『図説 藤堂高虎』を読んでみた2~本書の誤りを検証する~

前回は『図説 藤堂高虎』の概要の紹介と単純な誤りについて書きました。全体を通して、高虎の生涯をコンパクトにまとめ、史料も多く用いながら具体的に記述しているのは、本書の良い点であると思います。

一方で、高虎を研究する私からすると、多くの誤りがあるのも事実です。今回は、前回に引き続き、本書の内容を検証していきたいと思います。

もし私の見解の方が違うだろう、ということがありましたら、コメント等で教えてください。論争までするつもりはありませんので、そのあたりは予めご了承ください。

史料の解釈等について

では、主に史料の解釈(読み方や訳し方)をめぐる問題を検証したいと思います。少し難しい話になりますが、お付き合いください。

①(天正12年)11月17日付小野木重次書状の解釈1(64ページ)

この書状は高虎に宛てたもので、私が見た限りは『宗国史』に掲載されているのみです。『図説 藤堂高虎』では書状の一部を訳して紹介し、その中で「当方(重次)が戻った際に、そちら(高虎)の諸事については詳しく聞くことにする」と書いています。

これは原文(書状に書かれているままの文)では「此方へ御帰之刻、旁々可承候問、不能程候」とあります(「問」は「間」の誤りだと思います。読点は私が追加。)。

さて、問題になるのは赤いマーカーを付した部分です。これは小野木重次が高虎に宛てた書状です。「此方」は「こちら」という意味です。そもそも「此方」の訳が抜けています。

そして「御帰之刻」についてです。「刻」は「~の時」や「~の際」という意味です。これは合っています。

問題は「御帰」の主語です。本書では主語は書状の筆者である重次としています。しかし、「帰」には敬語の「御」が付いています。筆者である重次が自分の行動である「帰」に敬語の「御」を付けるでしょうか。「私がお帰りになった際に」では変ですね。

なお、自分の行動に「御」等の敬語を付ける人もいます。それは天皇や豊臣秀吉といった限られた人です。

ここでは「御帰」の主語は、宛先である高虎です。「(あなた=高虎が)こちらへお帰りになった際に」であれば自然です。「高虎が帰って来た時に詳しい話を聞く」という意味になります。

②(天正12年)11月17日付小野木重次書状の解釈2(64~65ページ)

①と同じ書状の内容についてです。『図説 藤堂高虎』では、この解釈は高虎の役割の重要性の根拠として書かれていますので、重要な点です。

前提として、この書状は小牧・長久手の戦いでの秀吉・家康の直接対決が一段落した直後に書かれたものです。

本書では「家康は近日中に人質を出すとのこと。そのときはそれぞれが関与(甘与)するであろう。苦労することであろう。致し方ないことだ」と訳しています。

原文を見ると「家康近日人質可被出候由候間、定而其節は各可為御甘と令察候、此中御苦労不及是非候」(読点は私が追加)です。

読み方は、「家康近日人質を出されるべく候由に候間、定めて其の節は各(おのおの)御甘(くつろぎ)たるべしと察しせしめ候、此の中御苦労是非に及ばず候」です。

問題になるのは赤いマーカーを付した部分です。本書では「甘と」を「甘与(かんよ)」と読んで、「関与」だとしています。読み方が同じで、違う漢字を書くというのは、確かに当時はしばしばあることです。しかし、本当に「甘与」は「関与」なのでしょうか?

まず、原文では「甘と」とあります。これは昔の平仮名の問題で、一つの平仮名に複数の文字があります。

例えば、現在の「あ」の元になった漢字は「安」ですが、昔は「阿」や「愛」も平仮名の「あ」として用いていました。同じように、現在の「と」は「止」ですが、「与」も「と」として用いました。

これを解読して、活字にして本として出版する時には、「与(と)」を現在使う「と」と表記することがあります。一方で「与」のまま表記する場合もあります。

なので、「甘と」は「甘与」と書かれていた可能性はあります。とはいえ、元の古文書にどのように書かれていたのか、元の古文書が存在しないので確かめようはありません。

ところで、この書状が掲載されている『宗国史』を解読して本にした人(正しくは団体)は、「甘」という字に「くつろぎ」とルビを付けています。この場合、「おくつろぎと」と読むことになります。

果たして、「御関与」なのか「おくつろぎと」なのか。

ここで、佐藤孝之・天野清文編『近世古文書用語辞典』で言葉を調べてみます。「近世」とは概ね江戸時代を指し、今回の書状が出された秀吉の時代は中世から近世への移行期にあたります。なので、この辞典は少し後の時代の古文書に見られる言葉の辞典です。

調べると、「関与」という単語はありません。一方、「甘」は「くつろぐ」とあります。

もちろん、辞典に無いから当時使われていなかったとは言い切れませんが、少なくともメジャーな言葉ではなかったはずです。そう考えると、「関与」が正しいとすれば、秀吉の時代に「関与」という言葉があり、江戸時代に一旦無くなり、現代では再び使うようになった、ということになります。ちょっと不自然ではないですか?

一方、「甘と(くつろぎと)」と読むとどうでしょうか?この場合の訳は「家康は近日中に人質を出されるだろうとのことなので、きっとその時は皆がゆっくりと落ち着けるだろうと思います。今の御苦労は致し方ないことです。」となります。こちらの方が自然ではないでしょうか?

家康が人質を出せば、秀吉との緊張状態がほぐれ、みんなが安堵する。だから、それまでは苦労するかもしれないが、やむをえない(それまでの辛抱だ)、ということです。私はこれが正しいと思います。

そうすると、本書では「関与」と読んで、高虎が家康との人質提出交渉に関与している可能性があるとし、高虎の役割を重視しています。もし上記の通り、書状の訳が違った場合は、この高虎の役割重視の根拠が崩れることになります。

みなさんはどのようにお考えでしょうか。

③材木に関する豊臣秀長判物(79ページ)

熊野本宮の造営に関して命じた秀長の判物(はんもつ)です。宛先は高虎と羽田正親です(2人とも秀長の家臣)。判物とは、古文書の内容や文言によって決められる古文書の種類の一つです。厳密には違いますが、概説書という意味では、今回の場合は書状と同様のものと考えても、解釈に誤解は生じないでしょう。

『図説 藤堂高虎』では、この判物は(年不明)3月6日付のもので「熊野本宮大社文書」の中にあるとしています。しかし、私が探した限り、この日付の判物は存在しません。

熊野本宮大社文書であること・宛先・内容からすると、恐らく2月15日付の誤りではないかと思います。

私の知る限りでは、この2月15日付判物は『藤堂高虎関係資料集 補遺』(127ページ)に掲載されているのみです。ちなみに、この資料集の126~127ページには、3月6日付の別の史料が載っています。『図説 藤堂高虎』の著者はこの史料と日付を見間違えたのかもしれません。

さて、疑問点は日付だけではありません。『図説 藤堂高虎』では「本宮造営について申しつけた。本宮に近い所の者を派遣させよ。材木も調整して必要な物を入れおけ」と訳しています。一体、何に材木を入れるのでしょうか?

赤マーカー部分の原文は「材木以下之儀も見合、可入程可申付候」です。これは「材木以下の儀も見合せ、入るべき程申し付けるべく候」と読み、「材木も調整し、いる(必要な)分だけ(材木調達を)命じよ」という意味だと思います。「必要な物を入れおけ」だと、意味が通じないと思います。

④上井秀秋書状の解釈(86~87ページ)

秀吉の九州攻めが和睦で決着した後、日向国内の島津領をめぐって島津家内部でごたごたがありました。具体的には、島津家当主義久・義弘兄弟と、その弟・家久が急逝した跡を継いだ豊久の間での問題です。

豊臣秀長は島津豊久をサポートしており、高虎もこれに関与していました。一方の義久・義弘側は石田三成を頼ります。

この頃、島津義弘の家臣・上井秀秋が、同じく島津氏家臣の伊勢雅楽入道に宛てた書状が、今回問題とする書状です。

私の知る限りでは、この書状も『藤堂高虎関係資料集 補遺』(284~285ページ)に掲載されているのみです。問題の箇所を抜粋します。

1点目は、『図説 藤堂高虎』で「又七殿(島津家久)が規定するところの県郡境について大納言(秀長)・藤堂与(高虎)から書状が出された」と書かれている箇所です。

原文は「又七殿御為可然様ニ諸県郡境之儀、大納言様藤堂与より書状差下候」です。

まず、又七は家久ではなく豊久です。また、「規定する」という意味の言葉はこの書状にはありません。恐らく「然るべき様」を誤訳したと思われます。更に「県郡」は「諸県郡」が正しいです。

豊久殿の為に然るべきように(=豊久殿にとって都合の良いように)諸県郡の境界の事について、秀長様と藤堂高虎から書状が出された」が正しい訳です。

2点目は『図説 藤堂高虎』で「貴所様からの書状に加え、大納言・秀長の書状を石田三成に見せればしかるべきように取り計らってくれるであろう」と書かれている箇所です。

原文は「従貴所之御書面ニ、大納言様御書・藤堂与之状をも石田殿へ見せ御申候へハ、御気遣入ましき由、石治少輔被仰由承候」です。

ここは少し複雑です。まず、当時の言葉で「由」は「~ということ」といった伝聞や引用を示します。上記の原文には「由」が2つあります。つまり、2つの伝聞・引用があるということです。伝聞・引用部分にカギ括弧を付けると、

従貴所之御書面ニ、①「大納言様御書・藤堂与之状をも石田殿へ見せ御申候へハ、②『御気遣入ましき』由、石治少輔被仰」由承候

となります。は「従貴所之御書面」つまり、「あなた(=伊勢雅楽入道)からの書状」に書かれていた内容です。「あなた(=伊勢雅楽入道)からの書状にと書いてあることを承りました(承知しました)」となります。

当時、返事を書く際、相手から届いた書状に書いてあることを引用して再び書くのは、珍しいことではありません。

続いて、を見ると、秀長の書状と高虎の書状を石田三成へ見せ、それに対して三成が言った言葉がです。「秀長様の御書状と藤堂高虎の書状も石田三成殿へ見せ、(三成殿へ)話されたところ、②『お気遣いは無用です』とのことを石田三成殿が仰りました」となります。

島津義久・義弘側である伊勢雅楽入道は、恐らく豊久に対して秀長・高虎から出された書状(豊久にとって都合が良い=義久・義弘にとって不都合な内容が書かれていた)を、義久・義弘の味方であった石田三成に見せ、何とかしてほしいとでも相談したのでしょう。そうしたら、三成は、「大丈夫だ、心配するな」と伊勢雅楽入道に言って安心させたのでしょう。

そのやりとりを伊勢雅楽入道は上井秀秋に報告しました。上井秀秋は伊勢雅楽入道の書状に書かれていた内容を再びこの書状に書いた(引用した)上で、「三成殿と、そういったやりとりがあった事を承知しました」という意味の返事を書いたのです。

非常にややこしいですが、おわかりいただけたでしょうか?

『図説 藤堂高虎』の著者は「御書面ニ」を「御書状に加えて」と訳したとみられますが、それは誤りで、「御書状に●●とある」が正しいです。後の方にある「由」を見落とさなければ、「とある」という訳が出てくるはずです。

石田三成の発言内容を指す「由」も見落とされています。古文書は1文字見落とすだけでも意味が大きく変わるので、注意する必要があります。

「石田三成が取り計らってくれるだろう」ではなく、石田三成は「大丈夫だ」と言って安心させたのです。正しく訳せば、石田三成が秀長の決めた方針を覆すほどの力があったことが窺える、とても重要な書状なのです。

⑤(天正20年)11月10日付秀吉朱印状の解釈(101ページ)

秀吉が朝鮮で戦っている高虎に宛てた朱印状です。

本書では、この朱印状の一部の訳が書かれています。それは「敵船が攻めてきても陸地に上がることなく、構築した城をしっかりと守るように」とあります。

この書状の引用元になっている『高山公実録』で原文を見ると、「従敵船取懸候共、陸地へ取上り、指動不可有之条、城堅固相拘可有之候」(読点は私が追加)です。読み方は「敵船より取り懸け候共、陸地へ取り上り、指したる動(はたらき)これ有るべからざるの条、城堅固に相拘えこれ有るべく候」です。

赤マーカー部分について、『図説 藤堂高虎』では「陸地に上がることなく」と書かれていますが、原文を見ると、「陸地へ上がり」と、逆の事が書かれています。「動」は「はたらき」と読み、軍事行動のことを意味します。「指したる動」で「大した軍事行動」になります。

正しい訳は、「敵船から攻撃を仕掛けてきても、陸へ上がり、大した軍事行動をするべきではないので、城を固く守るべきである」となります。少し日本語が変な気がしますが、原文どおりに訳すとこうなります。

当時の日本水軍は朝鮮水軍との戦いで必ずしも良い戦況とは言えませんでした。秀吉が海戦をせずに陸へ上がるように指示しているのも頷けます。

⑥(慶長5年)9月16日付黒田如水書状の解釈(123ページ)

黒田如水が高虎に宛てた書状です。関ヶ原の戦いの翌日付ですが、当時如水は九州にいたため、まだ関ヶ原の戦いの結果を知りません。

『図説 藤堂高虎』ではこの書状の一部の訳を「加藤清正と拙者(如水)は西軍に与した武将の所領を切り取った内府様(家康)の執り成しによって秀頼様から拝領したい」と書いています。

この訳で見ると、清正と如水は秀頼から何を拝領するのかわかりません。

この書状の引用元になっている『高山公実録』で原文を見ると、「加主計拙者事ハ今度切取候間内府様以御取成を秀頼様ゟ拝領仕候様ニ」とあります。「ゟ」は「より」と読みます。

「加主計」とは加藤主計頭で清正のことです。問題は「今度切取候」の主語は誰か?です。家康の行動である「取成」には敬語の「御」が付いています。

一方、「切取」には敬語が付いていません。この書状の他の部分では家康の行動を示す言葉に「御」が付いているので、御が付いていない「切取」の主語は家康ではありません。この時点で『図説 藤堂高虎』の訳は誤っています。

また、「切取候」の次の「」は「~ので」という意味です。つまり、「今回切り取った(奪った)ので」という訳になります。『図説 藤堂高虎』ではこの「間」の訳を抜かしています。

『図説 藤堂高虎』の通り無理矢理訳すと、「加藤清正と拙者(如水)は西軍に与した武将の所領を切り取ったので内府様(家康)の執り成しによって」となります。「切取」の主語が家康ならば、「切り取ったので家康」は日本語になっていません。

これらのことから、『図説 藤堂高虎』の訳は誤っています。

では、「切取」の主語は誰か?先ほどの「~ので」を入れた訳を見ると自然にわかります。主語は加藤清正と黒田如水です。「加藤清正と拙者(如水)は、今回(西軍に味方した武将の所領を)切り取った(奪った)ので、家康様のお執り成しによって秀頼様から(その領地を)拝領できるように」となります。

余談ですが、清正と如水は自分達が占領した西軍武将の領地を、家康ではなく秀頼から拝領したいと書いています。家康はそのための仲介者の立場なのです。

関ヶ原の戦いで家康は天下を取ったように言われますが、武将達からすると、領地を与えてくれる主君はあくまで豊臣秀頼であって、家康は(豊臣政権の重鎮であったとはいえ)豊臣家に従う一大名なのです。この書状からは当時の武将達の認識も窺えるのです。

⑦徳川秀忠の藤堂邸御成の日(138ページ)

『図説 藤堂高虎』では徳川秀忠が慶長17(1612)年3月28日に藤堂邸に御成をしたと書かれています。根拠史料は記載されていないので、何に基づいた情報かはわかりません。

細かいことですが、実は、この時の御成の日付は28日とする史料と29日とする史料があります。どちらが正しいのでしょうか?

私が見た限り、この御成が記されている史料は、『高山公実録』・『公室年譜略』・「能之留帳」・「駿府記」・「当代記」・『武徳大成記』・『徳川実紀』です。

この内、少なくとも後世に書かれた史料は『高山公実録』・『公室年譜略』・『武徳大成記』・『徳川実紀』です。逆に同時代に書かれた(可能性を含む)史料は「能之留帳」・「駿府記」・「当代記」です。

「能之留帳」は本願寺の僧侶で能役者でもあった下間仲孝(高虎とほぼ同世代の人)が記した史料で、いつどこでどんな能を演じたかが書かれています。

「駿府記」の著者は後藤庄三郎とも林羅山とも言われ、ともに高虎と同時代の人です。ただ、書かれた年は不明です。

「当代記」も書かれた年や著者は不明ですが、家康外孫の松平忠明の筆との説があるそうです。

この中で私が注目するのは、この御成に同席した下間仲孝自身が書いた「能之留帳」です。ここには御成の日は3月29日とあります。もちろん、誤記の可能性もありますが、それを言い出すとキリがないので、ここでは『図説 藤堂高虎』とは異なり、3月29日が正しいとしておきたいと思います。

なお、「能之留帳」には場所は江戸と書かれていますが、前後の時期に秀忠は駿府にいるため、駿府の誤記とみられます。このように「能之留帳」にも誤記はあるため、3月29日説は絶対ではありませんので、申し添えます。

⑧元和6年の高虎の上洛日(154ページ)

『図説 藤堂高虎』では元和6(1620)年2月21日に高虎が上洛(京都へ入ること)したと書かれています。根拠史料は記載されていないので、何に基づいた情報かはわかりません。が、恐らく『大日本史料』(第十二編之三十三)ではないかと思います。

『大日本史料』は東京大学史料編纂所で編纂・刊行が現在も続いている歴史書です。何年何月何日に何があったかを記し、その根拠となる史料を引用・列挙しています。

今回の高虎上洛について、『大日本史料』は「孝亮宿禰日次記」を根拠にしたとみられます。これは小槻(壬生)孝亮という公家が書いた日記です。つまり、一次史料(同時代史料)です。

『大日本史料』掲載の「孝亮宿禰日次記」には「二月廿一日、己巳、晴、藤堂和泉守上洛云々」とあります。これを訳すと「藤堂高虎が上洛したということである」又は「藤堂高虎が上洛するということである」のどちらかとなり、上洛したと聞いたのか、上洛予定であると聞いたのかはわかりません。

一方、同じく公家の土御門泰重の日記である『泰重卿記』には「二月廿四日、壬申、雨天、今日藤堂和泉上洛申候由承及候」とあります。訳すと、「今日高虎が上洛した、という事を聞いた」とあります。「今日」と書かれているため、高虎の上洛日は2月24日であると考えられます。

決定的な史料としては、高虎家臣の西島八兵衛が、方々へ出した書状の控えとして写しを記録した史料(「元和六年案紙」)があります。そこにある、2月24日に高虎から松井康重へ出した書状の写しに「京都へ今日罷着候」とあり、2月24日が到着日であることがわかります。

また、公家で高虎とも親密であった近衛信尋は2月24日に高虎へ書状を送っています。この書状は何年に出されたか書かれていません。何年のものであるかは、この書状を掲載している文献によって異なります。しかし、研究により元和6年が正しいと考えられています(斎藤隼人「藤堂高虎と公家・僧侶等の交流」)。

この近衛信尋書状では、信尋が高虎に対して「今夜はもはや夜も更」や「御くたひれニても候」と気遣っています。書状が出されたのは高虎の上洛日と同じ2月24日です。そうすると、高虎が何時に上洛したのかはわかりませんが、信尋が「今夜は夜もふけた」や「御くたびれ(お疲れ)でしょう」と書いているのは、上洛した高虎を気遣うものとしてぴったりの言葉です。

⑨9月22日の小堀正一・近衛信尋・高虎・三宅亡羊の茶会の開催年(156ページ)

9月22日に開催された小堀正一(遠州)・近衛信尋・高虎・三宅亡羊の茶会について、『図説 藤堂高虎』では寛永2(1625)年としています。ここでも根拠史料は記載されていないので、何に基づいた情報かはわかりません。

私が見た史料・資料の中でこの茶会が登場するのは、小堀宗慶編『小堀遠州茶会記集成』です。

同書は諸史料から集めた小堀正一の茶会が年月日順に記載されています。問題となる9月22日の茶会は寛永3年の中に掲載されています。ただ、同書の記載の仕方では、寛永3年の茶会の中に寛永2年の茶会が混じっている可能性があります。

一方、小堀正一の研究者である深谷信子氏は寛永3年としています(『小堀遠州の茶会』207・367ページ)。

どちらが正しいのか?近衛信尋や三宅亡羊がいることから、茶会の開催場所は京都の可能性が高いです。そこで高虎の居所を確認すると、寛永2年9月の居所は不明です。一方、寛永3年は6月に上洛し、11月に京都を出るまでは京都に滞在していたと考えられます(『高山公実録』・『慈性日記』・『梅津政景日記』)。このことから、茶会は寛永3年の可能性の方が高いです。寛永3年9月には小堀正一も京都にいます(藤井譲治編『近世前期政治的主要人物の居所と行動』)。

現時点では確定はできませんが、状況から考えると寛永3年の可能性が高いのであり、寛永2年とする理由は見つかりません。

⑩寛永3年の後水尾天皇行幸の行列に高虎は参加したのか?(159ページ)

寛永3(1626)年9月、後水尾天皇が二条城へ行幸します。行幸とは、天皇がお出かけになることです。先ほどのように、この年の9月に高虎や小堀正一が在京していたのは、この行幸のためです。

『図説 藤堂高虎』では、行幸の行列に高虎が参加したとしています。ここでも根拠史料は記載されていないので、何に基づいた情報かはわかりません。一方で、高虎は参列しなかったとする史料があります。

  • 『公室年譜略』では、高虎が「前駆」を務めたとします。
  • 『高山公実録』では、高虎は眼病のため行列に加わらず、代わりに子の高次が加わったとします。
  • 『東武実録』では、「辻固」(沿道の警備だと思います)を命じられたとしますが、行列の中に高虎の名前はありません。その代わりに高次・高重(高虎次男)の名前はあります。高虎ではなく高次が参加していることは『高山公実録』の記載と符合します。

上記の3つの史料はいずれも後世に作成された史料のため、どれが確実とは言えません。しかし、『公室年譜略』は根拠史料があまり記されておらず、誤りも多い史料のため、信憑性はそれほど高くありません。そのため、使うには記事ごとに信憑性の吟味が必要です(『図説 藤堂高虎』では多用されているが)。

一方、『高山公実録』の主な根拠史料は『東武実録』です。『東武実録』は松平忠冬が天和3(1683)年に幕府の命を受け、貞享元(1684)年12月に完成させた、秀忠の事蹟録です。

この『東武実録』では、行列の大名の名前に高虎が書かれておらず、高次・高重が記されています。当時、高虎は藤堂家の当主であった(=藤堂家の顔は高虎だった)のですから、「高次・高重と書くべきところ、藤堂家と言えば高虎だと思って、誤って高虎の名前を書いてしまった」というのなら、ありえる誤りです。しかし、その逆は中々あり得ないと思います。つまり、記述の信憑性は高いのではないかと思います。

『東武実録』のこのような事情と『公室年譜略』の信憑性を考えると、『公室年譜略』の記載が誤っている可能性が高いと思います。以上のことから、行幸の行列に高虎が参加したと判断することは難しいと思います。

⑪高虎の公家との交流について

これは史料の解釈ではなく、高虎の一側面を捉えるか否かの問題です。

『図説 藤堂高虎』では、関ヶ原の戦い以降の記述で家康・秀忠・家光の藤堂邸への御成等、徳川氏と高虎との交流が多く書かれています。しかし、高虎と公家との交流は殆ど書かれていません。

もちろん、紙幅の都合で「わかっていたけど書くスペースが無かった」という可能性もありますし、著者が徳川氏との交流を重視したかったのかもしれません(それは高虎の一面的な見方になりかねないが)。しかし、そうでないのなら、公家との交流を殆ど書いていないのは何故なのでしょうか。

高虎は多くの公家と多く交流しています(斎藤隼人「藤堂高虎と公家・僧侶等の交流」)。武士との交流を多く書いて、公家との交流を殆ど書かないと、公家社会とも深いつながりがある高虎の一側面を見落とすと思います。

高虎関係史料について

本書の最後、164ページでは高虎に関するいくつかの史料が挙げられています。ここで私が問題と考えるのは2点です。

①『高山公実録』の作成者と作成年代

藤堂高虎の史料として重要なものに、江戸時代に津藩藤堂家で編纂された『高山公実録』があります。「高山公」とは高虎のことです。

『図説 藤堂高虎』では、「実はこの『高山公実録』は誰が記し、いつの頃にできあがったかは不明である。強いていうならば、文政年間(一八一八~一八三一)以降に藤堂藩のしかるべき者が記したことになる」と書かれています。文政年間が1830年までであるのは前回書いたとおりです。

しかし、実はこの『高山公実録』が書かれた時期と、編纂した人(書いた人)は戦前に既に明らかにされています。明らかにしたのは津の郷土史家である梅原三千氏です。

更に、梅原氏の説が正しいことは、10年以上前の平成21年に太田光俊氏によって検証されています(「近世後期における藤堂藩の修史事業―『高山公実録』の成立時期をめぐって―」)。

太田氏の論文は『藤堂藩の研究』という本に載っています。津藩や高虎を研究するのであれば、『藤堂藩の研究』は事前に読むべき文献ですが、『図説 藤堂高虎』の著者は読まなかった(存在を知らなかった?)のでしょうか?

ちなみに、『高山公実録』が編纂されたのは嘉永年間(1848~54)で、編纂したのは藤堂家の池田定礼・大野木直好という家臣です。

②「藤堂家覚書」

『図説 藤堂高虎』では高虎を知るための代表的な史料として、『宗国史』・『公室年譜略』・『高山公実録』の3つを挙げています。

従来は確かにこの3つが代表的なものとされていました。しかし、近年、この3つよりも昔にできた史料が知られるようになりました。それは「藤堂家覚書」という史料です。

『宗国史』・『公室年譜略』は18世紀後半、『高山公実録』は前述のとおり19世紀半ばにできました。高虎が亡くなったのは寛永7(1630)年なので、高虎の没後150~220年ほど後になります。

対して、「藤堂家覚書」は寛永18(1641)年で、高虎の没後僅か11年です。しかも、高虎の事蹟を書き上げて、末尾に藤堂家の家臣が8名署名しています。全員が高虎存命中以来の家臣で、高虎の活躍を間近で見た(或いは高虎から直接聞いた可能性がある)者達です。

もちろん、家臣が主君の事蹟を述べているので、脚色や誇張がある可能性はあります。しかし、勘違い等が無ければ、書かれている内容の信憑性は『宗国史』・『公室年譜略』・『高山公実録』よりも遥かに高いでしょう。

この「藤堂家覚書」はかなり昔に『改定史籍集覧』という本に収録されていたのですが、原本が近年津市で発見(再発見?)されました。それを桐田貴史氏が『三重県史研究』に紹介しました(「石水博物館所蔵「藤堂家覚書」の紹介と分析」)。全文の解読文付きです。

『三重県史研究』も三重県に関する研究をするならば必読書ですが、これも見落とされているのか、或いは「藤堂家覚書」は「代表的なもの」と認識されなかったのか・・・。

全体を通して

最後に、全体を通してです。繰り返しになりますが、誤りが非常に多くあります。単純な誤植と思われる箇所もありますが、史料の誤訳がいくつかあるのは、歴史の書籍としては大きな痛手だと思います。

各記述についてはもちろんですが、巻末の参考文献にすら根拠史料が殆ど挙げられていません(挙げられているのはほぼ全てが研究書や論文)。これでは記述内容についての検証ができません。概説書とは言え、根拠史料が記されていないのは良くないと思います。

私の推定ですが、164ページに挙げられている『宗国史』・『公室年譜略』・『高山公実録』・『寛政重修諸家譜』の他に著者が参考にしたとみられる史料は、『大日本史料』・『駿府記』・『徳川実紀』・『東武実録』あたりだと思います。

さて、誤りや疑問点を多数挙げましたが、もちろん本書は正しい記述が多数を占めていると思います。しかし、世に出る書籍としては誤りが多過ぎると思います。ましてや一般向けの概説書である以上、なかなか古文書やこれまでの研究書(専門書)を読むことが難しい読者も多いと思います。だからこそ、記述内容をそのまま信じてもらっても大丈夫なぐらいの正確さが求められるのではないでしょうか。

高虎の概説書として「おすすめできない」と言いたいわけではありません。2026年の大河ドラマ「豊臣兄弟!」に秀長家臣として登場するであろう藤堂高虎について知りたい方は(←そうでない方も)、本書を一度読んでみてはいかがでしょうか。

なお、冒頭にも書きましたが、この記事の内容は私の個人的な見解です。もし私の見解が違うだろう、ということがありましたら、コメント等で教えてください。論争までするつもりはありませんので、そのあたりは予めご了承ください。

《参考文献》

  • 「能之留帳」(能楽研究所蔵、野上記念法政大学能楽研究所ホームページより画像閲覧)
  • 『大日本史料』第十二編之三十三
  • 『徳川実紀』第2篇(吉川弘文館、1930年)
  • 『梅津政景日記』6(岩波書店、1960年)
  • 上野市古文献刊行会編『宗国史』上巻・下巻(同朋舎出版部、1979・1981年)
  • 『内閣文庫所蔵史籍叢刊第1巻 東武実録(一)』(汲古書院、1981年)
  • 『内閣文庫所蔵史籍叢刊第92巻 武徳大成記(一)』・『内閣文庫所蔵史籍叢刊第93巻 武徳大成記(二)』(汲古書院、1989年)
  • 藤井譲治編『近世前期政治的主要人物の居所と行動』(京都大学人文科学研究所、1994年)
  • 『史籍雑纂 当代記 駿府記』(続群書類従完成会、1995年)
  • 小堀宗慶編『小堀遠州茶会記集成』(主婦の友社、1996年)
  • 上野市古文献刊行会編『高山公実録』上巻・下巻(清文堂出版、1998年)
  • 『泰重卿記』2(続群書類従完成会、平文社、1998年)
  • 『慈性日記』1(平文社、2000年)
  • 上野市古文献刊行会編『公室年譜略』(清文堂出版、2002年)
  • 朝尾直弘「「元和六年案紙」について」(『朝尾直弘著作集』4、岩波書店、2004年)
  • 太田光俊「近世後期における藤堂藩の修史事業―『高山公実録』の成立時期をめぐって―」(三重大学歴史研究会編『藤堂藩の研究』、清文堂出版、2009年)
  • 深谷信子『小堀遠州の茶会』(柏書房、2009年)
  • 『藤堂高虎関係資料集 補遺』(三重県、2011年)
  • 桐田貴史「石水博物館所蔵「藤堂家覚書」の紹介と分析」(『三重県史研究』第36号、2021年)
  • 佐藤孝之・天野清文編『近世古文書用語辞典』(吉川弘文館、2024年)
  • 斎藤隼人「藤堂高虎と公家・僧侶等の交流」(『ふびと』75号、2025年)

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