このブログでも何度か取り上げている戦国武将・藤堂高虎。2026年の大河ドラマ「豊臣兄弟!」の主人公・豊臣秀長の重臣でもありました。
その藤堂高虎を知ることができる、おすすめの本が刊行されています。その名も『藤堂高虎』。著者は高虎研究の第一人者と言ってもよい、三重大学名誉教授の藤田達生氏です。
何度も記事を書いておいてなんですが、これ1冊読めば、高虎のことは結構わかると思います。研究者向けだけでなく、一般向けの内容でもあるので、とてもわかりやすいです。少し前にこのブログで検証した諏訪勝則『図説 藤堂高虎』(戎光祥出版、2025年)は誤りも多かったですが、それとは対照的に、この『藤堂高虎』は良書です。今回はその内容について、少し紹介したいと思います。
なお、当時の人物は何度も名前を変えることがあります(例えば豊臣秀長は最初「長秀」で、後に「秀長」と名乗った)が、この記事では原則として一つの名前に統一して記述します。
また、豊臣秀吉や秀長は、正確には羽柴秀吉や羽柴秀長と呼ぶべきとする見方がありますが、一般的であろうと考えられる豊臣秀吉や豊臣秀長として記述します。羽柴名字の一族についても同様です。
何という本?
改めて、今回紹介する本は、藤田達生『藤堂高虎』(ミネルヴァ書房、2026年)です。
著者の藤田氏は三重大学名誉教授で、織田・豊臣時代や江戸時代初期の研究を専門としています。著書や論文も非常に多くあります。
中でも藤堂高虎の研究には力を入れているようで、過去にも『藤堂高虎論』(塙書房、2018年)といった本があります。ただし、これは専門書なので、一般向けではありません。
逆に一般向けなのが、少し前になりますが『江戸時代の設計者―異能の武将・藤堂高虎』(講談社現代新書、2006年)があります。
今回の『藤堂高虎』は『江戸時代の設計者』よりも詳しく、『藤堂高虎論』よりも一般向けという、ちょうど中間のような感じでしょうか。でも、専門家でなくても十分読みやすいものになっています。ただ、『図説 藤堂高虎』とは違って、図版は少ないのでご注意ください。
出版社のミネルヴァ書房は「ミネルヴァ日本評伝選」として多数の人物の伝記を刊行しており、本書もその一つです。
はじめに章構成を示しておきます。
- 第一章 大和豊臣家
- 第二章 家康側近への道
- 第三章 最前線の藩
- 第四章 徳川公儀を創る
- 第五章 藩士群像
- 第六章 寛永政治への参画 ※「寛永」とは高虎最晩年の頃の年号。
では、早速紹介していきます。
第一章
第一章は、高虎の誕生から、高虎が大名になる直前まで(弘治2~文禄4年、1556~95年)です。
この時期は高虎の出生から始まり、主君を転々とした末に豊臣秀長に仕えます。秀長のもとで高虎は頭角を現し、やがて主君・秀長が亡くなり、後継の主君・秀保に仕えるも、秀保も若くして亡くなってしまいます。高虎の前半生とも言える時期です。以前にこのブログでも詳しく書きました。
最初は藤堂家や高虎の家族について述べられます。次いで浅井・阿閉・磯野・織田氏に仕えた時期が簡単に述べられます。
本章で一番ページ数を占めているのは、やはり豊臣秀長に仕えた時期です。高虎が秀長に仕官した年は、従来天正4(1576)年とされていましたが、本書ではこの年代についての考証を加え、従来とは異なる説を採っています。
ところで、秀長に仕えてしばらくの間、高虎の動きは確実な史料(一次史料=当時の手紙や日記類)には見られません。それは本書でも断り書きがあります。高虎が一次史料に現れ始めるのは本能寺の変の後からです。
本能寺の変の翌年(天正11、1583年)に起きた賤ヶ岳の戦いの頃、高虎が初めて一次史料に現れます。本書ではそれを紹介しています。
本書の記述が詳細になるのは本能寺の変、賤ケ岳の戦い、小牧・長久手の戦いを経た、天正13(1585)年の秀吉の紀州攻め・四国出兵あたりからです。四国攻めでの長宗我部氏との交渉、紀州攻め後の赤木城築城と山奉行としての活躍を述べています。
ここで注目されるのは、高虎の人脈形成に言及している点です。この頃の家康との関係の始まり、建築関係者、朝廷関係者等との関係形成が紹介されています。
続いて九州出兵での高虎の活躍が述べられます。ある時、日向国で豊臣方の宮部継潤の守る砦を島津軍が急襲します。その時、高虎は救援に駆け付け、継潤の危機を救います。高虎は武功を挙げただけではなく、講和した島津家久(当主・義久の弟)が急死した後、その子豊久と秀長の間を繋ぐ役割を担っています。
九州出兵の後、高虎は従五位下佐渡守となります。ここでは高虎の花押(かおう。手紙等に記すサイン。)のデザインの変遷についても述べられています。花押は同じ人物でも時期によって形が変わっていくことがあります。高虎も同様です。この形だけでも書状の書かれた時期が大体絞り込めるので、便利です。
天正18(1590)年の小田原攻めと秀吉の天下統一(本書では従来の説と異なり、天下統一は天正19年とする)、秀長の死を経て、朝鮮出兵(文禄の役)に至ります。
朝鮮出兵では一次史料を用いて高虎の行動を追います。それとともに、本書ではこの時期に高虎が秀長の後継者・秀保の家臣である(=秀吉の家臣ではない)にもかかわらず、秀吉から何度も直接命令を受けていることに注目しています。
本章の最後は、高虎の主君・秀保の死と、秀保の兄(義兄とされる)豊臣秀次の失脚・自害となっています。ここから高虎が大名となっていきます。
第二章
第二章は、高虎が秀吉直属の大名となった時から、関ヶ原の戦いを経て、対豊臣氏の大坂包囲網の形成に関わっていく時期までです。
この時期は高虎が秀吉の直属となるものの、間も無く秀吉が死去し、家康へ急接近して側近と言える存在になっていきます。
前章の最後で高虎の主君・秀保が亡くなるところまで述べられました。高虎は主君の菩提を弔うために高野山へ入りますが、間も無く秀吉に呼び出され、伊予国板島7万石の秀吉直属大名となります。本書では高虎が伊予国に配置された意義や、その後の高虎の伊予国との関わりについて述べています。
高虎の所領の前任大名は戸田勝隆ですが、勝隆は文禄の役で病死していました。高虎はその後に入ったことになります。しかし、単に空いていたから伊予国に入ったのではなく、秀吉が高虎をそこへ入れた理由があったことがわかります。
高虎は独立大名として朝鮮出兵(慶長の役)に参戦し、武功を挙げます。それと共に、朝鮮の学者を捕虜として日本へ連行します。もちろん、良い事ではないのですが、これが日本の学問の発展に寄与することになります。
そして、朝鮮出兵の最中に秀吉が亡くなり、朝鮮からの撤兵を迎えます(高虎はそれよりも先に帰国している)。
それから約2年後、御存知のとおり、関ヶ原の戦いが起こります。高虎はここで家康との密談や西軍の内応工作等といったように、以前のような武功中心の活躍とは異なる姿を見せます。
戦後、高虎は加増され、伊予半国20万石を領します。本章ではここから高虎と城に関してページの多くを割いています。まずは伊予国内の城郭配置です。伊予国の残り半国は高虎と犬猿の仲の加藤嘉明が領していました。藤堂領の城郭は加藤領への対抗も意識したものとなっています。
高虎は領内の城郭の一つとして今治城を築城しますが、ここで層塔型天守という新しい形の天守閣を導入し始めます。従来の望楼型と呼ばれる天守と比べると、建設の効率性が向上する等、先進的なものとなっています。
もちろん、高虎の城郭配置は対加藤嘉明だけではなく、瀬戸内海を挟んだ対岸・安芸国の福島正則の監視も意識する等、家康のもとで豊臣大名(豊臣家によって取り立てられた大名)に対抗するためのものとなっています(ここで重要な事は、家康側に立っているとはいえ、高虎も福島正則等と同じく豊臣大名であること)。
高虎の築城は伊予の藤堂領内に留まりませんでした。高虎は加藤清正とともに築城の名手とされますが、家康のもとで多くの築城に関わりました。それは大坂城の豊臣秀頼に対する大坂包囲網の形成でもありました。
本書では、高虎が関わった城を一覧表として掲げ、その意義を述べます。また、築城だけではなく、高虎自身も含む大名の転封も大坂包囲網形成の一環でした。本書ではどのような転封があったのかを述べ、その結果を図で示しています。この図を見ると、当時の大名配置がよくわかります。
第三章
第三章は、慶長13(1608)年に高虎が伊予国から伊賀・伊勢国へ転封となった後の、伊勢国津城と伊賀国上野城、それに各城下町の形成について述べています。
本章ではほぼ全てが津・上野城と城下町の形成に充てられています。著者藤田氏はこれまでも高虎の城・城下町づくりを詳細に述べられたことがありますが、世間的にはあまり詳しく知られていないのではないでしょうか。著者がほぼ一章を充てて述べているところに、その重要性が窺えます。
まず、津についてです。津は戦国時代以前から安濃津と呼ばれる重要な港町でした。織田信長の時代にも信長の弟・信包が築城しており、重要な場所であったことが窺えます。
秀吉の時代に信包に代わって富田知信(信高)が津城主となります。なお、本書では富田一白(知信)と信高を親子としていますが、一白の子が知信であり、知信が後に信高と名乗るので、少し誤っています(従来から一白(知信)と信高が親子と言われていましたが、実は異なります)。
慶長13(1608)年に富田信高に代わって高虎が入ります。高虎は津城を大改修するとともに、城下町を作っていきます。城下町は関ヶ原の戦いに伴う津城の戦いで荒廃していたと言われています。
本書では津城の改修について詳細に記述されていますが、高虎が築いた(拡張した)とされている石垣については、一部は富田氏時代に築かれたという最近の説があります。本書の出版と同時並行で出てきたぐらい新しい説なので、本書では十分に取り入れられていません。
次に津城下町についても、高虎没後間も無く描かれた城下町絵図(写し。津市所蔵。)も用いながら述べられます。高虎がどのような建設プランで津城下町を作っていったのか、本書を読むとよくわかります。
次は、領内のもう一つの城・城下町である上野についてです。
上野は高虎が入るまで筒井氏が領していました。筒井氏時代に北向き(北が城の正面)であった上野城を、高虎は南向きに変える等、大きな改変を加えました。上野城は大坂の豊臣氏に備えた城とも言われるだけあり、高虎は高い石垣を築いています。天守閣も築いていましたが、完成目前で暴風により倒壊しました(その後再建されず)。
上野城下町については、津城下町と同様に(いや、それ以上に?)整然とした町並みを形成しています。しかし、対豊臣氏の上野だけあり、城下町にもしっかりと防御機能(道の屈曲や重臣の下屋敷配置等)を持たせています。
津・上野とも模式図が載っているので、どのような城・町ができあがったのか、本書を見るとよくわかります。
さて、一つの大名領国内に二つの城・城下町があるのは異例です。一国一城令と言われるように、一つの国(この場合は一つの大名領国という意味)には一つの城と言うのが原則です。しかし、藤堂家の領国では伊勢国に津、伊賀国に上野という二つの城・城下町がありました。
本書ではその二つを有機的に結んだ伊賀街道や伊勢領・伊賀領それぞれの統治についても言及します。
また、領国とは異なりますが、江戸や駿府等にあった藤堂家の藩邸(藩の屋敷)についても述べています。
第四章
第四章は慶長13(1608)年の伊賀・伊勢国への転封から、大坂の陣での豊臣氏滅亡を経て、家康が亡くなるまでです。
慶長13年の高虎の伊賀・伊勢国への転封は大坂包囲網の一環でした。大坂包囲網により、江戸幕府は豊臣家への圧力を強めていきましたが、外部の豊臣家だけでなく、徳川家内部にも警戒すべき勢力が存在しました。本章ではそれをどのように克服(粛清)したのかが述べられています。
そしてついに大坂の陣を迎えます。大坂包囲網の形成に大きく関わってきた高虎にとって、大坂の陣は集大成とも言えます。本書では、その冬・夏の2つの戦いでの高虎の活躍を描きます。
ところで、本書ではこの大坂の陣を前述の徳川家内部のライバル排除と関連付けて述べています。一般的には、これまではあまり意識されなかった視点ではないでしょうか。
また、大坂の陣の前には高虎が大寺院と外様大名の争論を仲裁したり、家康の命令で加藤清正亡き後の熊本藩の後見をしたりという活躍も見られます。高虎は何故そのような活躍ができたのか(頼られたのか)?本書ではその理由を、唯一とも言える高虎の能力・立場と幕府草創期の特殊な事情であるとしています。
第五章
第五章は高虎の家臣達や藤堂家の歴史書等に焦点を当てています。
高虎は牢人からスタートして大名にまでなった人物です。つまり、家臣がいない状態から、多数の家臣を抱える立場になったのです。高虎はどのような家臣を取り立てていったのでしょうか?本書では何人かの家臣を紹介しています。
まず、渡り奉公人として渡辺勘兵衛です。勘兵衛は優れた武功があり、高虎が高禄で登用した家臣でした。しかし、大坂の陣を経てケンカ別れのような形で藤堂家を離れます。渡り奉公人を家臣として抱えることの難しさも垣間見られます。実は高虎も秀長に仕えるまでは渡り奉公人です。
次に地域の行政を得意とする者(地方巧者=じかたこうしゃ)として西島八兵衛です。八兵衛は高虎の側近として、津藩内部で活躍しました。それだけではなく、高虎が藩政を後見した讃岐国高松藩でも通算で19年もの間、行政面で活躍しました。
更に、一門衆として藤堂玄蕃嘉清・藤堂新七郎良勝・藤堂出雲高清・藤堂仁右衛門高刑、石田三郎左衛門武清(高虎と侍女の子と伝えられている)を挙げます。一門ではありませんが重臣の藤堂采女元則についても述べられています。
また、高虎の養子(当初は豊臣秀長の養子)であった高吉についても詳しく解説しています。高吉は高虎が去った後の伊予国今治(2万石の藤堂領が残る)の統治を行いますが、高虎没後に伊勢国へ移ります。その後津藩から独立を図りますが、高虎の跡を継いだ高次に阻止され、高吉は家臣の扱いとなります。
高次にとって義兄にあたる高吉は悲劇的な運命ですが、高次の弟・高重も高虎没の翌年に自害します。詳細は謎ですが、高次との確執のような疑いがあります。藤堂家も高虎で成り立っていたのであり、高虎没後は盤石ではなかったのです。
このように、本書では高虎没後の藤堂家の内紛のような部分にも言及します。研究としては、良い部分だけではなく悪い部分も目を背けずに見る必要があります。本書からはその姿勢を改めて感じることができます。
続いて、家臣をはじめとした津藩内部で編纂された藤堂家の歴史書を紹介しています。『高山公実録』・『宗国史』・『公室年譜略』・『聿脩録』は以前から津藩研究の史料として有名ですが、その他の史料も紹介しています。
最後に、高虎がかつての主君・豊臣秀長の菩提を長年にわたって弔っていたことが述べられています。豊臣家への追慕など憚られそうな徳川の世になっても、高虎は秀長の法事を営み続けました。晩年には子の高次・高重を伴って菩提寺に参拝しています。
これは私の感想ですが、晩年になった高虎が、自分や藤堂家の発展にとって欠かせない秀長の存在を子に語り継いでいるように感じます(想像です)。
第六章
最後となる第六章は、高虎の人脈や大坂の陣後の活躍について、いくつかスポットを当てて見ています。
最初は高虎の娘婿(正確には養女の婿)で、茶人としても有名な小堀正一(遠州)です。正一の父・正次はかつて豊臣秀長家臣で、高虎の同僚でした。正一は江戸幕府のもとで地域支配に活躍し、文化人としても有名でした。
次に注目するのは公家(しかも関白)の近衛信尋です。近衛信尋は時の天皇・後水尾天皇の実弟です。この人脈が活かされたのが元和6(1620)年の和子入内です。和子(和姫)は徳川秀忠の娘で、入内とは天皇に嫁ぐこと、相手は後水尾天皇でした。高虎は近衛信尋とともに入内交渉にあたり、難航した交渉をまとめました。
和子の入内は公武融和の象徴ですが、本書ではそれを含めた幕府の政権構想を推定しています。豊臣家が滅亡した後、幕府は大坂城を修築します。本書が注目するのは、和子入内や大坂城修築から見える、幕府の構想についてです。
その大坂の陣後、幕府は西国へ徳川系大名を配置していきます。そこには幕府と高虎の相談があったとされます。転封による配置換えが進んだ結果、本書掲載の配置図を見ると、中国・四国地方は御三家・譜代と高虎の親族が大名の殆どを占めていることがわかります。
ここまで、江戸幕府のもとでの高虎の活躍が描かれていますが、忘れてはならないのは、高虎は外様大名であることです。従来の研究では外様大名は幕府から遠ざけられていたと、まだまだ考えられていると思います。本書では外様大名(ただ全員ではない)も幕府政治を支えていたとし、その例が高虎であるとします。
本書の最後では高虎の死と、その多彩な能力について見ています。高虎の能役者や儒学者との交流、茶道を通じた交流、築城での指揮能力・算用能力等です。
そのような高虎が持っていた意識は、「領国は大名の私物ではなく、幕府から預かっているものだ」というものです。この預治思想と呼ばれる考え方が江戸時代になって大名に浸透していったことは、著者がこれまでの研究でも繰り返し述べていることです。
まとめ
本書では高虎の生涯を叙述するにあたり、『高山公実録』等の、いわゆる高虎研究ではオーソドックスな史料を使っています。
しかし、それだけではなく、近年発見(再発見)された「藤堂家覚書」という、高虎没後間も無い時期に書かれた(=真実に近いと考えられる)史料も使っている点が特徴です。もちろん、手紙(書状)といった、高虎が生きた当時の史料も使っています。
さすが、研究者が書いた本、という感じです。
さて、ここまで見てきたように(といっても、さすがに詳しくは書けませんが)、本書は藤堂高虎の生涯・事蹟を追うだけでなく、高虎が果たした役割や時代背景も織り交ぜて書かれています。著者の藤田達生氏はこれまで藤堂高虎に関する書籍や論文を多く発表しており、本書はまさに集大成と言えるでしょう。
値段は約3,000円なので、一般向けには少し高めかもしれませんが、内容からするとむしろお値打ちです。高虎の事を時代背景も含めて知りたいのであれば、まさに本書はうってつけです。
2026年の大河ドラマ『豊臣兄弟!』でも藤堂高虎が登場しました。これから秀長の家臣として活躍していくであろう高虎を知ることができる本として、『藤堂高虎』はおすすめです。


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