の氏康邸に御成した際には、北条氏堯(氏康の弟)・伊勢八郎(京都伊勢氏の一族で北条氏家臣)に次いで三献目の給仕を三郎が務めています。ここからも三郎が御一家衆の中で重要な位置にあったことがわかります。

同2年の時点での所領は1,620貫文でした。

しかし、三郎は永禄3(1560)年7月20日に死去しました。三郎には実子が無く、弟の氏信が家督を継承しました。一方、小机領の支配は幻庵の甥である氏堯へ継承されました(後述)。

幻庵は三郎の菩提寺である宝泉寺を厚く保護しています。また、宝泉寺には三郎の肖像画と言われる「北条時長像」が伝わっています。このことから、三郎の実名は時長である可能性があります。

③次男・氏信

氏信の母は栖徳寺殿であることがわかっています。

生年は不明ですが、氏信は永禄元(1558)年から史料に見られます。前述の同年4月の足利義氏の御成の時のことで、三郎に続いて給仕を務めています。

永禄3(1560)年の三郎の死去に伴い、家督を継承したとみられています。小机領は氏信ではなく氏堯へ継承されました。同6年の氏堯の没後はその跡を受けて氏信が小机城主(河越城将も務める)となり、小机領を支配しました。

永禄6(1563)年11月、氏信は公家の西園寺公朝の娘と結婚しました。北条氏御一家衆の中で公家の娘を妻としているのはこの氏信のみです。これは、幻庵一族が京都の僧侶・公家・文化人との独自の交流を有していたためとされています。

氏信と西園寺公朝の娘との間には氏隆が生まれています。

永禄11(1568)年12月、武田氏が駿河国(今川領)へ侵攻すると、北条氏は今川氏へ援軍を派遣します。氏信は前線拠点である蒲原城(静岡市)に入ります。

しかし、翌12年12月6日、武田軍の攻撃で蒲原城は落城し、氏信は弟・融深と共に戦死しました。

残された妻である西園寺公朝の娘は天正9(1581)年4月17日に死去しました。

④三男・融深

融深は箱根権現に入寺しており、将来は幻庵のように別当となる予定であったと推定されています。前述のように、永禄12年12月6日、蒲原城の戦いで兄・氏信と共に戦死しました。史料で見られるのはこの戦死の時のみです。

⑤長女・鶴松院殿(吉良氏朝室)

この鶴松院殿は吉良氏朝の妻となっています。従来は氏康の娘とされていましたが、現在は幻庵の娘とするのが妥当とされています。

吉良氏は武蔵国世田谷を本拠とする足利氏御一家で、北条氏に属していました。天文15(1546)年から当主として見える頼康は北条氏綱の娘を妻としていました。この頼康の養子が氏朝です。

氏朝は遠江国の堀越六郎の嫡子で、天文11(1542)年生まれです。母は北条氏綱の娘です。堀越氏は元々今川氏に属していましたが、後に敵対して敗れ、北条氏に引き取られました。母が北条氏であることや、北条氏に引き取られたことから、氏朝は北条氏一門という立場にあったとみられています。

吉良氏は名門であったことから、氏朝の吉良氏への養子入りは、北条氏一門による名門吉良氏の継承でした。

氏朝は永禄3(1560)年12月に頼康の養子となり、翌年2月に頼康が隠居して氏朝が家督を継ぎました。

氏朝は養子入りしたのと同じ永禄3年12月に幻庵の娘・鶴松院殿を妻としました。養父の頼康に続いて北条氏の娘と結婚したことになります。

幻庵は鶴松院殿が氏朝に嫁ぐにあたり、様々な心得等を「宗哲覚書」(宗哲は幻庵の法名)として記し、与えました。「宗哲覚書」は当時の大名家の奥向きの様子や大名家の女性の教養等について詳しく知ることができる、極めて重要な史料とされています。

また、幻庵は鶴松院殿に「太平記」を書写して与えているため、当時の武家女性が「太平記」を読んでいたことがわかります。

この後、氏朝は幻庵から武蔵国大井郷(埼玉県ふじみ野市)を譲渡されており、幻庵の後見を受けたとみられています。

鶴松院殿は永禄11(1568)年に氏朝の嫡子氏広(のち頼久)を生んでいますが、その後の動向は不明です。慶長11(1606)年6月17日に死去しました。

なお、豊臣秀吉により北条氏が滅亡(実際には一族が大名として存続)した後、氏朝や子の氏広は後に徳川氏に仕えました。

⑥次女と養子・三郎(上杉景虎)

永禄12(1569)年、幻庵の次男・氏信と三男・融深が戦死した時点で氏信には嫡子氏隆がいましたが、いまだ幼少でした。このため、幻庵は氏康の六男・西堂丸を娘婿(次女の婿)に迎え、家督を継承させました。西堂丸は幻庵の嫡子三郎と同じく三郎を名乗りますが、元亀元(1570)年に北条氏と上杉輝虎(謙信)の同盟によって、輝虎の養子となって越後に移りました。

三郎が上杉氏の養子となったことに伴い、妻であった幻庵の次女とは離縁します。次女は後に氏堯(幻庵の甥)の次男・氏光に再嫁します。氏光は元亀3年から小机城主を務めました。

幻庵の次女の死去日は不明です。

なお、氏光と幻庵の次女との間には子どもはいなかったとされます。

幻庵の動向―誕生から隠居まで―

前述のとおり、幻庵が生まれたのは永正年間(1504~21)の前半頃と推定されます。幼名を菊寿丸といいました。幼少期から箱根権現に入寺し、その後継者とされていました。箱根権現は相模国の有力寺社で、北条氏にとっては守護神の一つでした。

永正16(1519)年4月、父の早雲の隠居に伴い、4,400貫文余りの所領を譲られています。この内3,500貫文余りは元々箱根権現領であることから、既に幻庵が箱根権現領を継承していたことがわかります。

大永2(1522)年、幻庵は近江国三井寺上光院に入り、同4年春に出家します。天文3(1534)年までには相模国に帰国し、箱根権現の別当に就任したと考えられています。

別当の在職期間としては、少なくとも天文3~7(1534~38)年は確実とされています。天文9(1540)年時点では既に別当ではなくなっていたとみられます。

別当職を退いたものの、箱根権現領は引き続き幻庵の支配下であるため、箱根権現そのものが幻庵の支配下に属していたとみられます。

幻庵の出家名ですが、「長綱」と「宗哲」の2つが知られています。箱根権現別当としての名前は全て長綱であるため、長綱は別当就任により称したとされています。長綱の名は天文15(1546)年まで見られます。

一方、宗哲の名は天文5(1536)年8月から見られます。幻庵の父・早雲は正式には「早雲庵宗瑞」と言い、同様に幻庵は「幻庵宗哲」と称しました。幻庵は庵号で、天文14年から見られます。

このように、天文5~15年の間は長綱と宗哲を併用していたことになります。使い分けの基準は不明です。

少し遡って天文元(1532)年、北条氏綱は鶴岡八幡宮の修理を開始し、工事は同13年まで続きます。幻庵は同4年に「諸職人衆」に酒を与えたとあり、翌5年には幻庵が担当した築地が完成したと記録されています。

天文4(1535)年8月には甲斐国山中合戦(対武田軍)、10月には武蔵国入間川合戦(対扇谷上杉軍)で当主氏綱らとともに出陣しています。ゲームの「信長の野望」では戦闘力が極端に低い幻庵ですが、軍事的な活動も行っていたのが実際です。

天文9(1540)年の鶴岡八幡宮の神事では当主の氏綱とその子・氏康に続いて幻庵の名前が見られ、北条氏一門の中心的な立場であったことがわかります。

幻庵の4,000貫文以上の所領は、北条氏の御一家衆や家臣の中で最高でした。幻庵は小田原郊外(小田原城北西)の久野を本拠にしたため、幻庵の家系は久野北条氏と呼ばれます。

天文10(1541)年、幻庵の兄で北条氏2代の氏綱が死去します。これにより、幻庵は北条氏一族内で最長老となります。

北条氏家臣の遠山綱景が天文21(1552)年に武蔵六所明神に捧げた願文には、「当主・北条氏康夫妻と幻庵の覚えめでたくあるように」と書かれていました。氏康夫妻と共に幻庵が挙げられており、幻庵が重鎮であることがわかります。

天文11(1542)年5月、幻庵の甥の為昌が死去します。為昌が管轄していた地域と家臣団は分割され、幻庵はその内の武蔵国小机領と小机衆を継承しました。

翌年から幻庵は支配に関する文書を出し始めます。寺院に出した禁制(寺院内での禁止事項を定めたもの)や諸役免除を保証する朱印状等です。このように、為昌の死去をきっかけに、幻庵は軍事面での活動だけでなく、北条氏の領域支配にも参画しました。

また、同時期に相模国中郡郡代の大藤栄永が活動できなくなったことを受け、その家督を継ぐ秀信が登場する天文18年まで、幻庵は中郡支配も管轄しました。

天文15(1546)年の武蔵国河越合戦では北条綱成と共に河越城に籠城しています。この後は最前線での軍事行動は見られなくなります。

弘治元(1555)年、幻庵は甥・氏堯の後見を務めています。氏堯は大永2(1522)年生まれで、氏綱の子、氏康の弟です。

幻庵の動向―隠居と後継者の相次ぐ死去―

ここで再び幻庵関係系図を載せておきます。幻庵の後継者はややこしいので、系図も参考にしてください。

幻庵は弘治2(1556)年には嫡子・三郎に家督を譲ったとみられ、小机領支配を継承させています。

永禄2(1559)時点で幻庵は5,400貫文余りの所領を有していました。

幻庵の小机領は子の三郎へと継承されましたが、三郎は永禄3年7月20日に死去しました。三郎の次に家督を継いだのは三郎の弟・氏信でした。一方、小机領の支配は幻庵の甥・氏堯へ継承されました。

氏堯は、三郎が死去した翌年(永禄4年)には小机城主となり、小机領の支配を行っていきます。また、氏堯は永禄3年末から武蔵国河越城代も務めました。しかし、氏堯は永禄5年8月に史料に現れるのが最後で、翌6年に死去しました。

その次に小机領と河越城代を継承したのが、既に三郎から家督を継承していた氏信です。氏信の略歴は前述のとおりなので、重複記述は避けます。

氏信の蒲原城在城中の永禄12(1569)年5月、遠江国掛川城から今川氏真と妻子が蒲原城に逃れてきます。当時の北条氏当主・氏政はこのことを幻庵に伝えています。氏信が蒲原城にいたため、父の幻庵に状況を報告したものとみられます。

そして、前述のとおり、幻庵の次男・氏信と三男・融深は、永禄12年12月6日に蒲原城の戦いで戦死しました。

幻庵の動向―孫・氏隆の家督継承から死去まで―

この時、氏信には嫡子・氏隆(幻庵の孫)がいましたが、幼少でした。このため、幻庵は氏康の六男・西堂丸を娘婿に迎え、家督を継承させました。西堂丸は三郎を名乗りますが、翌元亀元(1570)年に北条氏と上杉輝虎(謙信)の同盟により、輝虎の養子となって越後国に移りました。

三郎(西堂丸)が上杉氏の養子となったことに伴い、妻であった幻庵の次女とは離縁します。幻庵の次女は後に氏堯(幻庵の甥。前述のとおり、幻庵の嫡子・三郎の没後、小机領を継承。)の次男・氏光に再嫁し、この氏光が元亀3(1572)年から小机城主を務めました。

小机城主の地位は幻庵が管掌するもの(幻庵嫡子の三郎、氏堯、氏信のいずれも幻庵の関係者)であり、氏光が小机城主になったのも、幻庵の娘婿であったためとみられています。小机城主は北条氏滅亡まで氏光が務めました。

小机領は幻庵→三郎(幻庵嫡子)→氏堯→氏信→(西堂丸?)→氏光と継承されました。

氏隆がまだ幼少であったため、幻庵は再び久野北条氏家督として存在するようになり、北条氏の軍事行動を務め、元亀元年からは駿河国大平城代を務めています。

ところで、前述のとおり、永禄12(1569)年に今川氏真は妻子と共に北条氏のもとへ逃れてきました。氏真は大平城(沼津市)に在城し、氏政の嫡子・国王丸(後の氏直)を養子として、名跡と駿河支配権を譲渡しました。国王丸は幼少のため、実権は氏政が持っていました。

氏真は遅くとも元亀元(1570)年9月までに大平城から小田原早河(小田原市)へ移ります。この早河は幻庵の所領でした。

この前月にあたる8月、幻庵は駿河国泉郷(清水町)に対して禁制を発給します。泉郷は当時、氏真の所領とされていたため、この禁制発給は氏真の小田原移住を受けてのものとされています。

このように、幻庵は氏真に代わって所領の管理にあたっていたと推定されています。氏真は北条氏の一門的存在(氏真の妻が北条氏康の娘)であり、幻庵は北条氏御一家衆の長老として、氏真に対して後見を務めていたと考えられています。

また、元亀2(1571)年3月、幻庵は今川氏旧臣の紅林氏に感状(戦功に対して与えられる賞状のようなもの)を与え、同4(天正元、1573)年2月には同じく今川氏旧臣の三浦氏に所領を与えています。これらの事は、紅林氏や三浦氏が幻庵の家臣か同心とされていたことを示しています。

しかし、氏真は遅くとも同年8月には徳川氏のもとに移ります。駿河国に侵攻した武田氏が北条氏と同盟して、氏真の駿河国復帰が叶わなくなったため、徳川氏を頼ったとみられています。

この頃、年号は元亀から天正に変わりますが、天正年間(1573~92年)になると、幻庵の政治的活動は殆ど見られなくなります。

天正7(1579)年、幻庵は大平城代を娘婿の氏光に譲ったとみられ、天正8~9年には伊豆国韮山・三島支配にあたります。

天正8(1580)年8月、伊豆国三島社護摩堂に、翌9年10月には伊豆国韮山の香山寺塔頭永明院に朱印状を発給しています。これらはいずれも伊豆国韮山城の管轄なので、幻庵が同城に在城していた可能性もあります。この永明院宛の朱印状が、現在確認されている幻庵が発給した最後の文書です。

幻庵が史料に登場するのも同11(1583)年6月が最後となります。永禄12(1569)年に幻庵の子・氏信が戦死した時点で、残された子・(氏隆幻庵の孫)は幼少であったため、幻庵が後見していたとみられます。天正11年はそれから14年後です。氏信戦死時点で氏隆が3歳であったとして、天正11年には17歳となっています。

氏隆が成人となり、幻庵は実質的に隠居(形式上は弘治2(1556)年には既に嫡子・三郎へ家督を継承させたとみられる)し、所領等の全てを氏隆へ譲渡したとみられます。

「北条五代記」によると、幻庵が死去したのは天正17(1589)年11月1日で、法名は金竜院殿明岑宗哲大居士と伝えられています。ただし、天正11年以降に幻庵の名が史料に見られないことや、氏隆の発給文書が天正13(1585)年から見られることから、天正13年頃に死去したのではないかと推定されています。

なお、幻庵が載っている過去帳では、幻庵の死去日は1日となっているため、11月1日死去という日付は正しい可能性があります。

生年は永正年間(1504~21)の前半頃とみられるので、およそ80年の生涯であったことになります。初代の早雲から5代・氏直までの北条5代全てを生きた人物でした。

孫・氏隆の動向

幻庵が死去した時点で後継者は孫の氏隆でした。氏隆の生年は不明ですが、父・氏信の結婚が永禄6(1563)年なので、永禄年間(1558~70)の末頃とみられます。父・氏信が戦死した永禄12(1569)年時点では幼少で、天正9(1581)年時点でも幼名の菊千代を称しています。

翌10年頃の史料には「藤(彦)太郎殿 くの」とあります。「くの」は「久野」で幻庵一族の本拠地です。このことから、この頃に元服して彦太郎氏隆と称したとみられます。

天正13(1585)年11月4日付の禁制が、氏隆の最初の発給文書です。これは過去に幻庵が発給した禁制を踏襲したものであるため、この天正13年からそれほど遡らない時期に幻庵から氏隆へ家督が継承されたとみられます(家督継承・代替わりにあたって、禁制を出し直すことはよくある)。

氏隆は天正18(1590)年の豊臣秀吉による小田原攻めでは、氏政・氏直に従って小田原城に籠城しました。

小田原攻めが終わった後、氏隆の動向ははっきりしませんが、当主氏直に従って高野山に赴き、後に赦免されたとみられています。翌19年には出家して讃岐国丸亀城主の生駒近規(親正)に仕えました。

氏隆が死去したのは慶長14(1609)年11月9日です。推定40歳ぐらいでした。妻は出自不明で、氏隆に先立って慶長9年4月晦日に死去しています。

氏隆には子がいなかったため、幻庵の系統は断絶しました。

幻庵の文化活動

最後に、幻庵の文化活動を紹介します。

幻庵は当初箱根権現に入寺しました。寺院の僧侶というと、教養が高そうなイメージがありますが、幻庵もその通りでした。箱根権現は京都との関係も深く、幻庵は京都の公家や文化人と交流を持ちました。

①和歌

まず、和歌についてです。箱根権現の別当であった天文3(1534)年、幻庵は公家の冷泉為和を招いて歌会を開催しています。また、同5年8月には藤原定家の歌集「藤川百首」の注釈書を書いています。

天文11年6月、小田原西光院の住職が幻庵所蔵の藤原定家の歌集を書写しており、幻庵が古典的歌集を所蔵していたことがわかります。

更に、天正8(1580)年閏3月、北条氏政の側近・板部岡融成(江雪斎)に古今伝授に関する証文を与えています。

古今伝授とは、中世後期に行われた歌道伝授の一形式のことです。古今和歌集を講釈し、その注説の重要な部分を書面で示し、これに古い注説・証状・相承系図を付けて伝授しました。細川藤孝が古今伝授を受けた教養高い武将であったことは有名です。

また、幻庵は「太平記」を所蔵していたこともわかっています。

②連歌

幻庵は連歌にも通じていました。大永2(1522)年、幻庵は近江国三井寺上光院に入りますが、そこに居た頃から連歌師の宗長・宗牧と交流がありました。天文14(1545)年2月、宗牧が小田原を訪れた際には連歌会を開いています。

③細工

幻庵は様々な細工にも秀でていたとみられます。北条氏は元々伊勢氏ですが、伊勢氏には鞍作りの技術があり、幻庵の父・早雲も嗜んでいたと言われます。幻庵も、伝えられる寸法に寸分の違いも無く作ったようです。

また、弓の細工、石台作り、茶臼作りにも勝れていたといいます。幻庵の屋敷には庭園があり、竹林の中には茶屋が設けられていたと、連歌師宗牧の記録に書かれています。

尺八作りにも長けており、幻庵が作製した尺八は朝廷からも所望されたようです。


以上、北条幻庵について見てきました。ゲームでは戦闘力が低く、どちらかというと政治や教養に生きた人物のようにも見えます。実際はというと、合戦に出ており、軍事面の活動もありました。また、教養力については実際もかなり高かったであろうことがわかりました。

そして、これはゲームではわからないことですが、後継ぎとなるべき男子3人全員を相次いで亡くすといった悲劇にも見舞われました。辛うじて孫の氏隆が残って跡を継ぐことができたのは不幸中の幸いだったのでしょうか。

しかし、幻庵没後とは言え、北条氏は秀吉に敗れ、氏隆も子が無いまま死去し、幻庵の家系は僅か3代で途絶えました。

幻庵は北条氏内部でのその立場の重さとは裏腹に、身内は不幸の連続という武将でした。

幻庵についてはまだまだわかっている事が少ないようです。最近も新たな事実が分かってきているので、これからもますます幻庵について明らかになっていくといいですね。

《参考文献》

  • 阿部猛・西村圭子編『戦国人名事典コンパクト版』(新人物往来社、1990年)
  • 『日本史広辞典』(山川出版社、1997年)
  • 黒田基樹『戦国北条家一族事典』(戎光祥出版、2018年)
  • 『北条幻庵―横浜・小机城と関東の戦国―』(横浜市歴史博物館企画展図録、2025年)

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