羽柴秀吉と徳川家康の唯一の直接対決、小牧・長久手の戦いをご存知ですか?戦いは局地戦に留まらず、各地に広がりましたが、中でも長久手の戦いが有名です。
長久手の戦いは現在の愛知県長久手市を中心に行われたものです。現在も現地には関連史跡がいくつか残り、記念館もあります。
今回は、最近できた記念館といくつかの関連史跡を紹介します。
小牧・長久手の戦いとは?
小牧・長久手の戦いとは、天正12(1584)年に現在の愛知県・岐阜県・三重県を中心に行われた、羽柴秀吉と織田信雄・徳川家康の戦いです。
戦いはこの地域に留まらず、日本各地に波及し、羽柴方と織田・徳川方に分かれて戦いました。中でも大きな戦いが、現在の愛知県長久手市を中心にあった長久手の戦いです。
小牧・長久手の戦いの全てを細かく説明するととても長くなります(というか、私の力量では書ききれないほど、各地の戦いが多岐にわたる)ので、長久手の戦いを中心に概略を述べます。
天正10(1582)年6月2日、本能寺の変で織田信長が討たれます。
その後の山崎の戦い・清須会議・賤ヶ岳の戦い等を経て、羽柴秀吉が台頭してきます。
当初、秀吉と織田信雄(信長の次男)は友好関係にあり、織田信孝(信長の三男)や柴田勝家と対峙しました。しかし、信孝・勝家の滅亡後、秀吉と信雄の関係は徐々に悪化します。
天正12(1584)年3月6日、織田信雄は家臣の津川義冬、岡田重孝、浅井新八郎が秀吉に内通したとして、3人を殺害します。そして、信雄は徳川家康を誘い、秀吉に敵対します。
秀吉は東海地方に軍を進め、信雄が領していた伊勢国や尾張国が主な戦場になります。しかし、秀吉・信雄・家康に留まらず、各地の武将が羽柴方と織田・徳川方に分かれて戦います。
例えば、長宗我部氏や紀伊国の勢力は秀吉領に近いため、織田・徳川方に味方して秀吉領(和泉国等)を脅かしました。毛利氏や上杉氏は秀吉に味方しました。
伊勢国では秀吉方が信雄方の城を攻め落とし、有利に戦いを進めます。尾張国では信雄が3月13日に清須城に入り、家康も同日に到着します。一方、秀吉方が犬山城を落とします。
同月17日、秀吉方の森長可(ながよし)と池田元助(池田恒興の子)が尾張国羽黒・八幡林(現在の犬山市)で徳川軍と戦って敗れます。
同月28日、秀吉が楽田城(現在の犬山市)に到着します。同日、家康は小牧山城に入ります。ここで戦線は膠着状態となります。
膠着状態を打開すべく、4月6日、秀吉方の三好秀次(後の豊臣秀次)・池田恒興・池田元助・森長可・堀秀政らが、家康の三河国岡崎城を攻める(小牧山城にいる家康の背後を攻める)ために進軍を開始します。
4月8日夜、この秀吉方の動きを察知し、信雄・家康軍も小牧山城から動き出します。
翌朝、池田恒興・池田元助・森長可が信雄・家康方の岩崎城(長久手の南方)を攻め落とします。一方、秀吉軍の後方(長久手の北方)にいた三好秀次軍に対し、家康方の榊原康政らが奇襲をかけます(白山林の戦い)。ここから長久手の戦いが本格的に始まります。
秀次軍は不意を突かれて敗退します。一方、秀次軍と恒興等の軍の間にいた堀秀政軍(秀吉方)は徳川軍を破ります(桧ヶ根の戦い)。岩崎城を落とした池田恒興・池田元助・森長可は北へ引き返して徳川軍と交戦します(仏ヶ根の戦い)。
ここでは徳川軍が優勢になり、池田恒興・池田元助・森長可のいずれもが戦死してしまいます。
秀吉方は堀秀政軍の勝利こそあったものの、池田恒興・池田元助・森長可の3人が戦死し、三好秀次も敗退するという大敗北を喫しました。
秀吉自身は戦場におらず、急を聞いて駆けつけようとしましたが、間に合いませんでした。そういう意味では、長久手の戦いは秀吉軍と家康軍の激突した戦いではあったものの、秀吉と家康が戦場で直接対決したとは言えないかもしれません(家康は戦場にいた)。
長久手の戦い後、家康は小牧山城に戻り、戦線は再び膠着状態となります。
その後、尾張・美濃・伊勢国で戦いは続き、秀吉が信雄方を徐々に追い込んでいきます。そして、11月15日に至り、秀吉と信雄は和睦しました。家康は信雄を助けるという名目で出陣していたため、信雄が和睦した以上、戦い続けるわけにいかず、領国である三河国に引き上げました。
ただ、家康が秀吉に臣従するのはこれから約2年も後のことになります。
以上が小牧・長久手の戦い(特に長久手の戦い)の概要です。
では、ここからは長久手古戦場にある長久手古戦場記念館と、いくつかの関連史跡を見ていきます。
長久手古戦場記念館
長久手の戦いの激戦地の一つ、仏ヶ根付近には古戦場公園があります。令和8年4月、長久手古戦場記念館が公園内に開館しました。
記念館があるのは古戦場公園の東側の道に面したところです。
自家用車の場合は記念館の北の方に駐車場が1ヶ所あり、約15台駐車可能です。
鉄道の場合はリニモの長久手古戦場駅で下車し、駅の北西すぐの場所に記念館があります。名古屋駅からは地下鉄東山線で終点藤が丘駅まで行き、藤が丘駅でリニモに乗り換えです。
周辺は市街地のような感じで、飲食店もいくつかあり、特にすぐ東隣のイオンモール長久手内には飲食店が多く入っています。
東側から見ると、下の写真のようになっています。なんか城門のようにも見えますが、ここに城があったわけではありません。ちなみに、東側から入ると、そこは地下1階となっています。反対の西側(公園側)から入ると、一つ上の階になり、そこが1階扱いとなっています。


館内は下図のとおりとなっています(パンフレットより引用)。

記念館東側入口からの場合、地下1階の青色の三角の所から入ります。入ってすぐのところに受付があるので、ここで入館券を買います。なお、1階のみの利用であれば無料です。地下1階の展示・シアタースペースが有料となります。常設展は高校生以上400円で、企画展開催時はその時々によるようです。中学生以下は無料です。
シアターは約11分間の映像を見ることができます。内部は撮影不可ですが、小牧・長久手の戦いの概要を知ることができる内容です。
常設展示室は展示や体験コーナーになっています(後述)。
展示室に入って正面の壁面には小牧・長久手の戦いの関連年表、秀吉・家康の甲冑の複製品、中央(手前)には円形のプロジェクションマッピングがあります。プロジェクションマッピングは、長久手の戦いについて時間を追って解説されるため、戦いの経過がよくわかります。ちなみに、ナレーションは戦死した池田恒興という設定になっています。


展示室に入って左側には体験コーナーがあります。


体験コーナーには、火縄銃の体験コーナーと撮影コーナーがあります。
火縄銃の体験コーナーでは、火縄銃の複製品を持つことができます。


火縄銃は持ってみると意外に重いです(約3.6㎏)。私は過去に戦国時代の本物の火縄銃を持ったことがありますが、同じぐらいの重さだと思います(←体験コーナーなので、同じで当たり前か)。
また、隣では画面に向かって火縄銃を試射する(もちろん実弾は出ない)ことができます。
画面の的に向かって3発打ちます。結構中心に近い所に当たった気がしましたが、41点でした(←判定では修行不足らしい)。

撮影コーナーでは、兜や陣羽織を着て、家康(←兜からすると、多分家康)の隣で撮影できます。さすがに私はやってません(笑)

展示室に入って右側には長久手の戦いに関する展示があります。


特に長久手合戦図屏風の複製品が展示されており、ガラス越しではありますが、戦いの様子を見ることができます。




展示室は更に奥に続いており、展示ケースの他、壁面にはガラス越しに収蔵庫(本物の資料を適切な温度・湿度で保管しておく部屋)を見ることができます。甲冑や火縄銃が展示されています。なお、記念館の展示品は一部撮影禁止(表示がある)なので、注意が必要です。


展示スペースはそれほど広くはなく、小牧・長久手の戦い全体というよりも、局地戦であった長久手の戦いを中心とした展示になっています。
プロジェクションマッピングやシアターがあり、戦いの様子をわかりやすく知ることができ、展示もコンパクトで疲れない分量となっています。シアターを見ても、記念館全体で1時間もかかりません。
もし長久手の戦いについて知りたいのであれば、ちょうどよい施設であると思います。戦いの関連史跡を訪れるのであれば、事前に記念館に行くことをおすすめします。
最後に1階を紹介します。1階は周辺の関連史跡地図が床に大きく設置されている他、グッズ販売コーナー等があります。


史跡地図は位置がよくわかります。グッズもいろいろ種類があります。
では、記念館周辺の史跡を見に行きます。先ほどの床の地図もありますが、館内では史跡マップも配付されています。記念館のホームページでもPDFでダウンロードできます。
史跡は結構遠い所にもあるので、今回は記念館に近い3ヶ所のみです。
池田恒興・同元助・森長可戦死の地
長久手の戦い関連の史跡は以下のマップを参照してください(小さいかもしれないので、上記の記念館ホームページでPDFをダウンロードした方が良いかもしれません)。


今回行く史跡は、記念館近くにある池田恒興(勝入)・同元助(庄九郎)・森長可(武蔵守)戦死の地です。それぞれの場所は塚になっており、石碑があります。上のマップでは3の勝入塚、2の庄九郎塚、1の武蔵塚になります(私が行った順番)。3と2は記念館がある古戦場公園の中、1は古戦場公園から徒歩10分ほどの所にあります。全部回っても30~45分程度です。
・勝入塚
勝入塚は記念館の北の方にあります。歩いてすぐです。この辺りが、池田恒興が戦死した場所とされています。
ここには2つの碑があります。大きい方は明治24(1891)年に恒興の子孫が建てたものです。左にある小さい碑は明和8(1771)年に尾張藩士が古戦場を訪れた時に建てたものです。



明治の碑には「勝入池田公戦死処」、明和の碑には「池田勝入信輝戦死場」と刻まれています。信輝は恒興の別名、勝入は出家した恒興の法名です。
池田恒興(1536~84)は織田信長と乳兄弟(恒興の母親・養徳院が信長の乳母)です。信長の家臣として種々の戦いに従軍。本能寺の変後は清須会議に出席し、賤ヶ岳の戦いでは羽柴秀吉に味方しました。天正11(1583)年に美濃国大垣城主となりました。
小牧・長久手の戦いでは秀吉軍に属し、徳川家康の三河国へ攻め入るために進軍中、追ってきた家康の本隊と交戦し、この仏ヶ根で戦死しました。共に戦死した森長可は恒興の娘婿です。
長男の元助も一緒に戦死したため、恒興の跡は次男の輝政が継ぎました。輝政は秀吉に仕え、天正18(1590)年に三河国吉田城主15万石余となりました。文禄3(1594)年には秀吉の命で徳川家康の娘・督姫と結婚しました。家康は恒興を討っているので、父の仇の娘と結婚したことになります。秀吉の死後、関ヶ原の戦いでは東軍に味方し、戦後に播磨国姫路52万石を与えられました。
父の仇である家康の娘と結婚したことを輝政がどう思っていたかはわかりません。ただ、逆にこれは徳川政権のもとでは非常に有利に働いたでしょう。外様大名ながらも姫路という畿内や大坂に近い場所に所領(しかも52万石)を与えられています。子孫は岡山藩主等になっています(特に有名なのが岡山藩主池田光政)。
・庄九郎塚
庄九郎塚は記念館がある古戦場公園の南端にあります。この辺りが、池田元助(庄九郎)が戦死した場所とされています。
勝入塚と同様に、ここにも2つの碑があります。これも勝入塚と同じく、大きい方は明治24(1891)年に恒興の子孫が建てたものです。すぐ左にある小さい碑は明和8(1771)年に尾張藩士が古戦場を訪れた時に建てたものです。

明治の碑には「紀伊守池田公戦死処 明治廿四年七月 侯爵池田輝博建之」、明和の碑には「池田紀伊守之助戦死場」と刻まれています。之助は元助の別名です。

池田元助(1559~84)は恒興の長男です。父と共に信長に仕えました。本能寺の変後は秀吉に属して賤ヶ岳の戦い等に従軍しました。
小牧・長久手の戦いでは父と共に秀吉軍に属し、徳川家康の三河国へ攻め入るために進軍しました。しかし、家康の本隊と交戦し、父と共にこの仏ヶ根で戦死しました。
元助の子・元信は秀吉・秀頼に仕えました。大坂城落城前に池田輝政(元助の弟)の家臣となりました。
・武蔵塚
武蔵塚は古戦場公園から西に少し離れた所にあります。庄九郎塚から徒歩約10分です。
古戦場公園を出て、公園の南の道を北西に入ります。庄九郎塚の横を通り過ぎ、少し進んだ次の交差点を左折します。しばらく行くと、右前方に公園のような所が見えます(右の写真)。ここを右折します。
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そのまま道なりに進んで、左側に住宅地が始まる直前の所に武蔵塚への入口があります(右の写真)。
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入って正面に武蔵塚があります。この辺りが、森長可が戦死した場所とされています。長可が武蔵守であったので、武蔵塚と呼ばれています。

ここにも2つの碑があります。大きい方は明治31(1898)年に森長祥(多分、長可か長可の親族の子孫)が建てたものです。右にある小さい碑は、勝入塚・庄九郎塚と同じく、明和8(1771)年に尾張藩士が古戦場を訪れた時に建てたものです。


明治の碑には長可のことや、尾張藩士が明和の碑を建てたこと、明治の碑を新たに建てたこと等が刻まれています。明和の碑には「森武蔵守長一戦死場」と刻まれています。長一は長可の別名です。
森長可(1558~84)は可成(よしなり)の次男です。弟には有名な蘭丸がいます。前述のとおり、長可は池田恒興の娘婿です。父の遺領を継いで美濃国金山城主となります。織田信長に仕え、伊勢国長島一向一揆攻め等に従軍しました。信長の没後は一時信孝(信長の三男)に属しますが、間も無く秀吉に属します。
小牧・長久手の戦いでは秀吉軍に属し、池田恒興や同元助と一緒に徳川家康の三河国へ攻め入るために進軍中、家康の本隊と交戦し、この仏ヶ根で戦死しました。長可は徳川軍の鉄炮で眉間を撃ち抜かれたと言われており、長久手合戦図屏風でも、眉間にその痕が描かれています。
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以上が長久手古戦場記念館の周辺にある史跡3ヶ所です。記念館からすぐ近くで、塚だけではありますが、3人の戦死した場所という、激戦地がここであったことがわかる所です。
記念館と合わせて行けば、長久手の戦いを身近に感じることができます。もし余裕があれば、少し離れた史跡も行ってみましょう。ただし、夏は暑いので、長時間の歩きはやめておきましょう(←3つの塚だけで結構大変だったので、私は行ってない)。
※特に断りの無い限り、記事の内容は令和8年8月時点のものです。
《参考文献》
- 阿部猛・西村圭子編『戦国人名事典コンパクト版』(新人物往来社、1990年)
- 長久手古戦場記念館展示内容
- 各史跡の説明板

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