※令和7年10月5日昭28年の空中写真と旧三軒家駅の情報を追加しました。
鉄道の廃線跡は各地にありますが、今回は上空から見てもよくわかり、現地にも橋台や路盤跡が残る、三重県津市の近鉄(近畿日本鉄道)の廃線跡を紹介します。
現地を取材したのは令和7年9月上旬ですが、この9月以降に圃場整備で廃線跡の一部は消滅する予定です。
なお、9月は草が多く、写真ではわかりづらい所もあったため、令和4年1月に撮影した写真も一部含みます。
今回の廃線跡の歴史
三重県津市にある近鉄の廃線跡として有名なのは伊勢線跡です。伊勢線は昭和36年1月に廃線になった路線(廃線時点で伊勢線は江戸橋~新松阪、現在の近鉄名古屋線よりも海側を通っていた)です。津市内では江戸橋駅から雲出川に至る区間でした。現在は多くの区間が道路となっており、近鉄道路の名前で呼ばれています。
今回紹介するのは伊勢線跡とは別で、津市北部の津市一身田平野を中心とした地域です。ここは近鉄の一部区間が西から東(現在の線路)へ移動したことによって廃線となった所です。線路と共に高田本山駅も東(現在の場所)へ移動しました。
現在の高田本山駅の北方で近鉄と国道23号線が立体交差する所があります。そこから少し南西(高田本山駅方向)に進んだ所で横川という川を渡ります。その川を渡る直前で旧線が分岐します。
ここから、現在の線路よりも西を通り、江戸橋駅の北で現在の線路に合流します。
白塚駅から高田本山駅に至る途中から、江戸橋駅までの区間ということになります。
この区間が開業したのは大正時代です。当時は近鉄ではなく、伊勢鉄道という会社でした(現在の伊勢鉄道とは無関係の会社)。まずは大正4年9月に一身田町(現高田本山)駅から北、白子駅までの区間が開業しました。
続いて、一身田町駅から南、津市(後の部田)駅間が大正6年1月に開業しました。津市(後の部田)駅は現在の津駅の東隣にありました。
この時、高田本山・江戸橋駅間には三軒家駅も設置されましたが、大正10年に廃止されています。
大正7年には一身田町駅が高田本山駅に改称されました。
当初、この区間は伊勢鉄道でしたが、以降は次のように社名変更や合併が続きます。
伊勢鉄道は大正15年に伊勢電気鉄道に社名を変更します。伊勢電気鉄道は経営悪化により、昭和11年に参宮急行電鉄に合併されます。昭和16年に大阪電気軌道が参宮急行電鉄を合併し、関西急行鉄道となります。関西急行鉄道は昭和19年に南海鉄道と合併し、現在の近畿日本鉄道(近鉄)となりました。こうして今回紹介する区間も近鉄となりました。
この後で見るように、この区間は現在と比べて西に大きく迂回するルートでした。そこで、昭和30年7月にこの区間を迂回せずに直線化するために、線路と高田本山駅が東へ移され(同時に複線化)、この区間は廃線となりました。この直線化により、0.5㎞の短縮となりました。
廃線となりましたが、この区間は田畑が多く、廃線跡が多くの場所で確認できます。以下では廃線跡を見ていきましょう。
廃線跡を見る
では、ここからは北から順に廃線跡を見ていきます。初めに航空写真を挙げておきます。
1つ目は昭和28(1953)年のもので、廃線になる前のものです。
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次は現代のもので、廃線となった後です。
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現在の線路との分岐点は写真右上の端にあります。そこから南西にまっすぐ進み、写真の中央左端あたりで南東へ方向を変え、写真下端附近で現在の線路に合流します。
では、現在の線路との分岐点からスタートです。ここで現在の線路からは西へ分岐しています。現在も周囲より少し高くなった廃線跡が残っています。ここを走っていた頃は複線ではなく単線だったので、廃線跡の幅もそれほど広くはありません。

ここからは南西へまっすぐに伸びています。

南西へ進むと、間も無く横川に突き当たります。かつては橋が架かっていたはずで、川底には橋脚の跡が残っています。下の写真は南西方向(旧高田本山駅方向)を撮ったものですが、川の中にあるのが橋脚の根元部分です。橋脚の先にはまた南西へ伸びる廃線跡が見えます。


横川を渡って南西へ進むと道路の土手に突き当たります。写真の正面奥です。

この土手上の道路の向こうはグラウンド(津市北部運動広場)があり、廃線跡は一旦消滅します。
次に廃線跡が確認できるのは、グラウンドのすぐ南西を流れる志登茂川です。ここは川の中に2本のレンガ造りの橋脚が残る他、両岸にもレンガ造りの橋台が残っています。


令和7年9月から圃場整備が予定されているのは、この志登茂川から南の田畑の部分です。
川を渡ってすぐのところにも、小さい水路を渡る橋があったようで、レンガ造りの橋台が残っています。

水路の橋台の南には畑があり、そこから南西にまっすぐ細長い田圃があります。これが廃線跡になります。

ここは田圃になっているせいか、盛土は残っておらず、周囲の田圃と廃線跡の田圃の高さは同じです。
この細長い田圃は、周りの田圃と比べると方向が異なります。周りの田圃はほぼ東西の区画なのに対し、廃線跡の田圃は北東―南西方向の細長い区画になっており、廃線跡であることがはっきりわかります。
廃線跡の細長い田圃は、途中で現在の未舗装道路と交わります。ここにも小さい水路があり、レンガ造りの橋台が残っています。

下の写真にあるとおり、この橋台の所から南西へは再び細長い田圃があります。

この細長い田圃の先(南西端近く)にも水路があり、同じようにレンガの橋台があります。

この橋台の所から南西の田圃は過去に圃場整備されたのか、ここで一旦線路の痕跡は無くなります。

上の写真の中央上に車が停まっている小さい駐車場がありますが、その右にあるブロック塀の中の住宅地辺りが廃線跡とみられます。この住宅地は周りと区画の方向が異なっています。
この駐車場から北の部分が令和7年9月から圃場整備が予定されている部分になります。
この駐車場から北東方向を見ると、これまで見てきた廃線跡がまっすぐここまで続いていることがわかります。下の写真の奥に見える白い土手の所が、先ほど川の中に2本の橋脚が残っていた志登茂川です。

下の写真は駐車場の南端から南西を見たものです。わかりにくいですが、廃線跡の住宅地のブロック塀と、駐車場の南にある東西の道路とは交わり方が直角ではありません。

目の前の道路を渡った先に未舗装の道路が続いていますが、その右にある白い高い建物は企業の社員寮です。社員寮の向こうには変電設備があります。この社員寮や変電設備の所が、かつての高田本山駅(開業当初は一身田町駅)でした。ホームの痕跡のようなものは確認できません。

変電設備の先には畑(の跡?)のような区画があります。その先は田圃の形が少し変わっており、廃線跡に影響を受けているとみられます。地上の写真ではわかりにくいですが、上空からの写真を見るとよくわかります。

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この変電設備から南の地域でも、もしかすると今後圃場整備が行われ、廃線跡が消滅するかもしれません。
廃線跡はこの先で毛無川に突き当たります。ここで毛無川を渡っていたはずですが、橋台や橋脚は残っていません。
川を渡った先は田圃ですが、ここ(下の写真の手前側の田圃)でも廃線跡の痕跡はありません。その先では田圃の畔(下の写真の奥側の田圃の右側、電柱の所から先)が少しカーブしており、再び痕跡が現れます。

この付近の廃線跡を見ると、ちょうど毛無川を渡るあたりで、これまでの北東―南西方向から徐々に南北方向に変わっていきます。
先ほどの少しカーブした田圃の先は畑になっています。周辺は田圃ですが、廃線跡とみられる所だけは細長くカーブした畑になっています。


この細長い畑の途中で東西の未舗装道路と交差しますが、ここにも小さい水路があり、レンガの橋台が残っています(右上の写真の下端にも少し写っています)。


橋台のあたりでは廃線跡はほぼ南北方向です。ここから南へ廃線跡の畑は続きますが、間も無く住宅地に入ります。
その先では五差路の交差点になります。現在の道は北東・北西・西・南・南東の方向へ分かれています。廃線跡は住宅地の中を北から南へ抜けてこの交差点に至り、ここから南東へカーブしています。交差点から現在南東へ続く道が廃線跡と考えられます。
なお、交差点から北を見ても、植え込みで住宅地内は見えません。この住宅地のあたりに三軒家駅が一時期設置されていました。


この交差点から南東への道路は、現在は舗装され、多くの自動車が通る道になっています。
この道を南東へ進むと、やがて現在の近鉄江戸橋駅附近に至ります。江戸橋駅から北へ2つ目の踏切でこの道が現在の線路と交わります。この踏切の辺りから南は現在と同じ線路であったと考えられます。
下の写真の右奥の電車が停まっている所が江戸橋駅です。

さて、間も無く一部が消滅する(このブログのアップ時点では既に消滅しているかも)近鉄高田本山駅附近の廃線跡を見てきました。
上空からの写真で見た方が、明らかに廃線跡が分かりやすいのですが、ここでは地上で見ても廃線跡や橋台をはっきりと確認することができます。
一部が消滅するのは残念ですが、その前に痕跡を確認できたのは良かったと思います。
※見学時は田圃や畑等を踏み荒らさない(立ち入らない)ようにしましょう。
※記事の内容は令和7年9月上旬時点のものです。
《参考文献》
- 『近畿日本鉄道100年のあゆみ』(近畿日本鉄道株式会社、2010年)
- 時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」((C)谷謙二)の「津」1920年の地図
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