以前に豊臣秀長の概説書として『図説 豊臣秀長』を紹介しました。
同じ図説シリーズで、秀長の家臣であり、後に大名になった藤堂高虎の本『図説 藤堂高虎』が令和7年11月に出版されました。
今回の『図説 藤堂高虎』はどんな本なのでしょうか?その中身を見ていきたいと思います。結論から言うと、高虎の概要を知るには良い本である一方、残念ながら誤りも多く見られます。
今回は、まず本書の概要と単純な誤りについて見ていきます。
何という本?
今回紹介する本は、諏訪勝則『図説 藤堂高虎』(戎光祥出版、2025年)です。
著者の諏訪氏は、本書記載の情報によると、國學院大学大学院の博士前期課程修了とあるので、恐らく修士であると思います。職歴や現職は書かれておらず、「戦国史研究家」とあるので、研究職ではないのかもしれません。著書・論文には織田・豊臣時代のものが見られます。
はじめに、本書の章構成を示しておきます(本書では「章」という名称ではありませんが、便宜上第●章と表記します)。
第Ⅰ章 高虎の生誕と若き日の活動
第Ⅱ章 信長のもとで武将として活動する
第Ⅲ章 秀吉・秀長兄弟の腹心の武将として
第Ⅳ章 家康・秀忠父子の参謀としての活動
本の内容を全て書くわけにはいきませんが、以下、概要を紹介します。
第Ⅰ章
第Ⅰ章は、高虎が生まれた弘治2(1566)年から、最初の主君浅井長政のもとを飛び出す元亀3(1572)年までです。
高虎が近江国の出身であることは知られています。今の滋賀県甲良町在士という場所です。
本書では最初に高虎以前の藤堂氏について書いています。特に室町時代の15世紀の公家に仕える藤堂氏一族についてです。参考文献は榎原雅治氏の「藤堂家始祖三河守の素顔」です。
高虎以前の藤堂氏については、この榎原氏の研究が唯一とも言えます。榎原氏の論文は図書館等で見るのが難しいので、本書で概要を見ることができるのは良いと思います。
続いて、高虎の幼少期から浅井家を飛び出すまでが書かれています。本書の「序にかえて」でも書かれているように、高虎が羽柴秀長に仕える頃までは、確実な史料が残っていません。頼るべきは江戸時代に高虎を初代とする津藩藤堂家で編纂された『高山公実録』・『宗国史』・『公室年譜略』等の史料です。
高虎が生きた当時の史料(例えば書状=手紙や日記。一次史料という。)と、後世に書かれた史料(例えば高虎の伝記。二次史料という。)とは信憑性に決定的な差があります。
一次史料は、書き手の誤認や書き間違いもありえますが、出来事が起きた時に書かれているので、基本的に内容は信頼できます。一方で二次史料は後から書かれているので、話が何年も伝わる中で誤りが生じたり、想像が含まれたりする可能性があります。つまり、単純に信頼してはいけないということです。
特に、津藩藤堂家が初代高虎のことを本にするとなれば、なかなか高虎の悪い事は書けません。逆に良い事は脚色して書いているかもしれません。そのような事を踏まえて、書かれた内容を吟味して、真実は何なのかを見極める必要があるのです。
本書では「序にかえて」で、高虎の若い頃の事は後世の史料しかないと述べています。つまり、二次史料に基づく以上、全てが真実とは限らないと述べているのです。このことは、読者に誤解を与えないように注意を促しており、大切な姿勢だと思います。
話が固くなってすみません。話を元に戻します。
高虎は兄・高則の戦死によって藤堂家の後継者の立場になります。
初陣は元亀元(1570)年に織田・徳川連合軍と浅井・朝倉連合軍が戦った、近江国の姉川の戦いです。高虎は浅井長政軍に属して戦いました。時に数え15歳、今の14歳(中学2年生)です。
その後、浅井氏に属していた高虎ですが、元亀3(1572)年に同僚をケンカの末に殺害し、浅井家を飛び出し(逃げ出し)ます。
高虎は次に近隣の阿閉貞征に仕えます。ここまでが第Ⅰ章です。
第Ⅱ章
第Ⅱ章は、高虎が阿閉氏に仕えていたとされる元亀4(1573)年から、天正10(1582)年の本能寺の変までです。
高虎は阿閉氏のもとで阿閉氏家臣の誅伐を行いますが、またしても同僚を殺害して阿閉家を出ます。
続いて仕えたのは元浅井家家臣で、当時は織田信長に従っていた磯野員昌です。
なお、天正元(1573)年に浅井氏は信長によって滅亡しています。
高虎は磯野員昌に仕えていましたが、続いて員昌の養子で後継ぎである津田信澄(信長の弟・信行の子)に仕えます。
磯野氏・津田氏のもとで高虎は80石を領し、戦いにも従軍します。本書では磯野氏・津田氏のもとでの高虎の動きを追っています。同時に、信長や羽柴秀吉等の高虎を取り巻く情勢についても述べ、通史の中での高虎の位置がわかるようになっています。
最終的に、高虎は津田信澄のもとを去ります。信澄の高虎に対する処遇に納得できなかったためとされています。
次に仕えるのが羽柴秀吉の弟・秀長です。もし秀長の家が断絶しなければ、高虎は生涯秀長とその子孫に仕えていたかもしれません。
本書では、高虎の主人であった浅井・阿閉・磯野・津田氏は不遇の最期であったが、高虎は「主人が埋没する前にそのもとを去って」おり、「高虎の主人選びは(中略)武将としての嗅覚に基づくものであろうか」と書いています。多分、高虎は主君が不遇の最期を遂げる前に次々に見限ったと言いたいのだと思います。
しかし、高虎が主家を去った理由は、浅井・阿閉氏は同僚を殺害して逃げ出し、磯野氏は津田氏(養子)への代替わりでした。高虎が見限ったのは津田氏が初めてです。
高虎は主君をどんどん見限ったように昔から言われますが、実はそれは少ないのです(詳細は以前に書いた記事をご覧ください)。本書では昔から言われていたことが正しいかのような誤解を与えてしまうので、少し残念な記述です。
秀長に仕えて300石を与えられた高虎は、織田信長のもとでの秀吉・秀長の中国地方攻略戦を中心に活躍します。まだ一次史料は無い時期ですが、本書では二次史料を基に高虎の行動を可能な限り明らかにしようとしています。
高虎は主に但馬国(現在の兵庫県北部)攻略で活躍したとされ、ここで1人目の妻となる久芳院と結婚します。なお、最近は久芳院の名前を「お久」と呼んでいるのを巷で見かけますが、久芳院の実名は不明です。
院号や戒名にはあまり詳しくありませんが、果たして実名を院号に用いるのでしょうか?「●●院▲▲▲▲大姉」という戒名で実名を入れるのであれば、「▲▲▲▲」の部分に入れると思います。
同じく、後に側室となる松寿院も巷では「お松」と呼ばれますが、史料では確認できません。なお、津藩で編纂された『宗国史』には初名は「熊」とあります。「くま」と読むのか、そんな名前を女子につけるのか、わかりませんが・・・。しかも初名なので、後に改名したことになります(なぜ初名が伝わって、後の名が伝わっていないのだろう?普通は逆のような?)。
因幡鳥取城攻め(秀吉軍VS毛利軍)では、当時毛利軍として従軍した武士が江戸時代に書いた史料に高虎が登場することが紹介されています。私も以前に「まさか高虎は登場しないだろう」と思って、この史料を見ていたら登場したので驚いた記憶があります。本書でもきちんとこの史料を把握した上で書かれています。
これは後世に書かれた史料ですが、当時現地にいた人が書いているので、ある程度の信憑性はあると思います。
こうして徐々に進んでいた中国地方攻略ですが、そのさなかに本能寺の変が起こります。高虎の人生もこれで大きく変わっていったと言えるでしょう。
第Ⅲ章
第Ⅲ章は、天正10(1582)年の本能寺の変後に、秀吉が明智光秀を破った山崎の戦いから、関ヶ原の戦いがあった慶長5(1600)年までです。
本書では、信長亡き後に秀吉が勢力を拡大していく中で、高虎が山崎の戦い、賤ケ岳の戦い、小牧・長久手の戦い、紀州攻め、四国攻めといった主要な戦いに関わっていく様子を描きます。
天正13(1585)年の紀州攻めの後あたりから、しばしば高虎が一次史料に登場するようになります。特に同年の四国攻めでは、高虎の活躍が確実な史料で見られます(と言っても、書状の原本ではなく、写しですが)。実際の戦いでの様子は江戸時代の編纂史料(二次史料)によるものですが、長宗我部元親降伏後に秀吉方と長宗我部氏との間に、秀長家臣としての高虎が位置していることがわかります。
翌天正14年、徳川家康が上洛して秀吉に臣従します。この年に家康から高虎に送られた書状が、現在わかっている家康からの初めての書状になります。なお、私はこの書状が天正14年のものか疑問を持っていますが、検証するに至っていないので、ここでは詳細は述べません。
この頃、高虎は秀吉の命により材木調達の命を受けます。高虎は秀長の家臣ですが、本書で述べられているように、秀吉から直接指示を受けています。
続いて九州攻めでも高虎は活躍します。高虎は戦いでも活躍しますが、一次史料で見られるのは戦後処理の過程です。本書では書状等から高虎がどのように関わっていたのかを明らかにしています。
九州攻めの翌天正16(1588)年、毛利輝元が上洛してきます。高虎は秀長の重臣としてこの上洛に関わります。この上洛については、毛利家の家臣が記した日記が残されており、そこには高虎が何度か登場します。本書ではその詳細が紹介されています。
天正18(1590)年、秀吉は小田原北条氏を攻撃します。高虎も参戦しますが、それはこれまでのような秀長の指揮下ではありませんでした。秀長はこの前年頃から病気になり、小田原攻めには参戦できませんでした。高虎は秀長に変わって軍を率いて参戦したとされています。秀長が亡くなったのは翌年1月でした。
ところで、この頃には高虎の文化的な活動も見ることができます。詳細は本書をご覧いただくとして、その主要なものは茶の湯や能です。茶の湯や能との関りは、江戸時代に入っても、高虎晩年まで続きます。
秀長亡き後は、養子の秀保が跡を継ぎます。高虎は秀保を支え、特に朝鮮出兵(文禄の役)で水軍として活躍します(秀保は九州に留まり、高虎は朝鮮へ渡った)。苦戦もしますが、朝鮮出兵では、多くの一次史料で高虎が登場します。本書ではそれらの史料を挙げ、高虎の行動を追っています。
朝鮮からの帰国後、秀吉の甥で関白の秀次が大和郡山を訪れます。秀長の後継者で高虎の主君でもある秀保は、実は秀次の弟(実弟ではないという説が有力)なので、その関係かもしれません。
この時、高虎は秀次とも交流を持ちます(実際にはこれ以前にも交流は見られる)。本書では具体的な内容に触れており、今まであまり注目されていなかった点であると思います。
しかし、高虎が朝鮮から帰国して約1年半後、文禄4(1595)年4月に主君秀保が若くして病死します。秀保には後継者がおらず、高虎の主家は断絶します。
これにより高虎は高野山に一時隠棲したとも言われますが、間も無く秀吉の直臣となり、伊予国(現在の愛媛県)の大名に取り立てられます。
続いて高虎は再び朝鮮出兵(慶長の役)に参戦します。文禄の役と同様に、本書では慶長の役についても一次史料から高虎の行動を明らかにしていきます。
慶長の役は慶長3(1598)年の秀吉の死去によって終戦に向かいます。逆に国内では秀吉亡き後の権力争いから徳川家康と石田三成等の対立が深まっていきます。
高虎は家康に接近し、やがて関ヶ原の戦いで東軍に味方します。戦後、恩賞として伊予国で20万石を与えられます。
以上が高虎の人生が大きく動いた第Ⅲ章の概要です。
第Ⅳ章
第Ⅳ章は、関ヶ原の戦いの翌年、慶長6(1601)年から高虎が亡くなる寛永7(1630)年までです。
まず本書で述べられるのは、関ヶ原の戦い後に拡大した領国(伊予国の一部)を、高虎がどのように統治したか、です。そこでは犬猿の仲であり、領国が接していた加藤嘉明とのトラブルも書かれています。
慶長13(1608)年、高虎は伊予国から伊賀・伊勢国(現在の三重県)に転封となります。本書では引き続き新領国での統治の様子に言及します。
同時に、本書ではこの頃から家康・秀忠(後に家光も)と高虎の交流についての言及が始まります。その多くは御成(将軍が家臣の屋敷等を訪れること)と、逆に高虎が家康等に招かれることです。ただ、この交流に関する記述が淡々と続く感も否めません・・・。根拠史料はあまり提示されていませんが、一次史料では御成等はあまり確認できないため、二次史料が多いものと思います。
高虎は伊賀・伊勢国に転封となった後、家康・秀忠・家光のもとで活躍することが増えます。本書で言及されている各地の城普請、加藤清正亡き後の熊本藩の後見、富田信高改易等です。
慶長19(1614)年、家康と豊臣秀頼の戦いである大坂冬の陣が起こります。一旦和睦した後、翌年には最後の戦いである大坂夏の陣が起き、豊臣氏は滅亡します。
高虎はこの2つの戦いで活躍し、特に夏の陣では一族・重臣が戦死する等、大きな損害を被ります。一方で戦いだけではなく、家康や秀忠のもとで軍議にも参加します。本書では高虎の行動を細かくかつコンパクトにまとめています。
家康はその翌年、元和2(1616)年に亡くなります。跡を継いだ2代将軍秀忠のもとでも高虎の活躍は続きます。その中で特に大きかったのは、秀忠の娘・和姫(和子)の後水尾天皇への入内(じゅだい=輿入れ)でしょう。紆余曲折を経た入内交渉でしたが、最後に決着をつけたのは高虎です。本書ではその過程を追っています。
高虎の活躍は晩年まで続き、亡くなる前年にも紫衣(しえ)事件の審理に加わっています。紫衣事件とは、天皇が僧侶に着用を許可した「紫衣」について、幕府が天皇の許可を無効とし、それに抗議した僧侶が処罰された事件です。
以上のように最後まで活躍した高虎が亡くなったのは寛永7(1630)年10月5日のことでした。江戸時代になってからの事はあまり本記事では書きませんでしたが、本書でわかりやすくまとめられているので、詳細は本書をお読みいただくのが良いでしょう。
本書の記述は何によっているのか?
次に、本書の単純な誤りについて見ていく前に・・・まず、本書の記述はどの史料・資料に基づいて書かれているのか?です。所々に根拠となった史料は挙げられていますが、全ての事項に挙げられているわけではありません。全て書くと量も膨大になるので、概説書としてはやむを得ないことでしょう。
ちなみに、概ね、「史料」は古文書等(解読され、書籍として刊行されているものも含む)を指し、「資料」は現代の研究書や論文等を指します。
しかし、参考にしたと思われる史料は巻末の【主要参考文献】には殆ど挙げられていません。そこに挙げられているのは殆どが研究書や論文です(研究書や論文も大事な参考文献なので、掲載は必要です)。
史料は、もちろん古文書そのものを見る場合もありますが、多くは解読されたり、古文書の写真が掲載されたりしている、現代において刊行された書籍を見ることが多いです。
難しいのは、例えば江戸時代に藤堂家で編纂された『高山公実録』(高虎の伝記)が根拠史料に挙げられていても、どの『高山公実録』を見たのか?がわからないことです。
『高山公実録』と言っても、古文書の段階のものなのか、古文書段階でも複数の写本がある場合はどの(どこに所蔵されている)写本なのか、解読されて刊行された書籍(刊本)なのかがわかりません。更に、刊本が複数ある(刊行年や出版社が違う)場合もあります。
『図説 藤堂高虎』では、単に『高山公実録』としか書かれていないので、どの古文書・刊本かがわからないのです。参考文献に挙げられていれば、どれを指すのかがわかるのですが・・・。
これでは、検証しようと思った時に、どれを見ればよいのかがわかりません。なお、この記事で私が参考にした史料・資料は末尾に挙げておきますが、『図説 藤堂高虎』の著者が同じ名前の違う史料・資料を見ていた場合は、以下の私の話が変わってくるかもしれません。そのあたりは予めご了承ください。
本書の単純な誤り
まずは単純な誤記や史料の引用ミスとみられるものを挙げていきます。第Ⅰ~Ⅳ章の概要紹介のところで書いた事は、重複になるので省きます。
①『公室年譜略』の引用(8ページ)
『公室年譜略』は18世紀後半に藤堂家の家臣が書いた高虎・高次の時代を中心とした歴史書です。
『図説 藤堂高虎』では高虎の誕生に関する部分を引用して、「弘治二年丙辰年正月六日誕生干江州犬上郡藤堂村近江藤堂国」と記しています。「藤堂国」とは?と思ったのがこの記載に疑問を持ったきっかけです。
実際に『公室年譜略』(24ページ)を見ると、「弘治二丙辰年正月六日誕生于江州犬上郡藤堂村」とあります。赤いマーカー部分が『図説 藤堂高虎』とは異なります。「近江藤堂国」という記述は無い他、よく似た字ですが「干」ではなく「于」です。「于」は「~に」という意味で、「江州犬上郡藤堂村に誕生」(江州は近江国のこと)となります。
②小谷城のある方角(9ページ)
小谷城は彦根の「西北方面」と書かれていますが、実際は北か北北東です。多分単純な間違いだと思いますので、深くは追及しません。
③高虎の母の父(10ページ)
高虎の母の父(母方の祖父)を「多賀良氏」と書いた上で、「多賀良」に「たから」とルビが付いています。これでは「多賀良」という名字の一族のように見えますが、正しくは多賀が名字で良氏が名です。『宗国史』上巻(307ページ)に、高虎の母は「多賀新助良氏女」(「女」は「娘」の意味)と書かれています。多賀が名字、新助が通称、良氏が名であることは明らかです。
④高虎の母の戒名(法名)(13ページ)
高虎の母の戒名(院号)を「妙清院」と書いています。しかし、「妙清」とは聞いたことがあっても、「妙清院」は聞いたことがありません。なぜ「妙清」が院号ということになったのでしょうか?
なお、「●●院▲▲■■大禅定尼」の場合、●●は院号、▲▲は道号、■■は法号、大禅定尼は位号と言います。
『宗国史』上巻(307ページ)には「法号 院 妙清大禅定尼」とあります。東京上野の寒松院(藤堂家菩提寺)の供養塔には、字は違うものの「妙盛大禅定尼」とあります。このことからも、「妙清」は院号ではなく道号か法号でしょう。
⑤小堀正次室・同正一室と高虎養女(13ページ・25ページ)
小堀正次は秀長家臣時代の高虎の同僚です。その子・正一は茶人として有名な小堀遠州のことです。なお、正次・正一は政次・政一とも書きます。
13ページの系図で、小堀正一室の高虎養女を「磯野員昌女」と書いています。しかし、正一室は高虎の従兄弟である藤堂玄蕃良政の娘(高虎の養女になっている)です(『宗国史』上巻312ページ・下巻453ページ)。
また、25ページでは、小堀正次室は高虎養女で「磯野員昌の娘」であり、正一の母と書いています。
本書13ページと25ページの記述を合わせると、小堀正一の母と妻がともに磯野員昌の娘(高虎の養女)ということになります。磯野員昌の娘が高虎の養女となって、高虎の同僚の小堀正次に嫁ぐ → 正次と高虎養女(磯野員昌娘)の子である正一に、磯野員昌の別の娘がこれまた高虎の養女となって嫁ぐ、ということです。ありえないと断言はできません(たしか藤原道長は娘の子に別の娘を嫁がせていたはず)が、前述のように、正一室は藤堂玄蕃良政の娘(高虎の養女)なので、誤りの可能性が高いです。
一方、正一の母(正次室)は磯野員昌の娘(高虎の養女ではない)です(『寛政重修諸家譜』)。
これらを合わせると、恐らく『図説 藤堂高虎』では正次室と正一室の情報を混同して書いたのではないかと思います。
正しくは、小堀正次と磯野員昌の娘との間に正一が生まれ、正一は藤堂玄蕃良政の娘(高虎の養女)と結婚した、ということになります。
⑥伊勢国の戦国大名北畠氏の居城の名称(14ページ)
戦国時代に伊勢国の大名であった北畠氏の居城を霧山城とし、別名を「多気城」と書いて「多気」に「たけ」とルビが付いています。しかし、これは誤りで、「たげ」が正しい読みです。近隣に「三多気」と書いて「みたけ」と読む地名があるので、それとの混同でしょうか?
⑦赤井直正と黒井城落城(42ページ)
天正7(1579)年8月9日に「赤井直正の守る丹波国黒井城(兵庫県丹波市)が、明智光秀軍の攻撃により落城した」とあります。しかし、直正は前年に死去しています(『戦国人名事典コンパクト版』)。ですので、落城時点で「赤井直正の守る」という表現は誤っています。
⑧藤堂高吉の幼名(86ページ)
丹羽長秀の子で、最初に豊臣秀長の養子となり、後に高虎の養子となった高吉の幼名を「仙松丸」と書いていますが、正しくは「仙丸」です。本書では『公室年譜略』を根拠としていますが、私が見た『公室年譜略』(107ページ)では「仙丸」と書かれています。
⑨梶田久左衛門の禄高(132ページ)
高虎家臣の梶田久左衛門が慶長14(1609)年に与えられた禄高を「百石」と書いています。しかし、慶長14年9月13日付の梶田久左衛門宛藤堂高虎知行宛行状(久保文武『藤堂高虎文書の研究』44号文書)では「三百石」とあります。単純に「三」を見落としたか書き忘れたのでしょう。
⑩伊賀国「阿保」の読み方(132ページ)
「阿保」に「あぼ」とルビが付いています。しかし、これは「あお」の誤りです。『角川日本地名大辞典24三重県』でも「あお」とあり、慶長13(1608)年11月5日付の伊賀国上野町中宛藤堂高虎判物(久保文武『藤堂高虎文書の研究』12号文書)でもひらがなで「あを」とあります。
⑪年号と西暦の対応(142ページ)
慶長19年の西暦を1615年と記載していますが、正しくは1614年です。まぁ、西暦を誤るのは本書に限らず、よくある誤りですが。
⑫大坂夏の陣での戦死者名(146ページ)
大坂夏の陣で「藤堂新七郎良勝と弟の義重」が戦死したと書いてありますが、私の知る限り、新七郎良勝の弟に「義重」という人物はいません。逆に本書には、新七郎良勝と同じく高虎一族で、戦死した藤堂玄蕃良重の名前は挙げられていません。
これは恐らく、藤堂玄蕃良重の誤りで、更に「良重」を「義重」と誤記したものと思います。なお、新七郎良勝と玄蕃良重は兄弟ではありません。
⑬高虎正室久芳院の死去日(148ページ)
久芳院の死去日を元和2(1616)年8月12日と書いていますが、正しくは8月20日です(『高山公実録』)。
⑭徳川秀忠娘・和子の入内延期の理由(151ページ)
秀忠の娘和姫(和子)は後水尾天皇へ入内(輿入れ)します。しかし、入内の話が出てから、実際に入内するまでには紆余曲折があり、何度か延期もされました。
『図説 藤堂高虎』では、後水尾天皇と別の女性(およつ)の間に皇子が誕生し、それを秀忠が聞いたことよって、和子入内が延期されたと書かれています。
これは本書の参考文献にも挙げられている、久保貴子『徳川和子』を参考に書かれていると思われます。
しかし、久保貴子『徳川和子』では、皇子誕生の頃に入内延期の風説(うわさ)があるものの、風説の根拠は「不明」としています。更に、これで入内が延期された形跡は無く、入内に向けた動きも続いているとされています。本書が入内延期の原因として書いている皇子誕生は、入内延期の風説との因果関係すら不明で、入内延期の事実も無いのです。
一方、久保貴子『徳川和子』では、元和5(1619)年の第2子梅宮誕生の前に、およつが梅宮を懐妊したことを秀忠が聞き、和子入内の準備が停止したとあります。
入内延期は皇子が誕生したことではなく、およつが梅宮を懐妊したことが直接の原因と考えられており、久保貴子『徳川和子』を参考に書かれたのであれば、『図説 藤堂高虎』の記述は誤っています。
⑮西島八兵衛の読み方(154ページ)
高虎家臣の西島八兵衛の名前(通称)「八兵衛」に「やへい」とルビが付いています。「やへい」と読むのは漢字としては不可ではないかもしれません(ただ、読むとしたら「やへえ」だと思います)が、西島八兵衛は一般的に「はちべえ」と言われており、「やへい」は聞いたことがありません。何か根拠があるのであればよいのですが。
⑯寛永2年の家光御成の日付(157ページ)
寛永2(1625)年6月26日に将軍家光の藤堂邸御成があったと書かれています。根拠史料が挙げられていないので、「絶対に違う」とは言い切れませんが、私が確認した限りでは6月28日です(『徳川実紀』・『東武実録』)。
⑰寛永6年の高虎祈祷命令書の日付(161ページ)
家光の疱瘡回復のため、高虎が寛永6(1629)年2月7日付で祈祷命令を出したと書かれています。しかし、この命令書は2月7日ではなく、閏2月7日付です((寛永6年)閏2月7日付藤堂高虎黒印状。但し、黒印は推定。)。
⑱文政年間の期間(164ページ)
江戸時代後半の年号である文政について、使用された期間を「一八一八~一八三一」と書いていますが、文政は1830年までです。
⑲藤堂高芬の読み方(164ページ)
『宗国史』という津藩藤堂家で書かれた高虎・高次・高久3代にわたる歴史書があります。この『宗国史』を書いたのは、高虎の弟・高清に始まる藤堂出雲家の高文という人物です。そして、高文が書いたものを校訂したのが、高文の甥・高芬です。
『図説 藤堂高虎』ではこの藤堂高芬の名前に「たかしな」とルビを付けています。私は「たかしな」という読み方は聞いたことがありません。一般的に「たかか」と読まれています。
上野市古文献刊行会編『宗国史』下巻巻末の系図では「芬」に「カ」とルビを付け、やはり「たかか」と読むことになっています。ただし、「たかか」と読む根拠が明示されているわけではありません。
江戸時代の人物の名前は読み方が難しい人が多いです。なので、もしかしたら「たかしな」と読んでいる文献があるのかもしれませんが、根拠が明示されていないので、著者が何を根拠にそう読んだのかは不明です。
以上が『図説 藤堂高虎』における単純な誤記や史料の引用ミスです。書籍としては誤りが多いのではないかと思います。本書の主旨にまで影響するものは少ないですが、読者に誤解を与えかねない点があるのは残念です。
今回の記事は以上となります。次回はより踏み込んで、史料の解釈等について、詳細に検証したいと思います。
《参考文献》
- 『徳川実紀』第二篇(吉川弘文館、1930年)
- 『寛政重修諸家譜』第16(続群書類従完成会、1965年)
- 上野市古文献刊行会編『宗国史』上巻・下巻(同朋舎出版部、1979・1981年)
- 『内閣文庫所蔵史籍叢刊第1巻 東武実録(一)』(汲古書院、1981年)
- 『角川日本地名大辞典24三重県』(角川書店、1983年)
- 上野市古文献刊行会編『高山公実録』上巻・下巻(清文堂出版、1998年)
- 阿部猛・西村圭子編『戦国人名事典コンパクト版』(新人物往来社、2001年)
- 上野市古文献刊行会編『公室年譜略』(清文堂出版、2002年)
- 久保文武『藤堂高虎文書の研究』(清文堂出版、2005年)
- 久保貴子『徳川和子』(吉川弘文館、2008年)
- 榎原雅治「藤堂家始祖三河守の素顔」(『古記録の史料学的な研究にもとづく室町文化の基層の解明』、東京大学史料編纂所研究成果報告2011-4、2012年)

