豊臣秀長・藤堂高虎の養子・藤堂高吉の生涯

藤堂高吉という人物を聞いたことがあるでしょうか?「藤堂」といえば、このブログでも何度か記事にした藤堂高虎ですね。高吉は高虎の養子です。しかし、実はその前に豊臣秀長の養子でした。

最初は豊臣秀長の養子、次いで藤堂高虎の養子となりますが、高吉の生涯は順風満帆ではありませんでした。それは子孫にまで影響を及ぼします。

今回は藤堂高吉について見ていきます。高吉の名前については仙丸(千丸)→一高→高吉という変遷がありますが、この記事では「高吉」に統一します。

出自と秀長への養子入り

高吉は天正7(1579)年6月1日、丹羽長秀の三男として生まれました。丹羽長秀は織田信長の重臣です。母親は丹羽家の家臣・杉若無心の娘です。当時の長秀は近江国佐和山城の城代で、高吉が生まれたのも佐和山城です。

高吉の幼名は仙丸(千丸)です。

天正10(1582)年6月2日、本能寺の変で織田信長が死去します。羽柴秀吉が山崎の戦いで明智光秀を破り、その後の政局で秀吉は丹羽長秀との連携を強めていきます。そのような中で、長秀の子であった高吉が4歳で秀吉の弟・秀長の養子となります。この時、秀長は嫡男を亡くしていました。

なお、高吉が秀長の養子になったことに伴い、母方の祖父にあたる杉若無心は秀長の家臣になっています。

高虎の養子時代

高吉が秀長の養子となって6年後、天正16(1588)年1月に秀長は甥(姉の子)の秀保を養子とします。これに伴い、秀吉の指示で、高吉は秀長の家臣であった藤堂高虎の養子に転じます。この時、高虎には実子はいませんでした。

秀長は、高吉が高虎の養子になるに際して1万石を与えたと言われています。

天正19年1月、秀長が死去し、養子の秀保が跡を継ぎます。もし高吉が秀長の養子であり続けていれば、高吉が跡を継いでいたのかもしれません。結果として高吉は長命を保ったので、秀長の家(大和豊臣家)が早期に断絶することも無かったかもしれません。「もしも」の話ですが…。

さて、高吉は高虎のもとで成長し、朝鮮出兵(文禄の役)では養父・高虎に従って出陣します。その戦いぶりから「小藤堂」と称えられたと伝えられています。

文禄2(1593)年、閏9月に高虎は帰国し、10月には主君秀保が領国の大和国郡山に帰っているので、高吉も一緒に帰国したのではないでしょうか。

同年12月8日、高吉は従五位下宮内少輔に叙任されます。この時の口宣案(叙任を示す史料。任命状のようなもの。)には名前が「豊臣一高」とあります。このことから、元服後の高吉の名前は「一高」であったことがわかります。どの段階で高吉に変わったのかは不明です。

文禄3(1594)年、秀吉は伏見城築城を開始し、16歳の高吉は現場で指揮をとったとされています。また、その功により、工事終了後に秀吉から直々に羽織を拝領したとも言われています。

文禄4(1595)年、高虎の主君・秀保が死去します。一時期は大和豊臣家は養子を迎えて存続する方向となりますが、結局断絶となります。

高虎は間も無く秀吉に取り立てられ、伊予国で大名となります。高吉も高虎に従って伊予国に入ります。

また、この頃に高吉は溝口宣勝の娘と結婚しますが、間も無く離縁します。一方でその侍女を側室とし、後に長男・長正等をもうけています。

文禄5(1596)年8月、9月1日に秀吉が大坂城で明の使者に会うのに伴い、高虎と高吉も大坂へ来るように命じられています。

慶長2(1597)年、慶長の役が始まると、高虎も再び朝鮮へ渡ります。高吉も高虎に従い、種々の戦いで活躍します。

7月10日には秀吉から朝鮮在陣を労い、今後も油断しないようにとの朱印状を与えられています(同日同文の高虎宛朱印状もある)。

9月18日、高吉は高虎や脇坂安治等と連名で石田三成・増田長盛等に対して、朝鮮の戦況を報告しています。

慶長3(1598)年1月17日には秀吉から高虎・高吉宛に小袖等を与えられています。高虎が帰国したのは5月とされており、高吉も一緒に帰国したのでしょう。

同年、秀吉が死去し、やがて慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いを迎えます。高虎は東軍の徳川家康に味方し、戦後に加増され、伊予国今治20万石となります。

翌慶長6(1601)年、高虎に実子・高次が生まれます。高次の存在は後に高吉の人生に大きな影響を与えます。

慶長9(1604)年、高虎が領国を留守にしている間に隣の加藤嘉明領との小競り合い(拝志騒動)が起こります。

この事件は、高吉の家臣を殺害した者(同僚)が、隣の加藤嘉明領の城下町・拝志へ逃げ込んだことに始まります。当時、高虎と加藤嘉明は伊予国を半分ずつ領しており、所領は入り組んでいました。加藤領の拝志は、藤堂領の本拠地・今治から約3㎞という至近距離にありました。

高虎と嘉明はともに秀吉によって取り立てられた大名でしたが、朝鮮出兵での戦功争い以降は犬猿の仲でした(そんな2人の領地がよりによって隣同士…)。

高吉は加藤家に家臣を派遣しますが、その家臣が殺害されます。これに対して高吉は軍勢を率いて加藤領との境目まで出陣します。加藤家もこれに応戦しようとします。しかし、高虎の家臣・友田左近右衛門が高吉を説得し、大事には至りませんでした。

江戸時代になって(なったばかりとはいえ)こんな一触即発の事態が起きるのは信じられないかもしれませんが、当時はまだそのような事が起こりうる時代だったのです。大坂夏の陣でも、豊臣秀頼と淀殿が自害して戦いが終わったその日に、高虎と仲が良かった細川家の兵が藤堂家の兵と争い、高虎の家臣が亡くなっています。

さて、拝志騒動を受けて高虎と加藤嘉明はともに幕府に訴え、結果として高虎が勝訴します。しかし、高虎は高吉にも責任ありと判断し、蟄居を命じます。

高吉が許されたのは慶長11年で、この時に備中国で2万石を加増されたと言われています。

慶長13(1608)年、高虎は伊予国から伊勢・伊賀国へ転封となります(津藩)が、伊予国には2万石の藤堂領が残されます。高吉は伊予国今治に残り、2万石を治めます。

高吉は自分の家臣団に知行地を与えました。現在もその時の知行宛行状(知行を与えることを記した文書)が残っています。

慶長19・20年の大坂の陣では、高吉は伊賀国上野まで向かい、高虎のもとで出陣しています。

寛永7(1630)年10月5日、高虎は江戸で亡くなります。ここから高吉の人生は一気に変わっていきます。

高虎没後~藤堂家の家臣として~

高吉の人生が変わっていく過程は、簡単に言えば高次との確執です。

まず、高虎の死去に際して、高吉は葬儀に参列すべく今治から江戸へ向かいます。しかし、途中の近江国で津藩の使者に説得され、代理として家臣を派遣し、高吉自身は今治へ帰りました。この時点で高虎の跡継ぎが誰かは決まっておらず、高次が、高吉が江戸に来ることを防いだとみられています。

結果として藤堂家は高次が跡を継ぐこととなり、高吉は当主になれませんでした。

とはいえ、藤堂家の津藩の本拠地は伊勢・伊賀国で、高吉の治める今治は遠く離れており、半ば独立したような感じになっていました。

ただし、高虎は高吉が江戸へ行くことを禁じました。高吉としては江戸へ行き、将軍にお目見えすることを望んでいましたが、高虎の言いつけである以上はそれを守ったと、高吉自身が述べています。

半独立の状況が変わるのは寛永12(1635)年です。この年、伊勢国桑名藩主の松平定勝の子・定房が伊勢国長島から伊予国今治へ転封となります。今治は高吉が治めている地です。この転封に伴い、高吉は津藩の本拠地伊勢国へ移ることとなります。

高吉は江戸で将軍・家光に拝謁し、8月15日に知行方目録(知行地が列挙された文書)を拝領し、伊勢国内で2万石を得ることとなります。しかし、高次は高吉の2万石の内の5千石を伊賀国名張とし、名張の「古城」を改修して入城するように命じます。

皆さんどう思いますか?2万石の内、本拠地名張には4分の1の5千石、残りの4分の3(1万5千石)は離れた伊勢国の地にあるのです。名張で2万石を与えればよいものを、わざわざ多くの領地を本拠地から離れた場所に設置するという高次の指示には、高吉に対する警戒感が窺える気もします(私の個人的な感想です)。

10月1日、高次は高吉に書状を送ります。その中で高次は、高吉がしばらく「町屋」に滞在したままとなっているが、まだ江戸よりの指示が無いこと、高吉の「町屋」滞在の不自由を察している事、高吉をどこに配置すべきかについて、やがて江戸から指示があるであろうことを述べています。内容がはっきりわかりませんが、高吉の配置(どこを本拠地にするか?)については幕府からの指示待ちであったようで、それまでは高吉は「町屋」に滞在していたようです。

今治から伊勢国に移ったことで、それまで半独立のような立場であった高吉は津藩の家臣という立場になってしまいました。

とはいえ、高吉は名張の地で城下町を造り、他の藤堂家重臣と比較するとかなり独自の所領支配を行ったようです。また、高吉は領民から「殿様」と呼ばれていました。年貢を取るのも独力で行っており、これは津藩の家臣では唯一です。そういう意味では、「名張藩」とも言える存在でした。

高吉の子孫(名張藤堂家)は代々名張城とも言える所に居住しましたが、その屋敷は現在も一部が残っています。

高吉の独立運動と子孫の悲劇

さて、高吉の立場は半独立から家臣へと変わりました。高吉は津藩家臣としての時期をどのような気持ちで過ごしたのでしょうか。再び(完全に)独立したいと思ったことは無かったのでしょうか?

伊予国から伊勢国に移った後(恐らくは直後)、高吉は前述のように、高虎の命で江戸への参勤を禁じられたことや、高次との所領をめぐるトラブルを幕府老中へ訴えようとした形跡があります(訴状の文案は残っているが、実際に提出されたかは不明)。

高吉は旧知であった柳生宗矩(幕府重臣)を通じても運動を行います。高吉は宗矩に対して自身の処遇改善を願い出、宗矩もそれを支援しようとします。更には、宗矩は高吉の実家である丹羽家とも相談すると述べています。

これに対して、高次は老中に圧力をかけ、高次と高吉の争いは高次の勝利となります。

しかし、これで終わりではなく、独立運動の火種はその後もくすぶり続けます。慶安元(1648)年には高吉家臣の内、独立派の3人が揃って退去します。明暦元(1655)年には高吉の4男・長俊が丹羽家へ出奔します。いずれも高吉の存命中の出来事です。

寛文10(1670)年、高吉は92歳で亡くなります。津藩の家臣の立場となってから35年間、高吉はその立場に耐えたのです。

高吉の死去後、高次の指示で3人の子に計5千石が分けられ、いずれも津藩の家臣とされました。跡を継いだ子の長正は残りの1万5千石となり、名張藤堂家は幕末まで続きました。

しかし、高吉の子孫の時代に独立運動が再燃します。分家から名張藤堂家を継いだ高吉の曾孫・長煕は独立すべく行動を起こします。

幕臣へ働きかけ、独立大名として参勤交代ができるように(大名家臣の立場であれば参勤はしない=参勤すれば大名としての立場となる)画策しました。

しかし、それは津藩の知るところとなり、享保20(1735)年に家老3人が責任を取って切腹し、長煕も強制隠居させられました(御家取り潰しにはならなかった)。いわゆる「享保騒動」です。

御家騒動としては無名ですが、津藩藤堂家にとっては非常に大きな事件だったことでしょう。

なお、名張藤堂家では高吉の子ども以降、ずっと名前に「長」の字を使い続けました(幕末に津藩主家から養子に入った当主は「高」の字を使用)。一方の津藩は高虎の「高」の字を使っています。

「長」、それは丹羽家に由来する字です(例えば丹羽長秀や長重)。名張藤堂家が津藩ではなく丹羽家の方を意識していたことがわかります。


さて、高吉の人生を見てきましたが、いかがだったでしょうか。高次のやり方をひどいと感じるかもしれません。高次からしてみれば、自分が後継者となるべく行ったことです。しかし、当時は幕府といえども、秀忠や家光のように、兄弟を粛清して自身の立場を安定させています。当時としては高次の行いはある種当たり前だったのかもしれません。

一方で高吉にしてみれば、そのような時代の犠牲者とも言えます。独立運動を行いつつも、名張の地を領主として治め、改易されることもなく92歳の天寿を全うした高吉は立派な生き様だったのではないでしょうか。皆さんはどう思いますか?

以前の記事でも書きましたが、高虎が高次と高吉の立場をはっきりさせていれば、高吉や子孫の悲劇は起きなかったかもしれません。個人的には、それは高虎が残してしまったマイナス面なのかなと思います。高虎が完璧な人物ではなかったこと、家を安定させるべく行動した(と思われる)高次、耐え忍んだ高吉。高吉の話からは人間のいろいろな面が見えてくるのではないでしょうか。

《参考文献》

  • 『補註国訳聿修録』(高山公三百年祭会、1930年)
  • 上野市古文献刊行会編『高山公実録』上巻(清文堂出版、1998年)
  • 藤田達生『日本中・近世移行期の地域構造』(校倉書房、2000年)
  • 藤田達生『藤堂高虎論』(塙書房、2018年)
  • 柴裕之『羽柴秀長』(角川選書、2025年)
  • 黒田基樹『羽柴秀長と藤堂高虎』(NHK出版、2025年)

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