古代の石碑・上野三碑とは?

「上野三碑」という石碑を聞いたことがありますか?上野三碑は今の群馬県にある3つの石碑です。これはどんな石碑なのか?そこから何がわかるのか?今回は上野三碑を紹介します。

上野三碑の概要

上野三碑(こうずけさんぴ)は上野国(こうずけのくに)にあるつの石です。上野国とは、群馬県の昔の国名です。

3つの石碑とは、金井沢碑(かないざわひ)・山上碑(やまのうえひ)・多胡碑(たごひ)の3つです。いずれも飛鳥・奈良時代に建てられた石碑で、日本国内で最古級のものです。

国の特別史跡で、ユネスコ「世界の記憶」に登録されています。

国内に現存する平安時代以前の石碑や石塔は18個(個という単位が正しいかはともかく、わかりやすいように「個」にします)あります(内1個は石ではなく焼き物製)。一番多いのは奈良県で5個(さすが奈良)、次が熊本県と群馬県で各4個です。熊本県のものは全てが1つの寺院に集まっていますが、群馬県のものは上野三碑を含めて4つがそれぞれ少し離れた所にあります。

上野三碑があるのは群馬県高崎市です。高崎駅からは少し離れていますが、上信電鉄で高崎駅から最寄り駅まで行くことができます。上信電鉄高崎駅には三碑のレプリカや説明があります。

上信電鉄高崎駅のレプリカ

レプリカや説明にあるように、三碑には多くの銘文が刻まれています。それも同じような内容でなく、様々なことがわかります。

では、実際に三碑を見ていきましょう。行き方や附属設備についても書いていきます。なお、三碑がある3ヶ所とも駐車場・トイレ完備です。飲食店はほぼ無しです(しかも2ヶ所は少し山の中)。

金井沢碑

先に書いたように、三碑はそれぞれ少し離れた所にあります。今回紹介するのは、私も実際に行ったルートです。

まず、高崎駅から上信電鉄(1時間に1~2本)で根小屋駅まで行きます。

根小屋駅

根小屋駅で下車した後は金井沢碑まで10分ほど歩きます。駅前には案内板もあります。

説明板の所から行くと、1つ目のT字路を左折、2つ目のT字路は右折します。そこから少し行くと、右の写真のようなY字路に出ます。

看板があるのでわかりやすいです。ここは左の道を下りていきます。あとは一本道で、金井沢碑の下にある広場に着きます。

金井沢碑の下の広場

上の写真の右にある屋根の所には机・イスもあり、休憩できます。それとともに、机の上にはレターケースがあって、上野三碑等のパンフレットが入っています(自由に持っていける感じ)。

更に、ボランティアガイドの方がいて、御朱印(御碑印??)をもらえました。私は日曜日の朝9時前に行きましたが、その時にはガイドの方は不在でした。後述のバスを待っている間、9時半頃にガイドの方がやって来ました。何時から何時迄いるのかや、曜日が限定なのかは不明です。

その他、ここには駐車場(15台ぐらい駐車可)とトイレもあります。トイレは結構きれいです。

さて、金井沢碑はこの休憩所のすぐ向こうから右へ階段を上った先です。

金井沢碑上り口

1~2分上ると、建物が見えてきます。

肝心の金井沢碑ですが、この建物(碑の覆い屋)の中にあり、窓ガラス越しに見ることになります。碑までは1~2m離れており、近付くことはできません。見に行く場合は、その点を分かった上で行きましょう。

覆い屋があるのは、碑の保護のためです。1,000年以上残っているとはいえ、石碑は雨風等で風化します。ひび割れの間に水が入って凍結すると、そこからひび割れが広がります。このように、野ざらしでは貴重な石碑がいずれ破損したり、文字が読めなくなったりします。覆い屋は石碑を後世まで永く残していくために必要な措置なので、そこは理解が必要です。

上野三碑はいずれも覆い屋の中にあります。覆い屋の正面にはスイッチがあり、中でライトが点灯して見やすくなるのと、自動音声で解説を聞くことができます。また、窓は4方向にあり(山上碑は3方向)、それぞれの方向から見ることができます。銘文があるのは正面だけです。

拡大して撮影しましたが、文字を判読するのは難しいです。

拡大版

他の3方向はこんな感じです。結構ずんぐりしているものの、下の方は薄いようです。よく倒れずに残っていたものです(いや、倒れたこともあるのかもしれない)。

左面
裏面
右面

銘文はここに載せても読み方が難しいと思うので、パンフレット等を参考に、概要を記しておきます。

まず、金井沢碑が建てられたのは奈良時代の神亀3(726)年です。今年は2026年なので、ちょうど1,300年になります。この数字はさすがにあまり聞かないレベルですね。何百年とかなら時々ありますが・・・。金井沢碑は1,300周年で絶賛売り出し中です(笑)

1,300年記念の旗

金井沢碑は三家(みやけ)氏という一族が、同族と共に祖先の供養と一族繁栄を祈ることを目的に建てました。この一族は仏教の教えで結びついていたようです。このことから、当時この地域で仏教の教えが存在していたことがわかります。

三家氏は、次に紹介する山上碑に記された「佐野三家」を経営した豪族の末裔と考えられています。「佐野三家」は「さののみやけ」と読み、ここでの「三家(みやけ)」は「屯倉(みやけ)」で、ヤマト政権の直轄地のことです。

そして、金井沢碑には9人の名前が刻まれ、この内6人は3世代の一族であることがわかっています。銘文にある、この一族の系譜の書き方から、この地域でも戸籍づくりが行われていたことがわかるそうです。

また、この一族の居住地が「上野国群馬郡下賛郷高田里」とあり、国・郡・郷・里という大宝律令(701年)後に定まった行政区分がこの地でも存在していたことがわかります。

なお、この中の「群馬」は「くるま」と読み、現在の県名の由来だそうです。地元で「群馬」の2字が確認できるのは金井沢碑が最古です。

金井沢碑を見るのは、それほど時間はかかりません。説明はパンフレットの他、覆い屋の横にも詳しい説明板があります。

金井沢碑から下の広場に戻ります。ここから次の山上碑までどう行くかですが、方法は3つあります。

①根小屋駅に徒歩10分で戻って上信電鉄(1時間に1~2本)に乗り、西山名駅か山名駅で下車して20分歩く(どっちも上り坂!)。

②金井沢碑から山上碑まで山道を1時間歩く。

③上野三碑めぐりバス(大体1時間に1本、無料)に乗り、山上碑まで行く(厳密にはバスを降りて少し歩く)。

私は一番楽な③を使って3碑をめぐりました。1時間に1本なので、それぞれの碑で待ち時間が出ますが、他の方法の所要時間を考えると、待ってでも乗った方がいいし、碑のすぐ近くまで行けるので楽です。もちろん、自動車で来るのが一番便利ですが・・・。

上野三碑めぐりバス

私は金井沢碑→山上碑→多胡碑→上信電鉄吉井駅の3回バスに乗りましたが、晴れた日曜日にもかかわらず、誰も同乗しませんでした。無料の専用タクシーでしたね。定員は9人ですが、満員で乗れないということはあまり無さそうです。

ただし、運行は毎週木~日曜日と祝日(12月28日~1月4日は運休)なので、注意が必要です。詳細や時刻表は高崎市のホームページに掲載されています。

では、バスに乗って山上碑へ向かいます。

山上碑

金井沢碑からバスで山上碑へ行きますが、金井沢碑と違って、バス停は山上碑から少し離れています。とはいえ、山上碑の上り口まで一本道で徒歩5分足らずです。

このバス停の奥の道へ進む
この入口から右へ入る
ここを上って行く

自動車で来た場合の駐車場とトイレは、左上の写真の入口を通り過ぎた少し先、道の左側にあります。

ボランティアガイドの方がみえるのは入口から少し上った所です。

注意です。金井沢碑と違って、山上碑はかなりの階段を上ります。めっちゃエラいです(笑)。

果てしない階段

階段を上りきると、左前方に山上碑の覆い屋が見えます。

山上碑はこんな感じです。左面は覆い屋に窓が無いので見えません。

正面
右面
裏面

銘文があるのは正面です。金井沢碑よりは読める字が多いです。

なお、実は裏面にも文字があるように見えたので、高崎市教育委員会に問い合わせました。回答としては、墨で書かれている文字があるそうですが、山上碑が建てられた当時の文字ではないと考えられており、あまり研究は行われていないとのことでした。

私が見た限りでは、「五月□日」や「上野□廻国記念」(□は読めない文字)のような文字があるように見えました(他にも文字はありそう)。近付けないので、はっきりとはわかりませんが。内容から、江戸時代に書かれた可能性があると思っています。

金井沢碑と同様に、山上碑も覆い屋の横に詳しい説明板があります。

山上碑が建てられたのは飛鳥時代の681年で、日本で現存する2番目に古い石碑です。完全な形で残るものとしては最古です。長利という僧侶が母親のために建てた碑です。

銘文には、佐野三家(さののみやけ)を定めた健守命(たけもりのみこと)の子孫の黒売刀自(くろめとじ=女性)が、大児臣(おおごのおみ=男性)と結婚し、この2人から生まれた僧の長利が母親(=黒売刀自)のために建てたと記されています。

三家=屯倉は、前述のとおりヤマト政権の直轄地のことです。健守命はこの佐野三家(屯倉)の初代管理者とされています。

また、長利は自ら「放光寺僧」と書いて(刻んで)います。放光寺は群馬県前橋市の山王廃寺と考えられています。それは、山王廃寺から「放光寺」という文字が刻まれた瓦が出土しているためです。山王廃寺は、当時としては東国で最古級・最大級の寺院であったことがわかっています。

ところで、中国から伝わった漢文は下の字を先に読んでから、上の字に戻って読むことがよくあります。例えば金井沢碑には「為七世父母現在父母」という文があります。これは「七世父母と現在父母の為に」と下から上に返って読みます。いわゆる返り点を入れて読む形です。

一方で山上碑の銘文は、日本語の語順どおりに漢字が並んでいます。ここには、日本独自の漢字の使用方法の原形が示されているとのことです。

山上碑の形ですが、自然の形のままの石をあまり加工せずに使っています。これは朝鮮半島に当時あった新羅(しらぎ)という国の石碑と似ています。このため、山上碑にはこの地にいた新羅系の渡来人が関与していると推定されています。

ちなみに、もちろん真意はわからないのですが、長利は母のために山上碑を建てています。父の先祖は名前しか出ていませんが、母の先祖は佐野三家の管理者という由緒が記されています。母の先祖に誇りを感じていたから母のために建てたのか?はたまた、いつの時代も母は偉大なのか?みなさんはどう思いますか?

山上古墳

さて、上野三碑ではありませんが、山上碑の横には山上古墳があります。この古墳は山上碑と関係しています。

石室の中にも入ることができます。下の写真は石室入口と羨道(せんどう)です。

石室入口
羨道

下の写真は玄室です。

玄室入口
玄室内部

玄室とは石棺を安置する部屋です。玄室とそこへ続く羨道という通路を含めて石室と言います。

玄室内にある石造物は中世(概ね鎌倉時代と室町時代)のものだそうです。

山上古墳は7世紀前半から中頃に造られたとされます。隣にある山上碑の銘文から、山上古墳は佐野三家の経営に関わった、この地域の首長の墓であったと推定されています。

さて、山上古墳が造られたのは7世紀(600年代)前半から中頃です。一方、山上碑は681年に建てられました。数十年の差があります。このため、

①山上碑を建てた僧・長利の母・黒売刀自の父(長利の祖父)の墓として山上古墳が造られる。

②後に黒売刀自も追葬される。

③追葬に伴って、供養のために山上碑が建てられる。

という順序であったと考えられています。

他家へ嫁いだ女性である黒売刀自は実家の墓に葬られたことになります。現代とは違う古代の家族制度を知る上でも貴重な情報だそうです。

では、バス停に戻り、最後の多胡碑へ向かいます。

多胡碑

山上碑から多胡碑への移動は、自動車以外なら上野三碑めぐりバスが一番良いと思います。

徒歩・電車の場合は、徒歩約20分かけて上信電鉄山名駅か西山名駅まで戻ります。そこから1時間に1~2本の電車に乗って吉井駅で下車します。吉井駅から多胡碑まで徒歩約25分です。徒歩だけで45分あるので、電車の待ち・乗車時間も含めると1時間はかかるでしょう。バスは1時間に1本なので、待ってでも乗った方が早いと思います。

バスは多胡碑のある広場の隣の駐車場に着きます。多胡碑は平地にあるので、駐車場から広場へ移動するだけです。ここは楽ちん。

中央やや右の木々の奥が多胡碑の覆い屋
多胡碑の覆い屋

トイレは覆い屋の右手の方と、後で紹介する多胡碑記念館内にあります。

多胡碑は下の写真のような碑です。

正面
左面
裏面
右面

あまり(全く?)加工しない形だった金井沢碑・山上碑とは異なり、多胡碑は直方体で、笠石が載っています。

多胡碑も銘文があるのは正面です。山上碑と同様に読める字が多いです。ここも覆い屋の横に説明板があります。

多胡碑が建てられたのは和銅4(711)年頃とみられています。「頃」とあって断定できないのは、銘文が和銅4年に出された公文書を略記したもので、そこに「和銅四年」とあるからです。つまり、「和銅4年の文書を写したものであるが、いつ写したのかまではわからない」ということでしょう。

多胡碑の銘文は、和銅4年3月9日に中央政府から出された公文書の略記とされています。文書の内容は、上野国の片岡郡・緑野郡・甘良郡の3つの郡の中の300戸をもって新たに多胡郡を創設することを命じたものです。

中央政府が編纂した歴史書である『続日本紀』にも、和銅4年3月6日の記述として「上野国甘良郡・緑野郡・片岡郡の一部をもって、多胡郡を設置する」(←私の意訳)とあり、多胡碑の銘文と一致します。

多胡郡の範囲は現在の高崎市吉井町から南八幡地区一体とみられています。上野三碑はいずれも多胡郡の推定範囲内にあります。この地域にはヤマト政権の直轄地「屯倉」が設置されていました。このように中央とつながりが深い経済上の要地と考えられています。

なお、多胡碑にある銘文は中央政府の発行文書(の略記)です。このような文書には最後に発行者である役人の署名があります。そこにあるのは次の4人です(文字は碑にあるまま)。

  • 左中弁正五位下多治比真人
  • 太政官二品穂積親王
  • 左太臣正二位石上尊
  • 右太臣正二位藤原尊

この内、4人目の「藤原尊」は有名な藤原不比等です。不比等の父は大化の改新で有名な中臣鎌足で、不比等の子ども達も政権で重きをなしました。

さて、多胡碑は以上となりますが、ここには多胡碑記念館があります。多胡碑の覆い屋の右奥にあります。

多胡碑記念館

記念館内部は、上野三碑のレプリカの他、世界にある文字が刻まれた碑の紹介、この地域の歴史に関する展示があります。一部は撮影可能ですが、SNS等への掲載は不可とのことです。

館内はそれほど広くはありませんが、上野三碑めぐりバスで来た場合は、次のバスまで1時間足らずなので、多胡碑を見て記念館もしっかり見ようと思うと、少し時間が足りないかもしれません。もう1つ先のバスにする(=ここで1時間30分余り滞在する)か、悩みどころです。あるいは、バスは見送って、吉井駅まで25分歩くかです。

私は次の予定もあったので、急いで見学して50分後のバスに乗りました。

バスで吉井駅まで約10分です。上信電鉄は本数が多くないので、バスとの時間はうまく合わない可能性もあるので、御注意ください。

以上が上野三碑めぐりです。三碑は建てられた年もわかっており(多胡碑は推定)、自動車やバスでめぐれば半日で回れる範囲内に三碑全てがあります。覆い屋のガラス越しとはいえ、最古級の貴重な石碑を短時間で3つも見ることができます。

この程近い3ヶ所に同じような時期に相次いで石碑が建てられたことには何らかの意味があったのでしょう。是非見に行ってみてはいかがでしょうか。

※記事の内容は令和8年4月時点のものです。

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