今年の大河ドラマでも登場した豊臣秀次。秀吉の姉の子(秀吉の甥)です。秀吉に次いで関白となったものの、秀吉に実子・秀頼が生まれた後に秀吉と対立し、高野山に追放されて自害した人物として知られています。
秀次については、長久手の戦いで惨敗した、秀吉と対立して自害した、殺生関白といった悪い印象が強いのではないでしょうか?
しかし、それ以外についてはあまり知られていないように思います。今回は、その豊臣秀次について知るためのおすすめ本を紹介します。10年ほど前に刊行されていますが、秀次に関する研究書は現在も多くありません。
今回紹介する本は秀次の生涯について専門の研究者が書いた本です。論文ほど難しいものではなく、一般の読者にも読みやすいと思います。
では、内容を紹介していきます。
本の概要
今回紹介する本は、藤田恒春氏の『豊臣秀次』(吉川弘文館、2015年)です。吉川弘文館は人物叢書という、歴史上の人物に関するシリーズ本を出しており、その内の一冊です。
著者の藤田氏は以前に『豊臣秀次の研究』(文献出版、2002年)という研究書も出しており、秀次研究の専門家と言えるでしょう。
では、はじめに『豊臣秀次』の章構成を示しておきます。なお、本書では●章という名称ではなく、「第一」「第二」のようになっています。今回の記事では便宜上それらを「第一章」「第二章」のように表記します。
第一章 生い立ち
第二章 三好氏時代
第三章 八幡山城主
第四章 関白一門として
第五章 尾張清須城主
第六章 関白就任
第七章 太閤と関白
第八章 秀次事件の真相とその影響
第九章 秀次像の形成
では、早速紹介していきます。なお、秀次には別名もありますが、この記事では「秀次」で統一表記します。
第一章 生い立ち
秀次は父・三好吉房、母・ともの間に永禄11(1568)年に生まれたとされています。母・ともは秀吉の姉で、秀次は秀吉の甥ということになります。
生年については、没年と享年から逆算して永禄11年とされていますが、母・ともが37歳(37歳と書かれていますが、35歳の誤記かもしれません)の時の誕生ということになり、本章では疑義を呈しています。更に、秀次の年齢は史料によってまちまちで、永禄11年が正しいとは言い切れないようです。
第一章では、はじめに秀次の両親や弟たちについて概要を記します。秀次には2人の弟がいますが、1人目の弟である秀勝はともかく、2人目の弟である秀保については母・ともの養子(秀次にとっては義弟)と考えられています。養子説は近年出版された黒田基樹『羽柴秀吉とその一族』(角川選書、2025年)でも妥当とされている説です。
秀次の親族の紹介に続いて、秀次が養子縁組を繰り返したことについて述べています。秀次は宮部継潤、三好康長、豊臣秀吉と計3回の養子縁組を行っています。第一章ではこの内の宮部継潤、三好康長との縁組について述べています。ただし、この内の三好康長の養子になったというのは、一次史料(秀次が生きた当時の史料)では確認できないようです。
三好氏への養子入りによって、秀次は三好孫七郎信吉と名乗りますが、これ以前の呼び名は不明のようです。
第二章 三好氏時代
第二章では三好氏養子時代について書かれています。
秀次が三好康長の養子になったのは天正9(1581)年の秋から冬頃とみられています。秀次が実際に三好氏としての活動を行うのは、本能寺の変後の天正10年10月の紀伊国根来攻めの頃とされています。この時、秀次は15歳でした。本章ではここから秀次の軍事行動について順次記していきます。
その中で、秀次にとって大きな戦いとなったのは長久手の戦いです。秀吉と織田信雄(信長次男)・徳川家康が戦った小牧・長久手の戦いの中で最大ともいえる激戦です。
膠着状態となった戦況を打開するため、秀吉軍は秀次を総大将にして、家康領の三河国岡崎を攻めるべく、行軍します。しかし、これに気付いた家康は秀次軍を追って、尾張国長久手辺りで戦いとなります。背後から攻撃された秀次軍は敗退し、池田恒興や森長可らが戦死するという大敗北を喫しました。
本章ではこの秀次軍の敗北とその後の秀吉の叱責について書かれています。秀次に宛てた秀吉の叱責文が掲載されていますが、内容は非常に厳しいものです。ただ、それは今回の戦いでの失敗だけが原因ではないようです。
現在一般的に思い付く秀次の事蹟の最初は、長久手の敗戦ではないでしょうか?それが秀次のマイナスイメージの出発点かもしれませんね。
長久手の敗戦(4月)後間も無く、6月には「羽柴孫七郎信吉」、10月には「孫七郎秀次」という署名があり、秀次は三好氏のもとを離れ、名も「秀次」に改めたとされます。
続いて、秀吉の弟・秀長が総大将となった四国長宗我部氏攻めでは、秀次も3万人の軍勢を率いて出陣します。四国攻めは秀長・秀次を中心に進められました。本章では四国攻めでの秀次の様子を記します。
四国攻めで功を挙げた秀次は、秀吉から近江国内で43万石を与えられました。秀次は18歳でした。
第三章 八幡山城主
第三章で述べられている八幡山城主としての秀次の姿は、一般にはあまり知られていないのではないでしょうか。最近はテレビでも時々八幡山城や城下が取り上げられるので、以前よりは知られるようになった気もしますが…。
近江国内で43万石の領主となった秀次には中村一氏・山内一豊ら5人(7人の可能性もある)の宿老が附属させられました。
秀次の所領がどこであったかは、史料が無くわからないようですが、本章では江戸時代の村々の石高をもとに推定しています。その中で、秀次は八幡(現在の滋賀県近江八幡市)を本拠地とします。
八幡へは信長の本拠地であった安土から町を移してきました。本章では、その八幡の城や城下町の様子を史料から具体的に明らかにしています。
また、宿老の支えのもとでの秀次の領国支配や家臣団についても述べています。領国支配では、宿老の一人である田中吉政に焦点を当てています。家臣団については、秀次からの知行宛行(知行地を与えること)の史料からわかる範囲で明らかにしています。
18歳で領主となった秀次がどこまで独力で支配を行ったのかはわかりませんが、宿老の支えを得ながら領主として支配を行った様子を知ることができます。
第四章 関白一門として
第四章は天正14(1586)年の京都聚楽第の造営から始まります。宣教師の史料によると、秀次は総奉行を務めたようです。本章では造営に関わる秀次の様子を記しています。
さて、この頃には秀次は官位を得ています。前年の天正13年10月時点で少将となっていたことがわかっています。本章ではその後、関白になるまでの官位昇進の一覧表を掲載し、わかりやすくなっています。
天正16(1588)年4月、後陽成天皇が聚楽第に行幸します。この時21歳の秀次も行幸の行列に加わっています。この行幸は単なる行事ではなく、そこには秀吉の真の目的もありました。また、行幸のさなかには秀次は公家に列することを許可されています。この行幸における秀吉の狙いや秀次にとっての意味が本章ではよくわかります。
なお、余談のような形ではありますが、本章の最後には、秀次が剣術や弓術に高い関心を持っていたことが述べられています。秀次のあまり知られていない一面ではないでしょうか。
第五章 尾張清須城主
第五章は天正18(1590)年の小田原北条氏攻めから始まります。この頃、秀吉の右腕とも言える弟・秀長は病に伏していました。そこで、本章では秀長に代わって秀次が動員されたとしています。
秀吉は秀次に対して5ヶ条の心得を与えた他、軽率な行動を戒めるように伝えています。秀次は家康の指示のもとで行動するように求められていましたが、一方で戦いでは城を落とす等の戦功を挙げた、とされています(実は情報の信憑性の問題がある)。本章では秀次の動向を述べる他、秀吉の秀次に対する評価がわかるような記述もされています。
北条氏が降伏した後、秀吉は織田信雄に対して三河国・遠江国への転封を命じますが、信雄は従わなかったため、改易されます。その後、信雄の領国であった尾張国を与えられたのが秀次でした、とされています。
というのも、秀次が果たして本当に尾張一国を領国としたのか?本章では他の武将の所領配置等から再考を促しています。
とはいえ、秀次は尾張国で支配も行っており、本章で検地の様子が述べられています。
秀次が尾張国に在国した期間は短く、支配は家臣達が担っていたのかもしれません。本章では実態がよくわかっていない秀次家臣団についても検討しています。
本章の最後は北条氏滅亡後の奥羽仕置について述べられています。秀次は奥羽仕置において形式的な総大将になったとされ、天正18年末に帰国した後、翌19年正月にも再度出陣します。
再出陣の時は、家康の補佐があったとはいえ、秀次が攻撃軍を指揮し、占領地域への仕置を指示しています。本章では奥羽仕置における秀次の動向が詳しく述べられています。
このあたりまで読んでくると、形式的な場合もあれども、聚楽第造営の総奉行、小田原攻めでの秀長に代わる役割、奥羽仕置での総大将など、秀吉が秀次を表舞台にどんどん出している印象を受けます。自身の後継者にと考えていたように思えます。それが一つの到達点に達するのが、次章で述べられる秀次の関白就任ではないでしょうか。
第六章 関白就任
第六章は豊臣家内部の不幸から話が始まります。
秀次が奥羽仕置のための再出陣(天正19年正月)から領国の清須へ戻ったのは天正19年11月です。同年正月には秀吉の弟・秀長、8月には秀吉の子・鶴松、更に翌20年7月には秀吉の母・大政所、同年9月には朝鮮在陣中の秀吉の養子・秀勝(秀次の弟)がそれぞれ亡くなりました。
これにより、秀次に秀吉からの家督譲渡の話が持ち上がります。ここから秀次は一気に関白まで上ります。本章では秀次が関白となっていく過程や、その秀次へ秀吉が出した覚書(内容は戒めのようなもの)が詳述されています。
その後は関白としての参内といった秀次の動向が述べられます。中でも著者が大きな出来事として挙げているのは天正から文禄への改元と、正親町上皇の崩御です。事態の経過と、その中で秀次がどのような役割を果たしたのか(又は果たせなかったのか)が述べられます。
若年で、他に秀吉の後継者がいない中での関白就任という、いわば「仕方なく」関白となった秀次には荷が重すぎたように映ります。
また、そのような秀次に対し不快に思う公家もいたようです。本章では公家の近衛信輔を例に挙げています。
一方、秀次には文化面での活動が見られます。著者は、その大きなきっかけを天正15年に中納言になるといった公卿への仲間入りと推定しています。特に古典籍の収集や書写を行ったようで、本章で詳しく述べられます。また、文禄元(1592)年には京都の五山の僧に対し、学問興隆を命じています。
このような秀次の五山への学問奨励について、著者は、突然行われたのではなく、元々秀次と五山の間には何らかの経緯があったのではないかと推定します。そこで、この少し前に秀次が行った五山への介入を挙げて検討を行っています。
これらの介入と学問奨励は、秀吉が朝鮮出兵のため不在にしていた期間中に秀次が主体性をもって取り組んだ事で、著者は「関白らしい仕事をした」と評価しています。
第七章 太閤と関白
第七章は秀吉による朝鮮出兵から始まります。秀次は出陣せず、京都に残ることとなりますが、秀吉が出した人掃令を受けて諸大名へ5ヶ条の掟書を出しています。内容は朝鮮出兵の後方支援となる夫役徴収に関するものです。
本章では、この掟書をめぐって、なぜ秀次が発給したのか?について疑問を呈しています。それは「関白だったから」という単純なものではないようです。
さて、秀次は京都に残ったものの、徳川家康と前田利家も残っており、京都支配は前田玄以がおり、秀次にも田中吉政等がついていたため、秀次の役割は限定的であったとされています。
朝鮮で日本軍がある程度進軍した頃、秀吉は秀次に対して覚書を与えます。それは朝鮮や明を征服した後の政治体制について述べられていました。もちろん秀次も含まれています。
朝鮮出兵が始まったこの天正20(文禄元、1592)年10~12月頃に秀吉の側室・淀殿が懐妊します。後に秀頼となるこの子により、秀吉と秀次の間にほころびが見え始めます。が、文禄2(1593)年春頃までは大きな波風は立っていなかったとされています。
文禄2年8月3日、大坂城でお拾(後の秀頼)が誕生します。これを受けてか、秀吉は9月には秀次に将来の日本分割案を示し、両者の関係が変化し始めます。秀吉の秀次への働きかけや、恐らくは秀頼誕生を受けての秀次の精神不調など、本章では両者の動きを詳細に述べています。
特に、秀次が支配する(実際は父や家臣が担っていた)尾張国をめぐる、秀吉の指示や譴責に関して詳述されています。
文禄4(1595)年、会津黒川城主の蒲生氏郷が死去します。相続について、秀吉が一旦は改易を命じたものの、後に撤回されました。この件については、従来は秀次が関白として秀吉の決定を覆した(秀吉に対する反撃)とされていましたが、著者はこれを疑問視し、秀次による反撃ではないとしています。
本章の最後では、太閤秀吉と関白秀次が発給した文書から、両者の関係を検討しています。基本的には、秀次は秀吉の権力を凌駕するほどではなかったとしています。
第八章 秀次事件の真相とその影響
第八章は、いよいよ文禄4(1595)年7月に秀次が自害した秀次事件に迫ります。まずは同年4月の秀保(秀次の義弟)の死去から話が始まります。
秀保は秀吉の弟・秀長の養子であり、甥です。秀長の没後に跡目を継いでいました。本章では秀保の死去に対する秀吉の対応に疑問点があることから、秀吉に何らかの考えがあったのではないかと推測しています。
そして、いよいよ文禄4年の秀吉・秀次の関係に話は移ります。
この年に入り、秀次は何度も秀吉に会っています。著者は秀吉が秀次に対し、秀頼に権限を譲るように働きかけたのではないかと推測しています。
7月に入り、公家の山科言経はその日記に、秀次と秀吉が7月3日から「御不和」と記しています。そして、詳細は不明ですが、ここから事態は秀次失脚へと急速に展開していきます。著者は不和の理由を豊臣家の家督を巡る問題であるとしています(あくまで主要因であり、実際は複合的な問題)。
そして、7月10日に秀次は高野山へ入ります。同日、秀吉は鍋島直茂らへ秀次を高野山へ追放した理由を書き送っています。しかし、秀吉はこれまで、柴田勝家や北条氏政等を討つ場合に相手の罪状を書いていますが、秀次の場合は不届きであると書くにとどまっています。このことからも著者は、「秀次に非があるとすれば、もっと断定的に断罪できたのではないだろうか」としています。
そして7月15日、秀次は自害しました。これについては、秀吉が自害を命じたと思う人もいるでしょうが、本章によれば、実際はそうではないとされています。
秀次事件では秀次だけでなく、妻妾や家臣や多くの人々が連座しました。本章では多くの人々の連座の状況やその後の仕官先等についても表にまとめ、本文でも詳細に述べています。一方で、難を逃れた人、加増を受けた人もいました。
さて、秀次事件の真相・要因は何であったのか?江戸時代以来、秀次の謀叛という説が有名?です。しかし、後の時代に書かれた史料はどこまで信用してよいのか問題です。本章では同時代史料として当時の宣教師ルイス・フロイスの報告の内容を紹介しています。フロイスは秀吉と秀次の確執の原因を3点挙げます。
本章では秀次事件の真相に迫っていますが、詳細は本書をお読みいただきたいと思います。
本章の最後では、秀次事件の結果、どのような影響があったのかを述べています。具体的には諸将に秀頼への忠誠を誓う起請文を出させたり、法にあたる「御掟」・「御掟追加」が出されたりしたことを挙げています。
第九章 秀次像の形成
最終章となる第九章では、事件前に亡くなった秀次の家族、事件後に残された秀次の家族、秀次の肖像画、後世の史料で語られる秀次について述べられます。
秀次事件によって処刑された妻妾は第八章で述べられましたが、本章では生き残った妻である池田恒興の三女や事件以前に亡くなった妻子について紹介されています。
残された家族については、まず秀次の両親についてです。父親である三好吉房は所領没収の上、讃岐国へ追放されましたが、後に許され、江戸時代まで生きました。
また、母・とも(秀吉の姉)は出家して瑞龍院日秀と号し、秀次の菩提を弔うために瑞龍寺を建立しました。寛永2(1625)年に94歳で亡くなりました。
本書には書かれていませんが、日秀は江戸時代に公家の九条幸家や大名の藤堂高虎とも交流を持っていました。高虎がかつて仕えた主君・豊臣秀保は日秀の子(養子)で、秀次の義弟です。以下の記事で少し紹介しています。
続いて、秀次の2点の肖像画について検討されています。この内1点は戦後殆ど知られていなかったであろう肖像画で、自害直前か直後に描かれ、秀次の肖像画として信憑性が高いとしています。
もう1点は一般的によく知られているものですが、描かれたのは江戸時代になってからです。
そして、2014年に発掘された秀次の供養塔についても紹介しています。
さて、秀次は殺生関白としてのイメージが流布していますが、本章ではそのイメージがいつ頃から形成されたのかを検討しています。そのイメージは宣教師を通じてヨーロッパにも及んだようです。一方で、僅かながら、殺生関白とは逆の冷静な評価をした日本人もいたようです。
更に、江戸時代にこのような悪い秀次像が形成された要因についても検討しています。秀次の妻妾らを処刑した秀吉ではなく、なぜ秀次のみが悪いイメージで語られるのか。そこには文学作品等の影響があったことがわかります。
以上が本書の主な内容です。本書を読めば、秀次について一通り知ることができます。
特に第八章・九章で書かれているような、一般的な秀次事件や悪い秀次のイメージに対して、研究者として史料からわかる正しいイメージを描き出しています。
本書は秀次についての正しい理解を得ることができる、おすすめの本です。
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