紀伊国の戦国武将・堀内氏善とはどんな人物?2~当時の史料から見る~

前回は堀内氏と氏善の事蹟について、今までの研究をもとに見てきました。

ただし、その中には一部、後世に書かれた(つまり誤りを多く含む可能性がある)史料が根拠になっています。

今回は、氏善が生きた当時の史料から、氏善について見ていきたいと思います。

ただし、私は氏善関係の史料を収集しているわけではありません。『新宮市史』や『豊臣秀吉文書集』に何点か掲載されている他、私が研究している藤堂高虎関係の史料の中で、いくつか氏善が登場するものを見つけたので、それを紹介します。

なお、「紀伊国衆」のように堀内氏が含まれる可能性があっても、堀内氏の明記が無いもの、「堀内」とのみあり、氏善とは断定できないものは除きます。

堀内氏善と那智

初めに、氏善と那智大社に関する史料を見ていきます。

※以下、『新宮市史』史料編上巻の文書番号は、「二 古代・中世」の「六 七上綱と堀内氏の台頭」の中の番号です。

①(年不明)2月4日付堀内氏善書状(『新宮市史』史料編上巻、23号文書)

氏善が清水蔵丞という人物へ宛てた書状です。

状況がはっきりしませんが、私が読んだ感じでは、那智大社の有力者であった実報院が氏善の味方になるように、清水蔵丞が口添えすることを求めているようです。

②(天正9年)2月6日付堀内氏善書状(『新宮市史』史料編上巻、29号文書)

氏善が那智の「執行法印」へ宛てた書状です。

廊之坊が心変わりしたことに関連して、「執行法印」が氏善に味方したことを本望であるとしています。一層関係が深化した暁には、廊之坊の一族の跡式を「執行法印」に与えると約束しています。跡式とは、跡目や財産を意味します。

天正9年に実報院は堀内氏と一緒に廊之坊と戦っており、「執行法印」は実報院であると考えられます。「執行」とあるので、この史料は⑤・⑥の史料よりも後の時期のものかもしれません。

氏善は、廊之坊に勝利した暁には、廊之坊が持っていた財産を実報院に与えるつもりだったとみられます。

③天正9年6月3日付堀内氏善宛行状写(『新宮市史』史料編上巻、30号文書)

氏善が実報院へ宛てた宛行状です。

廊之坊側であった東学坊・隼人・甚光坊・定善坊・少納言・大膳の跡式を実報院に与えたものです。「宛行」とは与えることを意味します。2月6日付の書状と関係があると考えられ、氏善は廊之坊に勝利した後、廊之坊側の6人の跡式を実報院に与えたようです。

ただし、『新宮市史』では、この宛行状写にある氏善の花押(かおう=サイン)が疑わしいとしています。文章も不審な点があるとされるため、本当にこのような宛行状が存在したのか、書かれていることが事実なのかは検討を要するようです。

この事に関連して、次の史料があります。

④慶長10年1月7日付佐竹伊賀申状写(播磨良紀「堀内氏と那智―戦国・織豊期の紀南支配を通じて―」)

堀内氏善の家臣であった佐竹伊賀が、江戸時代に浅野家に仕えた後、慶長10(1605)年に浅野家へ提出した申状です。この中では次のような事が書かれています。

  • かつて堀内氏善と廊之坊が戦い、氏善が勝利した。廊之坊側の6人の跡式の内、半分は自分(佐竹伊賀)へ与えられた。
  • 実報院が氏善に対して忠義を尽くしたので、廊之坊側の6人の跡式を氏善から与えられたと述べている。しかしこれは疑問である。
  • 実報院が(6人の跡式のことで)訴え出たので、自分もこの申状を提出した。

このことから、③の堀内氏善宛行状は実報院が自分の主張(6人の跡式は全て実報院に与えられたとすること)を根拠づけるために偽造したと考えられているのです。

以上の①~④は関連する一連の史料であると思います。

⑤(年不明)3月2日付堀内氏善書状(『新宮市史』史料編上巻、20号文書)

氏善が実報院へ宛てた書状です。

実報院が末代まで那智大社の那智執行(実務上のトップ)を務めるべきであると記しています。実報院が同意するのであれば、氏善は那智の衆徒達へこの旨を伝えるとしています。

⑥(年不明)3月2日付堀内氏善書状(『新宮市史』史料編上巻、28号文書)

氏善が那智の衆徒達へ宛てた書状です。

那智大社の那智執行(実務上のトップ)は従来世襲ではありませんでしたが、この書状の中で氏善は、今後は実報院が代々那智執行を務めるべきであると述べています。衆徒達が相談して決めるようにと書いてはいますが、事実上は氏善の提案を受け入れるように迫っているのかもしれません。

恐らく、⑤の書状で実報院が同意したため、②を発行した(あるいは実報院へ①②を両方届け、実報院が同意したら、実報院から衆徒達へ②を届けさせた)とみられます。

⑤・⑥は関連する史料です。

⑦(年不明)1月6日付堀内氏善書状(『新宮市史』史料編上巻、21号文書)

氏善が実報院へ宛てた書状です。

実報院に対し、「御上使」(室町幕府や信長・秀吉の使者か)が間もなく熊野本宮大社へ到着すること、このため「北山」地域に対して警護の侍を出すように命じたことを知らせています。また、実報院は氏善の弟(子とも)楠若(氏時)の寄親であると述べています。

⑧(年不明)11月7日付堀内氏善書状(『新宮市史』史料編上巻、24号文書)

氏善が那智の常住坊へ宛てた書状です。

近江国から道者(檀家)が那智へ来たことについて、「そま」という地域の道者は瀧本執行が担当し、信楽の道者は那智執行と瀧本執行が半分ずつ担当すると決められているとあります。その上で、決められた担当地域を守り、「神物」を(檀家に?)渡し、恣意的な事はしないように命じています。

那智に限らず、檀家の取り合いは他の神社でも、江戸時代に至っても起こっています。この史料は、そのような争いを起こさないように命じたものでしょう。

⑨(年月不明)20日付堀内氏善書状(『新宮市史』史料編上巻、25号文書)

氏善が「実年寄」へ宛てた書状で、「実年寄」からの書状に対する返事です。

次のような事を述べています。

  • 旦那(檀家)のことは「実年寄」の油断(詳細不明)であったこと。
  • 「実年寄」の午王宝印(厄除けの護符)を堀内氏の領内?で売ることを了承したこと。
  • 病気療養中の氏善に変わって、氏善の弟(子とも)楠若(氏時)を北山地域へ派遣すること。

「実年寄」に「実」の字が含まれること、楠若が登場することから、「実年寄」は楠若の寄親であった実報院かもしれません。

⑦~⑨の史料は、他の史料との関係性、時系列は不明です。まとめて最後に挙げました。

以上の史料からは、堀内氏善が実報院と良好な関係を築いて、実報院を実務上トップの那智執行の地位に就けることで、那智を掌握していく様子がわかります。

堀内氏善と豊臣政権

天正13(1585)年、秀吉の紀州攻めによって、氏善は秀吉に臣従します。

ここでは臣従以降の氏善と豊臣(羽柴)氏に関する史料を見ていきます。

⑩(天正13年)4月13日付、羽柴秀吉書状(『豊臣秀吉文書集』二、1398号文書)

秀吉が丹羽長秀に宛てた書状です。

書状の前半には丹羽長秀の療養に関する事、後半には紀州攻めに関する事が書かれています。この時は紀州攻めの最中です。

秀吉は、紀伊国を熊野地域まで平定した(秀吉は紀伊国の西から入った。熊野は反対側の東の端にあたる。)と述べています。その上で、新宮の堀内氏(氏善)を初め、その他の秀吉に従った者達の人質を選定した事、太田城水責めの現況等が述べられています。

このことから、4月13日時点で堀内氏善は秀吉に臣従する意思を示していたとみられます。

⑪(天正13年)5月8日付、羽柴秀吉朱印状写(『高山公実録』44頁)

秀吉が弟の秀長に宛てた朱印状です。

来たる四国出兵について、秀長が動員すべき兵数や船数について指示しています。「熊野衆」や堀内氏善も出陣させるように命じています。

⑫(天正14年)9月3日付、豊臣秀長書状(播磨良紀「秀長執政期の紀州支配について」)

秀長が熊野本宮の□当坊(□は古文書で解読できない文字を示す)へ宛てたものです。秀吉の紀州攻めが終わった翌年、天正14年に起きた大規模な一揆平定に関する書状です。

紀伊国の奥郡(紀伊国西部の内の南半分程度と南部・東部。熊野地域を含む、紀伊国の大部分を占める。)を平定するために、秀長自身が出陣したことを伝えるものです。熊野本宮がある紀伊国東部から堀内氏善が出陣するように命じた、と書かれています。

⑬(天正19年)3月28日付、豊臣秀吉朱印状(『豊臣秀吉文書集』五、3627号文書)

秀吉が堀内氏善・安宅重俊・小山(隆重?)・高河原家盛・須佐美(周参見)氏長に宛てた朱印状です。

秀吉は、檜皮の調達について藤堂高虎を通じて命じたものの、進捗が悪いことを叱責しています。その上で、調達を催促しています。

安宅重俊・小山隆重・高河原家盛・周参見氏長は紀伊国の地侍・国人で、秀吉・秀長に従っていました。紀伊国は山林資源が豊富で、方広寺大仏殿の建築でも紀伊国の木材が調達されています。今回の檜皮も紀伊国の山林資源として、豊臣氏に従う紀伊国の武士に調達が命じられたものでしょう。

以上の史料からは、氏善が秀吉に臣従した後、四国出兵・紀伊国の一揆の平定や木材調達といった役割を果たしていたことがわかります。

朝鮮出兵における堀内氏善

最後に、文禄の役(朝鮮出兵)に関する史料を見ていきます。戦いであるためか、頻繁に命令や報告が行われ、多くの史料が残っています。

⑭文禄元年4月29日付、黒田右衛門尉・大谷刑部太夫書状(『新宮市史』185頁)

黒田右衛門尉・大谷刑部太夫が誰かはわかりません(黒田孝高・大谷吉継の可能性もあるのだろうか?)が、堀内氏善へ宛てた書状です。

ただし、天正20年から文禄元年に改元されたのは12月なので、「文禄元年」と記されているのは不審です。後世に誰かが書き加えたものか、『新宮市史』掲載の書状は写しで、写す時等に年数を書き加えたのかもしれません。

朝鮮の竹島の戦い(3月28日)で、氏善の被官(大雑把に言えば家臣に近い存在)である浜田吉祥坊が加藤嘉明と先頭を競って敵と戦い、敵の船を乗っ取ったことを秀吉に報告したと伝えています。

⑮(天正20年?)9月付、豊臣秀吉朱印状(『豊臣秀吉文書集』五、4270号文書)

秀吉が堀内氏善に宛てた朱印状です。

⑭にあった竹島の戦いでの戦功を賞し、氏善に長太刀を与えています。

ただし、『豊臣秀吉文書集』では、この朱印状は要検討とされています。その理由は書かれていませんが、戦いから半年も経っており、言葉遣いも変な感じはします。

⑯(文禄2年)1月26日付、豊臣秀吉朱印状写(『高山公実録』74頁)

秀吉が藤堂高虎・堀内氏善・木下小藤太(大木小藤太=桑山一晴)・桑山貞晴・杉若氏宗に宛てた朱印状です(人物比定は『豊臣秀吉文書集』六、4396号文書による)。

主な内容は次の通りです。

  • 朝鮮出兵のために拠点となっていた北九州の名護屋へ船を集結させること。
  • 氏善は藤堂高虎等と共に2番目に朝鮮へ渡海すること。
  • 兵糧は豊臣政権から支給すること。
  • 秀吉が3月に朝鮮へ渡海するまでは、軽率な行動をしないこと(実際には秀吉が渡海することは最後まで無かった)。

⑰(文禄2年)2月20日付、豊臣秀吉朱印状(『豊臣秀吉文書集』六、4465号文書)

秀吉が堀内氏善に宛てた朱印状です。

氏善が肥前国名護屋(朝鮮出兵の本陣)にいる秀吉に鰹を贈ったことに対する礼状です。

⑱(文禄2年?)3月6日付、豊臣秀吉朱印状(『藤堂高虎関係資料集 補遺』126~127頁)

秀吉が九鬼嘉隆・藤堂高虎・菅達長・脇坂安治・加藤嘉明・堀内氏善・桑山一晴・杉若氏宗・村上通総に宛てた朱印状です。

主な内容は次の通りです。

  • 乗っ取った敵の船2艘の内、1艘は九鬼嘉隆に与え、もう1艘は誰に与えるか脇坂安治・加藤嘉明・氏善・菅達長のくじ引きで決めること。
  • 九鬼嘉隆と藤堂高虎が相談し、他の者は2人に従うこと。
  • 部隊の運用等についての指示。

⑲(文禄2年)3月10日付、豊臣秀吉朱印状(『豊臣秀吉朝鮮侵略関係史料集成』第2巻154~162頁)

朝鮮出兵に関わる各軍勢の人数・配置等を書き上げた秀吉の朱印状です。

この中で、堀内氏善は「舟手衆」として、九鬼嘉隆・藤堂高虎・脇坂安治等と組になっています。氏善の軍勢は600人です(舟手衆全体では8250人)。

⑳文禄2年3月23日付、九鬼嘉隆等連署条々覚(『藤堂高虎関係資料集 補遺』83頁)

九鬼嘉隆・堀内氏善・藤堂高虎・浅野長政等11名が連署した条々覚です。

主な内容は次の通りです。

  • 敵との海戦の際の取り決め。
  • 名護屋の本陣へ使者を送る際は各々で相談して、使者となる人を決めること。
  • 兵同士の喧嘩発生時の対応方法。
  • お互いの関係性を良好に保つこと。

連署のメンバーは殆ど水軍なので、その中でトラブルが発生しないように、事前にいくつかのルールを定めたものとみられます。

㉑(文禄2年)4月12日付、豊臣秀吉朱印状(『豊臣秀吉文書集』六、4528号文書)

秀吉が藤堂高虎・九鬼嘉隆・堀内氏善等10名・1集団に宛てた朱印状です。

敵の城を包囲している日本軍に兵糧を届けるべく、兵站線確保のために多くの船を造ること等を命じています。

㉒(文禄2年)4月22日付、豊臣秀吉朱印状(『豊臣秀吉文書集』六、4538号文書)

秀吉が九鬼嘉隆・藤堂高虎・堀内氏善等10名に宛てた朱印状です。

九鬼嘉隆等が秀吉に行った、水軍の事を各々が相談して油断無く行うとの報告に対して、もっともな事であるとしています。その上で、引き続き油断無く軍事行動を行うように命じています。

㉓文禄2年5月1日付、豊臣秀吉朱印状写(『豊臣秀吉文書集』六、4581号文書)

秀吉が宇喜多秀家・長宗我部元親・毛利輝元・堀内氏善等83名に宛てた朱印状です。

長文ですが、大友義統が朝鮮出兵の過程で、自身の守備する城から退却したことを咎め、改易に処する事を述べています。

㉔(文禄2年)5月1日付、豊臣秀吉朱印状写(『藤堂高虎関係資料集 補遺』109~111頁)

秀吉が浅野長政等4名(5名とする類似の朱印状写もあり)に宛てた朱印状です。類似する史料が他にも複数あります。

前半では各城の守備をどの武将が担うかが書かれています。堀内氏善は藤堂高虎・脇坂安治等とともに「番替」とあります。書き方からははっきりとわかりませんが、九鬼嘉隆・加藤嘉明等が守る城の交代要員とされているのかもしれません。

後半では今後の侵攻手順、食料・火薬の貯蔵に関する事等が書かれています。

㉕文禄2年5月20日付、豊臣秀吉朱印状写(『豊臣秀吉文書集』六、4588号文書)

秀吉の朱印状です。宛先は書かれていません。

朝鮮の晋州城攻撃軍の各武将の人数と攻撃に関する指示、釜山周辺・巨済島・加徳島の担当の各武将の兵数が記されています。堀内氏善は九鬼嘉隆・藤堂高虎等と共に加徳島の担当に含まれ、兵数は574人です。

㉖文禄2年5月20日付、朝鮮国仕置之城之覚写(『豊臣秀吉文書集』六、4589号文書)

㉕と同様に秀吉の朱印があったかもしれませんが、この史料も写しで、朱印があったことは記されていません。宛先は書かれていません。

㉕と同日付ですが、内容は異なります(一部似ている)。朝鮮で侵略した地域にあるとみられる城や島(の守備?)を担当する各武将の兵数が記されています。㉕と同じく、堀内氏善は九鬼嘉隆・藤堂高虎等と共に加徳島の担当に含まれ、兵数は574人です。

以上の史料からは、堀内氏善が文禄の役で水軍として活躍したことがわかります。

しかし、私が見た限りでは、慶長の役では一転して氏善の名前は見えられません。文禄の役の時のように、武将と人数を書き上げた朱印状や、九鬼嘉隆・藤堂高虎等の水軍武将宛の朱印状はいくつかありますが、氏善の名前はありません。この理由は不明です。

前回書いたように、秀吉没後の朝鮮からの引き上げに際しては、九鬼嘉隆・堀内氏善等に大安宅・小安宅船100艘の用意が命じられています。このため、慶長の役では名前は見られないものの、いずれかの部隊に含まれて出陣している可能性はあります。

さて、氏善が活躍した当時の史料から、氏善の動向を見てみました。史料が少なく、詳細がわからない堀内氏と氏善ですが、少なくとも熊野地域で勢力を拡大し、那智を掌握したこと、秀吉に臣従して軍事動員(特に水軍)で活躍したこと等がわかりました。

今後も新たな史料が発見されれば(可能性は高くありませんが)、更に堀内氏の動向がわかることでしょう。

《参考文献》

  • 『新宮市史』(新宮市役所、1972年)
  • 『新宮市史』史料編上巻(新宮市、1983年)
  • 阿部猛・西村圭子編『戦国人名事典コンパクト版』(新人物往来社、1990年)
  • 『藤堂高虎関係資料集 補遺』(三重県、2011年)
  • 上野市古文献刊行会編『高山公実録』上巻(清文堂出版、1998年)
  • 播磨良紀「堀内氏と那智―戦国・織豊期の紀南支配を通じて―」(『和歌山地方史研究』41号、2001年)
  • 阪本敏行「熊野那智の一山組織と目良氏・川関遺跡・藤倉城について」(『和歌山地方史研究』41号、2001年)
  • 北島万次編『豊臣秀吉朝鮮侵略関係史料集成』第2巻(平凡社、2017年)
  • 『豊臣秀吉文書集』二・五・六(吉川弘文館、2016~2020年)
  • 『三重県史』通史編近世1(三重県、2017年)

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