豊臣秀長を知るためのおすすめ本~『図説豊臣秀長』~

2025年の大河ドラマ「豊臣兄弟!」の主人公である豊臣秀長。秀吉の弟として有名です。

ところで、秀長ってどんな人?何をした人?どこに領地を持っていた?秀吉とは仲が良かった?

みなさんは秀長のことをどれだけ知っていますか?意外に知らない人も多いのではないでしょうか?

秀長は有名な一方、その生涯や事蹟はあまり知られていないのが実態だと思います。そんな秀長の事を知るのに最適の本が今年発売されました。しかも、書いているのは大学の研究者なので、内容もちゃんとしています(もちろん、諸説あるものもあります)。

今回はそんな豊臣秀長の事を知るための本を紹介します。

何という本?

今回紹介する本は、河内将芳『図説豊臣秀長』(戎光祥出版、2025年)です。

著者の河内氏は、本書記載の情報によると、京都大学で博士号を取得し、現在は奈良大学文学部教授です。著書には織田・豊臣時代のものが多く、この時代の専門家の一人です。

出版社の戎光祥出版はこの『図説~~』シリーズを多く刊行しています。『図説豊臣秀長』は文章だけではなく、写真やイラストを多用しています。論文を読もうと思うと、どうしても文章が中心(しかも専門家でないと難解な場合が多い)です。しかし、本書は写真やイラストがあることによって、文章をより理解しやすくしています。文章も論文とは違って分かりやすい表現になっています。

はじめに章構成を示しておきます(本書では「章」という名称ではありませんが、便宜上第●章と表記します)。

第Ⅰ章 戦場を駆け回る日々―~小一郎長秀の時代

第Ⅱ章 秀吉の天下取りをささえる―美濃守長秀の時代

第Ⅲ章 紀州・四国、相次ぐ出陣―美濃守秀長の時代

第Ⅳ章 三ヶ国を領する大大名―参議秀長の時代

第Ⅴ章 家康従属、島津氏の平定―中納言秀長の時代

第Ⅵ章 豊臣政権の重鎮―大納言秀長の時代①

第Ⅶ章 波乱の秀吉後継問題―大納言秀長の時代②

第Ⅷ章 病と死、豊臣政権の落日―大納言秀長の時代③

本の内容を全て書くわけにはいきませんが、以下、概要を紹介します。なお、秀長は当初「長秀」を名乗りますが、本ブログ記事では「秀長」で統一表記します。

第Ⅰ章

第Ⅰ章は秀長が生まれた天文10(1541)年から天正11(1583)年までです。

この時期は秀長の出生から、織田信長没後に秀吉が天下取りへ向けて動き出すところまでです。

秀長はどこで、何年に生まれたのか?秀長が歴史上初めて登場するのはいつなのか?意外に知られていないこれらの事を、本書では検討しています。

浅井長政の滅亡後、秀吉は浅井氏が治めていた地域を領地として与えられますが、秀長の活動も僅かながら近江国で見ることができます。

次に秀長の活動が見えるのは、織田信長の家臣としての秀吉が播磨・但馬国(ともに主に現在の兵庫県)を攻略する時期です。

秀長は主に但馬国内の攻略や支配を行っていきます。天正5(1577)年には但馬国の竹田城の城代を務めていたとされています。竹田城は天空の城として有名な、あの竹田城です。本書では播磨・但馬国における秀長の活動を、具体的な史料も挙げて解説しています。

しかし、天正10(1582)年に本能寺の変が起こり、織田信長が討たれます。これを機に秀吉は天下統一への階段を登って行き、秀長は秀吉を引き続き支えます。

この頃には、秀長の家臣も史料上で確認できるようです。後に秀長の重臣になっていく家臣達です。

第Ⅱ~Ⅴ章

第Ⅱ~Ⅴ章は秀吉の天下取りを支えて多くの戦いに赴く時期です。

年代としては、賤ヶ岳の戦いがあった天正11(1583)年から、天正15(1587)年に秀吉が九州を平定するところまでです。この時期に秀長の代名詞の一つである大和・紀伊・和泉国の「100万石」(後述のように、100万石ではなかったとされている)を領するに至ります。その後の九州出兵が、秀長が出陣した最後の大きな戦いになりました。

本能寺の変の後、(結果論としては)秀吉の天下統一への道がスタートします。秀長も山崎の戦い、賤ヶ岳の戦い、小牧・長久手の戦い、紀州攻め、四国出兵、九州出兵といった主要な戦いに参戦します。本書では各戦いにおける秀長の動きを、史料をもとに追っています。

ところで、秀長の名前について、本書では、小牧・長久手の戦いの頃に「長秀」から「秀長」に変わったとしています。

小牧・長久手の戦いの後、秀吉と戦った織田信雄の上洛交渉を、秀長が秀吉の「名代」(代理のようなもの)として行っています。これまでとは違い、羽柴家を代表して相手大名と交渉するという、秀長の役割が変わった段階ではないでしょうか。

また、信長生前、秀長は但馬国の支配を行っていたようですが、信長没後から大和国等で100万石を得るまでの秀長の領地は?実はあまり知られていないのではないでしょうか?

実は秀長は播磨・但馬国を支配していたと言われています。が、実態としてはどうなのか。本書では播磨・但馬国に残された古文書を中心に、その支配の実態を明らかにしています。実は、「播磨・但馬国を支配していた」とは単純には言えない状況が見えてきます。

天正13(1585)年の紀州攻めの後、秀長は紀伊・和泉国を与えられます。後に100万石と言われる秀長の領国の始まりです。

紀州攻めに続く四国出兵では、秀吉は四国へ渡海しませんでした(渡海しようとはした)。代わりに総大将として軍を率いたのは秀長でした。戦いの最中、秀吉が四国へ渡ろうとするのに対し、秀吉が来ないように秀長が説得しているのは印象に残りました。

四国の長宗我部氏が降伏した後、秀長はいよいよ大和国を与えられます。「秀長の領国と言えば」の大和国がここで登場します。これで100万石と言われる領国を持つに至ったのです(但し、秀吉時代の検地の結果を見ると、3ヶ国の合計は70万石余りであるため、100万石ではなかったとされている)。

ただ、紀伊国はまだ支配が安定していなかったらしく、歯向かう勢力もいました。秀長は自身も出陣する等、平定に努め、天正14(1586)年9月には紀伊国全域が支配下に入ったとされています。

本書では触れていませんが、例えば、現在の三重・和歌山県境あたりの北山一揆はよく知られています。北山一揆に対し、秀長側は赤木城を築いて藤堂高虎を入れ、対抗したとされています。が、実は赤木城の役割は異なるという説もあります。詳しくは次の記事をご覧ください。

この大和国を与えられた直後頃には「豊臣秀長」の名前になっていると、本書では推定しています。

三ヶ国の大名となった後、秀長は上方へ来た徳川家康や上杉景勝、大友宗麟といった大名と交流します。秀長が宗麟に対して、「表向きの事は自分(秀長)、内向きの事は千利休」と述べたことは有名です。

天正15(1587)年、その大友氏を救援するために秀吉は本格的に九州出兵を行います(厳密には前年12月に長宗我部軍等が既に九州へ出兵している)。秀吉と秀長が九州の西と東から進軍し、秀長が秀吉と軍勢を二分するほどの重要な役割を担っていたことがわかります。四国や九州出兵の頃には、秀長が自らの軍だけでなく、豊臣(羽柴)軍を大将として率いる立場になっていたことがわかります。

第Ⅱ~Ⅴ章の時期には、小堀正次や桑山重晴、青木一矩、藤堂高虎といった、秀長の家臣たちが表舞台に登場してきます。

小堀正次は江戸時代に奉行や茶人として有名な小堀遠江守正一(小堀遠州)の父です。

桑山重晴は紀伊国に築城された和歌山城の城代を務め、子は江戸時代に大名になっています。

藤堂高虎は秀長に仕えたのをきっかけに頭角を現し、江戸時代には32万石の大名にまでなった人物です。

第Ⅵ~Ⅷ章

第Ⅵ~Ⅷ章は秀長最後の戦いである九州出兵が終わって、豊臣政権の重鎮となり、やがて病によって亡くなるまでの時期です。

年代としては、九州出兵が終わった天正15(1587)年から、亡くなる天正19(1591)年までです。

九州から帰った秀長は大納言となります。有名な大納言秀長の誕生です。

秀長は天正15年末頃に病気になりますが、この時は回復しました。秀長が亡くなるのは約3年後ですが、この時の病気は回復しているので、最後の病気とは関係は無いのでしょうか。

天正16(1588)年には聚楽第へ後陽成天皇が行幸します。この行幸では、秀長の養子で跡を継ぐことになる秀保が披露されます。

聚楽第行幸後には毛利輝元が上洛します。この時の上洛に関しては『輝元公上洛日記』(『天正記』)という毛利家家臣が書いた記録が残っています。

本書では、この『輝元公上洛日記』から、上洛後の輝元の行動や、秀長との交流(輝元は秀長の本拠・大和郡山も訪れている)について詳細に書かれています。そこには羽田正親や桑山重晴、藤堂高虎、小堀正次等の家臣の姿もありました。

本書では、天正16(1588)年段階で、秀長が秀吉にとって後継者候補の一人であったとします。

しかし、翌天正17(1589)年には秀吉に男子・鶴松が誕生し、秀吉の後継者問題は方向性が変わってきます。本書では、秀長の家臣・吉川平介の不祥事が発覚する等、秀吉と秀長の関係が変化していく様子を見ていきます。

そして鶴松誕生の年、11月頃には秀長は体調を崩します。秀長は湯治を行う等、養生に努め、寺社では病気回復の祈祷が行われます。本書では療養中の秀長の動きや祈祷の様子が詳しく書かれています。

天正18(1590)年、秀吉は天下統一の仕上げとなる小田原攻めと奥州仕置を行いますが、秀長は病気のため従軍できませんでした。そして、翌天正19(1591)年1月、秀長は亡くなりました。

以上が秀長の出生から死去までの本書の概要です。

秀長の家族、奈良借、大和郡山の発展

本書では秀長の家族についても触れています。秀吉・秀長の母である大政所は、天正14(1586)年に家康のもとへ赴く前に秀長の本拠・大和郡山に逗留したことがありました。そこでの大政所の様子も書かれています。

詳細が分からない秀長の妻については、大政所との交流といった関係について書かれており、良好な関係であったことがわかります。

妹の南明院は徳川家康の正室となりますが、家康への嫁入りや死去に関してやや詳しく書かれています。

また、秀長の領国である大和国にある奈良と郡山については、まず秀長家の莫大な財産を築く一因となった「奈良借」とそれを巡るトラブルが書かれています。「奈良借」は奈良へ金子を貸し付けるものです。

秀長にとってはマイナスイメージになるかもしれない「奈良借」にもしっかり言及しているところは、さすが研究者です。

郡山については、秀長の居城があった町であり、商工業の発展政策等が書かれています。

本書の末尾には、秀長がいつ、どこにいたのかを示した動向・所在表や年表、参考文献一覧が掲載されています。

まとめ

詳細を書くとネタバレにもなるので、概要を述べるに留めました。実際に本書を読んで、今まであまり知られていなかったことを知る、という楽しみを味わっていただきたいと思います。

最初にも書きましたが、意外と知られていないであろう秀長の生涯。秀長は秀吉を支えたと言われながら、秀吉の影に隠れていないでしょうか?そんな秀長を主人公にしたのが本書です。

実は、秀長に関する論文は多く発表されています。最近でも秀長関係の過去の論文を(全部ではないですが)集めた、柴裕之編著『豊臣秀長』(戎光祥出版、2024年)も刊行されています。しかし、研究者でないと論文を読むのは難解かもしれません。

本書は研究者でなくともわかりやすいように、最新の研究成果に基づいて書かれた秀長の解説書です。

また、秀長が主役とはいえ、秀長を語るには秀吉の動向は欠かせません。本書は秀長についての本でありながら、秀吉についても詳しく述べられています(もちろん、秀吉メインの本の方が詳しいでしょうが)。

まさに、2026年の大河ドラマに向けて、豊臣兄弟を気軽に知ることができる本として、『図説豊臣秀長』はおすすめです。

《参考文献》

  • 柴裕之「羽柴(豊臣)秀長の研究」(柴裕之『豊臣秀長』、戎光祥出版、2024年)

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