2026年の大河ドラマ「豊臣兄弟!」の主人公は豊臣秀長ですが、その活躍は、もちろん秀長一人の力によるものではありません。他の武将と同様に、秀長にも多くの家臣がいました。
今回から(連続企画ではありませんが)秀長の家臣を紹介していきたいと思います。
最初に紹介するのは藤堂高虎です。高虎については、このブログでも何度か書きましたが、主君を何度か変え、豊臣秀長・秀保に仕えた後に大名となり、戦国時代から江戸時代まで75年(数え年)の生涯を全うしました。
そんな高虎の生涯を詳しく見ていけばキリがありません。そして、高虎を研究する私も書きたいことはいっぱいあります。
今回のテーマは秀長家臣としての藤堂高虎です。長くなると、読むのも疲れますので、今回は秀長とその養子秀保の家臣としての時期を中心とし、高虎が大名として独立するまでを見ていきたいと思います。
なお、過去の記事と重複する記述もありますが、ご了承ください。
また、人物の名前については、何度も名前を変える(例えば秀長は「長秀」のち「秀長」と名乗った)ことがありますが、この記事では原則として一つの名前に統一して記述します。
使用する史料
初めに、この記事で使用する主な史料を紹介します。主に使用するのは『高山公実録』・『宗国史』・『公室年譜略』・「藤堂家覚書」です。
『高山公実録』は、嘉永期(1848~54年)に津藩藤堂家の藩校で家臣が編纂した高虎の一代記です。藩内外の史料を多く掲載し、史料と史料を比較して正しい事実は何なのかを、編纂者が考察して書かれている点が特徴です。
『宗国史』は18世紀後半に高虎の弟の家系である藤堂出雲家の高文が編纂し、高文の甥の高芬が校訂したものです。高虎・高次・高久の津藩3代にわたる事蹟が記されています。また、藩が出した法令や高虎関係の古文書が多く掲載され、領内の各村の情報(人口や寺社等)が詳細に記される等、資料集としても使えるものです。藤堂家と親戚の家々についても詳しく書かれています。
『公室年譜略』は、18世紀後半に藤堂家臣・喜田村矩常が編纂したものです。高虎・高次の時期の事蹟について書かれています。根拠史料があまり挙げられておらず、誤りもいくつか見られる等、使用するには注意も必要な史料です。一方で、どの家臣がいつ・誰の紹介で登用され、いつ亡くなって誰に相続されたのか等の家臣に関する詳細な情報が記載されている点が特徴です。
「藤堂家覚書」は、かなり昔に『改訂史籍集覧』という本に収録されていましたが、原本が近年津市で発見(再発見)されました。
「藤堂家覚書」が書かれたのは寛永18(1641)年で、高虎の没後僅か11年です。高虎の事蹟を書き上げて、末尾に藤堂家の家臣が8名署名しています。全員が高虎存命中以来の家臣で、高虎の活躍を間近で見た(或いは高虎から直接話を聞いた可能性がある)者達です。しかし、勘違い等が無ければ、書かれている内容の信憑性は『宗国史』・『公室年譜略』・『高山公実録』よりも遥かに高いでしょう。
これら4つの史料に共通する注意点は、いずれも津藩藤堂家の内部で書かれたものということです。ということは、初代高虎のことを持ち上げ(脚色や誇張)、都合の悪い事は書いていない可能性があります。用いる時はこの事に注意する必要があります。
今回はこれらの史料が中心ですが、藤堂家内部で書かれた史料以外の史料、特に一次史料も多く用いていきたいと思います。一次史料とは、高虎が生き、出来事が起きたその当時に書かれたもの(例えば日記)です。これらは書き間違いや聞き間違いが無ければ、基本的に信頼できる情報が記されていることになります。
では、具体的に高虎の前半生を見ていきましょう。
誕生から秀長家臣となるまで
高虎は弘治2(1556)年に近江国犬上郡藤堂村(現在の滋賀県甲良町)に生まれました。父は虎高、母はとら(『宗国史』)とされています。「虎」と「とら」から「虎」が生まれたことになります。
これを聞くと高虎は長男のように見えますが、実は次男で、兄は高則と言います。ただし、高則は若い頃に戦死したため、高虎が実質の長男にあたります。
虎高は高虎に期待を込めて、自分の名前を逆にして名付けたとされています。これが本当かはわかりませんが、高虎の名が「高虎」であったのはもちろん本当ですし、父の名も書状に「虎高」とある(年不明6月1日付、藤堂新七郎宛藤堂虎高書状)ので、本当でしょう。
一方で、母の名前は一次史料では確認できず、後世の史料(『宗国史』等)に書かれているのみです。
高虎は幼少の頃からよく食べ、他の子どもよりも大きかったとされています。最終的には身長約190㎝と伝えられています(『公室年譜略』)。ただし、このあたりは江戸時代に藤堂家内部で書かれた史料に書かれているので、高虎を称えるための誇張もありえます。
このように、高虎の若い頃の様子は確固たる史料(一次史料)がありません。確実な史料が出てくるのは本能寺の変後、高虎が20歳代後半になってからです。それまでは主に藤堂家内部で書かれた後世の史料でしかわかりません。よって、それが本当の事なのかどうかは判断できません。
さて、高虎の初陣は元亀元(1570)年に織田信長・徳川家康連合軍と浅井長政・朝倉義景連合軍が戦った姉川の戦いです。高虎は浅井軍に属したとされています。
高虎は浅井家に仕え、元亀2年には戦功を挙げ、浅井長政から感状(功績を称える賞状のようなもの)を与えられたとされています。これが記録に残る高虎関係の書状類で最初のものです。
しかし、『高山公実録』にこの感状が記されているものの、『高山公実録』も「藤堂家譜」という史料に感状の文面が記されているのを引用しているだけです。
「藤堂家譜」によると、この感状は高虎が若い頃に失くしてしまい、高虎が文面を記憶していたとされています。いつの時点で記憶していたのかはわかりませんが、いつまでも文面を覚えておくことは難しいでしょう。そのあたり、実際に感状が存在したのかも怪しい感じです。
元亀3年、高虎は浅井家を出ます。高虎が浅井家を見限ったように思われがちですが、そうではありません。高虎は同僚を喧嘩の末に殺害したため、浅井家から逃げ出したのです(←まだ見限る行為の方がマシな気がする…)。褒められた理由ではありませんが、見限ったのではありません。
続いて仕えたのは阿閉家です。浅井家の本拠小谷城の近隣にあった山本山城主の阿閉貞征とされています。阿閉家では貞征に従わない者を討伐しますが、最終的には浅井家と同様に同僚を殺害して退去します。
次に仕えたのは磯野員昌です。磯野氏は浅井家家臣でしたが、既に織田信長に属していました。ここで高虎は初めて禄(80石)を得たとされています。
磯野員昌は信長の甥(弟・信行の子)信澄を養子としており、やがて信澄が跡を継ぎ、高虎の主君も員昌から信澄に変わります。高虎は磯野員昌を見限って織田信澄に仕えたように(根拠無しに)言われることもありますが、「藤堂家覚書」でもこれは員昌から信澄への代替わりであることが記されています。
信澄のもとで、高虎は丹波攻め等に従軍しますが、信澄からの処遇に満足できず、信澄のもとを去ります。具体的には、信澄は高虎を母衣衆に加えたものの、高虎は80石では母衣衆を務めるのは困難だとして、加増を願い出ました。しかし、信澄は高虎の願いを却下したため、高虎は信澄のもとを去ったとされます。(「藤堂家覚書」)
その次に仕えたのが、2026年の大河ドラマの主人公・豊臣秀長です。『高山公実録』等では、高虎が秀長に仕えたのは天正4(1576)年とされています。
一方、三木城攻めが行われた頃(天正6~8年)とする後世の史料(「藤堂家覚書」・「藤家忠勤録)もあります。高虎没後間も無くの頃に江戸幕府が編纂した『寛永諸家系図伝』には天正7年に仕えたと書いてあるように見えます。
しかし、『寛永諸家系図伝』の記述を現代語訳すると「同(天正)7年、高虎は豊臣秀長に属し、秀吉に従って播磨国三木の城を攻める時・・・」とあります。この前の記事は信澄のもとでの記事で、秀長はここで初登場します。
『寛永諸家系図伝』では、天正7年に秀長に仕えたようにも読めますが、「天正7年に秀長のもとで三木城攻めに参戦した」とも読めます(ただし、三木城攻めは天正6年から)。つまり、「豊臣秀長に属し」は「秀長に仕えた」とも読める一方、「秀長軍に属して(三木城攻めに参戦した)」とも読めると思います。何とも言えない書き方です。
いずれにしても、高虎は秀長に仕え、ここから秀長が亡くなるまで(仕官した年によるので)10~15年仕え続けました。更に、秀長の跡を継いだ秀保にも、秀保が亡くなるまで仕えました。秀長に仕えたことで、主君を転々とする生活は終わったと言えるでしょう。高虎は20歳代前半でした。
ここまで、高虎は浅井長政→阿閉貞征→磯野員昌→織田信澄→豊臣秀長と主君を変えたわけですが、既に書いたように、高虎が見限った主君は織田信澄のみです。高虎が何度も主君を変えたことについて、批判的な見方もありますが、次々と見限ったという見方は少なくとも間違っています。
なお、高虎は大名となった後に織田信澄の子を保護するという情を見せています。詳細は次の記事をご覧ください。
秀長のもとで~本能寺の変まで~
高虎は秀長に仕えて、最初に300石を与えられました。磯野・織田氏の時の80石に比べれば、一気に約4倍になりました。秀長が高虎にそれだけの才能を見出したということでしょう。
秀長に仕えた時に、高虎はそれまでの与吉から与右衛門(与右衛門尉とも言われる)に改名したとされます。この後、天正15(1587)年に佐渡守となるまで、約10年間は与右衛門を名乗ります。
では、高虎は秀長のもとでどんな活躍をしたのか?これも本能寺の変までは殆ど確固たる史料はありません。
秀長は秀吉に従って中国地方の攻略を行います。天正6(1578)年からの播磨国三木城(別所長治)攻めには高虎も秀長に従って参戦し、敵を討ち取る戦功を挙げたとされています。中でも、天正8年1月には敵方の剛の者・賀古六郎右衛門を討ち取り、賀古が乗っていた馬を得て「賀古黒」と名付けたという逸話が伝えられています。三木城が落城したのは同月のことでした。
次いで、高虎は秀長のもとで但馬国(現在の兵庫県北部)の攻略に尽力したことが『高山公実録』等では多く書かれています。
ある時、高虎は敵城の偵察のために城の堀に潜んでいたところ、敵が物音に気付いたのか、槍を突き出して高虎の股付近を刺します。しかし、高虎は槍を抜いて血を拭ったため、敵は人だと思わなかったようです。その後、高虎は傷をもろともせず、城内に乗り込んで戦ったそうです。詳細は次の記事をご覧ください。
高虎は一揆勢力の大将を討つなど、但馬平定の功により、この頃(天正9年頃)に3,000石を加増された(計3,300石)ようです。300石から一気に11倍の禄になったのです。
天正9年、秀吉は因幡国鳥取城を攻撃します。ここで高虎が初めて準確実な史料(「山県長茂覚書」)に登場します。それは鳥取城攻めを行うため、7月5日に秀長が高虎等を率いて「丸山東の方、吹上浜」へ上陸したというものです。
「山県長茂覚書」は、鳥取城攻めに毛利方として参戦したという山県長茂が、寛永21(1644)年に当時の様子を書いて主家の吉川家(毛利家一族)に提出したものです。後世に書かれたものですが、当時現地にいた人が書いているので、記憶違い等が無ければ確実な史料と言えます。
また、この天正9年に高虎は久芳院と結婚したとされています。久芳院は但馬の一色氏の娘とされ、一族とされる人物には、後に徳川家康の側近となる僧侶・金地院崇伝がいます。
なお、最近は久芳院の名前を「お久」と呼んでいるのを巷で見かけますが、久芳院の実名は不明です。研究者の間では確実な戒名(院号)である「久芳院」と呼ばれます。
院号や戒名にはあまり詳しくありませんが、果たして実名を院号に用いるのでしょうか?「●●院▲▲▲▲大姉」という戒名に実名の1文字を入れるのであれば、「●●院」の部分ではなく「▲▲▲▲大姉」の部分に入れると思います。
この後に高虎は備中国冠山城攻め、同国高松城攻めに参戦したとされています。この高松城攻めの最中に起きたのが、天正10(1582)年6月2日の本能寺の変です。
山崎の戦いから九州出兵まで
本能寺の変後、秀吉が明智光秀を破った山崎の戦いにも高虎は参戦したとされます。
この後、旧織田家家臣の秀吉(と織田信雄ら)と柴田勝家(と織田信孝ら)の対立が深まり、戦いに発展します。
この天正10年の12月20日付の秀長書状に高虎の名前が見られるようです。これが一次史料で高虎が見られる最初とのことです(この書状は参考文献による情報で、私は未見です)。
翌天正11年には高虎は伊勢国峯城(柴田方)攻撃に参戦したとされています。そして、秀吉が勝家を破った賤ヶ岳の戦いにも参戦し、戦功により1300石を与えられます(計4,600石)。この内1,000石は秀吉からの加増とされています。高虎は秀長の家臣ですが、この後も秀吉から加増や命令を受けるなど、秀長を飛び越えて秀吉と直接結びつくといったことが見られます。
その後も秀吉の勢力拡大の戦いにおいて、秀長のもとで高虎は活躍します。天正12(1584)年の小牧・長久手の戦いに際しては、伊勢国松ヶ島城攻撃に参戦したとされます。小牧での戦いにも参戦したという説があります。
この年12月には、羽柴秀次(秀吉の甥、後の関白)とともに津田宗及の茶会に招かれています(「宗及茶湯日記 自会記」)。私の知る限り、高虎が茶会に出席した記録はこれが最初です。
翌13年には紀州攻めと四国攻めに従軍します。
紀州攻めでは敵対勢力や一揆の平定を行います。紀州(紀伊国)は、高虎が後に所領を得、赤木城を築く等、高虎にゆかりの深い地となります。
紀州攻めの後に秀吉は和歌山城築城を命じ、高虎はこの築城に関わったとされています(『紀伊続風土記』)。
四国攻めでは、高虎はまたしても偵察中に負傷します。が、もちろん生還します。詳細は次の記事をご覧ください。
また、高虎は戦いだけではなく、戦後の長宗我部元親と秀吉・秀長の間を繋ぐ役割(取次)を務めます。この頃には高虎はそれなりの立場になっていたということでしょう。
四国攻めの後、高虎は紀伊国の一揆平定に活躍して(四国攻めの功も合わせて)5400石を与えられ、合計1万石となりました。
高虎は粉河城を居城としたとされていますが、このあたりはイマイチはっきりしません。実際は粉河寺に近い猿岡山城であったとされています。後で述べるように、文禄の役(朝鮮出兵)の頃には父の虎高が粉河にいることが確認できるので、粉河に拠点があったのは確実です。また、高虎が具体的にどこに所領を持っていたのかは不明です(少なくとも粉河にはあったのでしょうが)。
ただ、大和豊臣家(秀長の家)が秀保の死去により断絶し、高虎が伊予国で大名となった直後の文禄4(1595)年8月3日付で秀吉が本多利朝に与えた朱印状には、「紀伊国の中で、高虎の領地であった分の5000石を与える」とあります。少なくとも大和豊臣家家臣時代の最末期には、高虎は紀伊国内で5000石の領地を持っていたのは確実です。
なお、秀長が紀伊・和泉国、次いで大和国を与えられて100万石とも言われる(実際は違う)所領を支配するようになるのも天正13年です。天正13年は秀長にとっても高虎にとっても一つの画期と言えるかもしれません。
高虎は紀伊国西部にある粉河とは反対側の東部にある赤木城を築城したとも言われています。高虎の関与は結構有名な気がしますが、『高山公実録』では多くは記されていません。
赤木城については、この地域の一揆に対抗するためとも、やがて豊臣氏に臣従する堀内氏(新宮を拠点とした)に対抗するためとも言われています。詳細は次の記事をご覧ください。
また、高虎が秀吉から材木の調達等を命じられている書状もあり、山林資源の豊かな紀伊国の支配に携わる中で、材木の管理を任されていた高虎の一面も見えます。ここでは、高虎(と他の秀長家臣)は秀長ではなく、秀吉から直接命令を受けています。
なお、『高山公実録』では秀吉からの材木関係の書状を天正14年のものとしていますが、宛先に「藤堂佐渡守」とあります。高虎が佐渡守になるのは翌15年とされているので、『高山公実録』の年代推定は誤っています。
天正14(1586)年5月、高虎は津田宗及の茶会に招かれています(「宗及茶湯日記 自会記」)。
同年10月、徳川家康が秀吉に臣従するために上洛します。秀吉は京都に家康の屋敷を作らせ、この屋敷建設を担ったのが高虎とされています。これに対し、家康は高虎に礼状を出しています((天正14年)10月8日付、高虎宛徳川家康書状)。これが、確認されている中では家康から高虎への初めての書状です。後に高虎の人生に大きく関わる家康との関係は、この頃に始まったと考えられます。
ただし、私はこの書状は翌天正15年の可能性があると考えています。詳しく検証していないので、可能性を述べるに留めます。
「藤堂家覚書」でも家康屋敷建設のことが述べられており、藤堂家にとってこの屋敷建設は家康との関係で重要な出来事と認識されていたのでしょう。
同年、秀吉の命により九州に出陣していた長宗我部軍等が島津軍と戦い、長宗我部元親の長男・信親が戦死します(戸次川の戦い)。高虎は秀吉からの弔いの使者として元親のもとへ派遣されたとされます。
翌年、秀吉は本格的に九州の島津氏を攻めます(九州攻め)。秀長は豊後・日向方面を進軍し、高虎も従軍します。ある時、秀長軍の内、宮部継潤の守る日向国根白(目白)坂砦を島津軍が急襲します。高虎はここに急ぎ救援に駆けつけ、島津軍は敗退します。
やがて島津家は秀吉に降伏します。この後、島津家の所領を巡って、島津家内部で対立が起きます。当主の義久や弟義弘は石田三成を頼り、相手方の豊久(義久・義弘の弟・家久の遺児)には秀長が味方します。この中で高虎は秀長のもとで書状を出す等しています((天正16年)6月20日付、伊勢雅楽入道宛上井秀秋書状)。
この年には高虎にとって大きな出来事が2つありました。
1つ目は九州攻め終了後に佐渡守に任じられたことです。何月何日なのかははっきりしませんが、天正15年のことと考えられています。それまでは与右衛門と名乗っていましたが、佐渡守になったことで、朝廷の官職を与えられる立場になったのです。
2つ目は、仙丸(後の高吉)を養子としたことです。高吉は丹羽長秀の3男で、秀長の養子となっていました。しかし、天正16年1月に新たに秀保(秀吉・秀長の甥)が秀長の養子となることに伴い、前年に高虎の養子となりました。
高吉は高虎のもとで朝鮮出兵に従軍するなど武功を挙げ、高虎が伊予国から伊勢・伊賀国へ転封した後は、伊予国に残った藤堂領2万石の統治を任される等しました。しかし、それ以前の慶長6(1601)年に高虎の実子・高次が誕生し、高虎没後に高吉は藤堂家の家臣扱いとなりました。
養子となった当初は高虎の後継者の立場であったであろうに、やがて高次の家臣にされてしまった。高吉の家(名張藤堂家)は藤堂家の津藩の中で、半ば独立藩のような立ち位置でした。
しかし、高次・高吉時代の確執はやがて享保期(1716~36)に名張藤堂家の独立運動として表面化します(享保騒動)。そして、名張藤堂家当主は強制隠居、家臣3名が切腹という悲惨な結末を迎えるのです(津藩の改易は免れた)。高虎が自分の亡き後をしっかりと方向づけていれば…と思います。私は高虎の失策の一つであると考えています。
九州出兵後から秀長の死去まで
天正16(1588)年には、中国の毛利輝元が上洛します。高虎は秀長の重臣としてこの上洛に関わります。この上洛については、毛利家の家臣が記した日記(「天正記」)が残されており、そこには高虎が何度か登場します。いくつか具体的に見てみましょう。
まず、毛利輝元は7月17日に上洛途中で兵庫に滞在中でした。高虎は秀長によって、兵庫へ迎えの使者として派遣されています。
7月22日、大坂から京都へ向かう途中の毛利輝元のもとへ、秀長によって迎えの使者として派遣されています。
翌日、京都に滞在中の輝元のもとへ秀長の使者として派遣され、金子・帷子・米を贈っています。
7月25日、輝元が秀長や秀長の家臣達に物を贈ります。この中で高虎と多賀常直は太刀・銀子10枚を贈られています。他の家臣は高虎・常直よりも銀子の枚数が少ないので、今回の贈物の対象となった家臣に限れば、高虎は秀長の家臣中で最上位にいることが窺えます。
9月になると、輝元は秀長の居城・大和郡山城を訪れます。5日には秀長や輝元らが能を鑑賞し、高虎も同席しています。翌6日には、輝元から秀長の家臣達へ贈物があり、高虎は「御腰者」を贈られています。
毛利輝元のもとへ使者として赴き、輝元からは秀長家臣団の一人として贈物を受けるというように、高虎は大大名の毛利輝元にも認知されるほどの立場にあったことがわかります。
天正17(1589)年は高虎の行動はよくわかっていません。翌18年には秀吉による小田原攻めが起こります。この頃には秀長は病気がちで、参戦できませんでした。その代わりに高虎が大和豊臣家の軍を率いて出陣します。
戦後、11月には大和郡山で、高虎が長谷川秀一・津田宗凡を招いて茶会を催します(「宗凡茶湯日記 他会記」)。この頃には、高虎は客を招いて茶会を催すほど、茶の湯の力量を備えていたことがわかります。
そして年が明けた天正19(1591)年1月22日、高虎が約15年仕えた豊臣秀長が病没します。しかし、これで高虎の主家・大和豊臣家が無くなったわけではありません。秀長の跡は若い養子・秀保が継ぎ、高虎をはじめとする家臣団は引き続き秀保に仕えます。秀保は天正7(1579)年生まれとされているので、相続時は13歳でした。家臣団の支え無しには領国統治はできなかったでしょう。
この天正19年4月には、高虎は公家の山科言経の訪問を受けています(『言経卿記』)。場所は京都と推定します。
秀保を支えて~朝鮮出兵と秀保の死~
翌天正20(文禄元、1592)年には朝鮮出兵(文禄の役)が始まります。秀保も出陣し、高虎も従軍します。秀保の出陣は3月とされている(『史料綜覧』)ので、高虎の出陣も同じ頃でしょうか。
高虎は紀伊国の船(の動員?)のことを任されています((天正20年)3月13日付、加藤嘉明・一柳可遊宛秀吉朱印状)。
秀保が朝鮮へ渡海することはありませんでしたが、高虎は4月頃に渡海したとされています(『史料綜覧』)。5月以降、高虎は朝鮮で水軍を率いて朝鮮水軍と交戦しています。
秀吉からは書状等で指示を受けています。秀吉は他の武将に対して、高虎に指示をした(他の武将は高虎を通じて秀吉の指示を聞く)ことや、高虎から軍需品を受け取ること等を伝えています((天正20年)7月15日付、岡本良勝他4名宛秀吉朱印状・(天正20年)7月16日付、九鬼嘉隆・加藤嘉明宛秀吉朱印状など)。
5月末~6月頃には、高虎が西笑承兌(当時、京都から本陣があった肥前国名護屋に来ていた高僧)へ戦況を報告しています(報告先は秀吉の可能性もある)。これは6月(日付不明)に西笑承兌が京都の等持院へ送った書状に書かれていることです。書かれ方からは、高虎が直接名護屋まで報告に来たようにも読めますが、高虎が来たのか書状を送っただけなのかは何とも言えません。
なお、この年と推定できる7月19日付横浜一庵宛高虎書状(善福寺文書、京都市歴史資料館所蔵写真帳)からは、紀伊国粉河に高虎の父・虎高がいることがわかります。横浜一庵は高虎と同じく秀保の重臣で、一庵(名護屋や朝鮮へは出陣せずに領国にいる)が虎高へ色々と気配りをしており、高虎は礼を述べています。
この後も天正20(文禄元)年の間は、高虎は朝鮮での戦いを継続しています。
年が明けて文禄2(1593)年、1月7日に高虎は家康から書状を送られています。家康は年頭祝儀として太刀等を高虎から贈られたことに対し、礼を述べています。
一方、秀吉からは相変わらず戦いに関する指示を受けています((文禄2年)1月7日付、高虎宛秀吉朱印状・(文禄2年)4月22日付、九鬼嘉隆・高虎他8名宛秀吉朱印状など)。
2月18日には高虎の父・虎高が、高虎の従兄弟で家臣の藤堂新七郎良勝に書状を送っています。これによると、高虎帰国間近の情報があったのか、虎高が下関まで迎えの船を派遣したこと(しかし帰国は延期になった)、高虎が帰国次第「国」を与えられるとの噂があること等が記されています。
(推定文禄2年)3月6日付の秀吉朱印状(九鬼嘉隆・高虎他7名宛)では、奪った敵船を九鬼嘉隆等に与えることが記され、戦いが継続していることがわかります。また、九鬼嘉隆と高虎が相談し、他の水軍武将は2人の意見に従うように指示されています(その代わり、水軍に落ち度があった場合は嘉隆・高虎の責任とされてもいる)。高虎が九鬼嘉隆と共に水軍メンバーの中心であったことがわかります。
この頃の高虎の軍勢は1,400人とあります(文禄2年3月10日付、秀吉朱印状)。ちなみに、九鬼嘉隆・脇坂安治は各1,000人、加藤嘉明は500人等で、水軍の中で藤堂軍は人数が多い方です。
文禄2年5月20日付秀吉朱印状では藤堂軍は1,473人とあります。ここでも九鬼嘉隆は834人、脇坂安治は900人等で、藤堂軍の人数が多いことが分かります。
6月1日、高虎は豊臣秀次家臣の駒井重勝に書状を送り(この書状は実質的に秀次に披露される)、秀次から帷子を贈られたことへ礼を述べると共に、朝鮮の戦況を報告しています。秀次は高虎の主君・秀保の兄(異母兄弟という説がある)です。
6月16日には家康が高虎へ書状を送り、長期間の従軍を労うとともに、帷子を贈っています。
その後高虎は朝鮮から帰国し、名護屋にいた秀保と合流して、閏9月25日には下関に到着しています(『駒井日記』)。『高山公実録』は11月に帰国としていますが、『駒井日記』は豊臣秀次家臣の駒井重勝の日記で、同時代史料なので、9月頃の帰国が正しいのでしょう。秀保は10月15日には大和郡山に帰ったとされています(『史料綜覧』)ので、高虎もこの頃に大和郡山や紀伊の領地に戻ったのでしょう(推定です)。
11月27日、高虎は桑山重晴・横浜一庵・羽田正親(いずれも秀保家臣)とともに豊臣秀次から「御用」により上洛を命じられています(『駒井日記』)。
年が明けた文禄3(1594)年の高虎の動向は『高山公実録』・『宗国史』・『公室年譜略』・「藤堂家覚書」には殆ど記されていません。しかし、『駒井日記』を中心に高虎の行動がいくつか明らかになります。
1月13日、高虎の屋敷へ秀次の御成(将軍等が家臣等の屋敷を訪れ、もてなしをうける行事)がありました(『駒井日記』)。
3月には秀次が大和郡山を訪れます。そのためか、2月に高虎は、横浜一庵・羽田正親とともに、秀次の奈良の御座所を井上源五の所(恐らく屋敷)とすることを報告しています(『駒井日記』)。
3月4日には郡山で秀次が高虎の屋敷へ御成を行っています(『駒井日記』)。
3月29日、高虎は桑山重晴等の他の秀保家臣とともに、秀次から上洛を命じられています。高虎はこの時紀伊国にいたようです。(『駒井日記』)
10月16日、高虎は秀吉から伊勢国(現在の三重県)で1000石を与えられています(同日付秀吉朱印状)。主君の秀保ではなく、秀吉から直接与えられているのは面白い点です。
そして、運命の文禄4(1595)年に入ります。
この年2月17日に公家の山科言経が秀次のもとを訪れます。そこに六角義治らと共に高虎も訪れ、雑談がありました(『言経卿記』)。
4月には秀保が大和国十津川で療養を行い、高虎は駒井重勝に対し、秀保の病状を報告しています(『駒井日記』)。しかし、4月16日に秀保は17歳で亡くなってしまいます。秀保の葬儀は4月28日に行われ、高虎は「火屋」(火葬を行う建物でしょうか?)を担当しました(『駒井日記』)。
秀保には跡継ぎがおらず、秀長の家(大和豊臣家)は断絶します。高虎は秀長・秀保の菩提を弔うために高野山へ隠棲したとされています。が、私は一次史料では確認できませんでした。果たして本当なのか、本当であれば高虎の目的は弔いだったのか、本当のところは確定できません。
ただし、高虎の没後間も無く書かれた「藤堂家覚書」でも、高虎は高野山へ入ったと書かれているので、この話の信憑性は高いのかもしれません。
高野山へ入った後、高虎は秀吉によって呼び戻されます。そして、秀保の死去から約3ヶ月が経った7月22日に伊予国(現在の愛媛県)板島で7万石を与えられ(同日付秀吉朱印状)、高虎は秀吉家臣として大名になりました。
秀吉が高虎を直接(しかも秀保の死去から間も無く)スカウトした確実な理由はわかりません。しかし、秀吉は以前から高虎に直接命令を出す等しており、高虎の能力に目を付けていたのかもしれません(そうだとすれば、さすが秀吉、抜け目無い)。
今回は秀長・秀保家臣としての高虎のお話なので、詳しくはここまでとなります。この後の高虎については簡単に説明しておきます。
秀吉家臣として、高虎は再度朝鮮出兵(慶長の役)に従軍します。慶長3(1598)年に秀吉が亡くなり、その後の国内の対立の中で、高虎は徳川家康に接近していきます。
関ヶ原の戦いでも東軍(家康)に味方し、戦後は伊予国今治20万石の大名となります。その後、高虎は大坂包囲網形成や家康の孫娘(秀忠の娘)和子の後水尾天皇への入内交渉など、江戸幕府の地盤固めに尽力します。
そんな中、慶長13(1608)年には伊予国から伊勢・伊賀国(現在の三重県)に転封となります(伊予国にも2万石残る)。
高虎は外様大名ながら、一般的な外様大名のイメージ(幕府から目を付けられ、遠ざけられていた)と異なり、家康・秀忠・家光の側近として仕えます(あくまで徳川家家臣ではありません)。
そして、寛永7(1630)年10月5日に江戸で75年の生涯を閉じました。
高虎は江戸時代になっても武家や公家、文化人など幅広い人脈を持っていました。ここまで述べて来たように、秀長・秀保家臣時代に公家や茶人と交流するなど、既に人脈を形成しています。高虎が江戸時代に活躍できた理由と考えられる人脈(あまり確固たる証拠は無く、状況証拠ですが)は、秀長・秀保家臣時代にその礎が築かれたと思います。
高虎にとって、秀長に仕えたことはこれまで認識されていた以上に、高虎の人生を大きく変え、高虎に人生の大きな財産をもたらしたと言えるのではないでしょうか。
《参考文献》
- 『言経卿記』四・六(岩波書店、1964・69年)
- 「山県長茂覚書」(『中国史料集』、人物往来社、1966年)
- 「天正記」(『毛利史料集』、人物往来社、1966年)
- 『紀伊続風土記』第一輯(巌南堂書店、1975年)
- 「宗及茶湯日記 自会記」(千宗室編『茶道古典全集』第八巻、淡交社、1977年)
- 「宗凡茶湯日記 他会記」(千宗室編『茶道古典全集』第七巻、淡交社、1977年)
- 上野市古文献刊行会編『宗国史』上巻・下巻(同朋舎出版部、1979・1981年)
- 『駒井日記』(藤田恒春編・校訂『増補 駒井日記』、文献出版、1992年)
- 上野市古文献刊行会編『高山公実録』上巻・下巻(清文堂出版、1998年)
- 上野市古文献刊行会編『公室年譜略』(清文堂出版、2002年)
- 伊藤裕偉『聖地熊野の舞台裏』(高志書院、2011年)
- 『藤堂高虎関係資料集 補遺』(三重県、2011年)
- 「『三重県史資料叢書5 藤堂高虎関係資料集 補遺』追加」(『三重県史研究』第28号、2013年)
- 藤田達生「養子の処遇―名張藤堂家の誕生」(同『藤堂高虎論』、塙書房、2018年)
- 桐田貴史「石水博物館所蔵「藤堂家覚書」の紹介と分析」(『三重県史研究』第36号、2021年)
- 柴裕之「羽柴(豊臣)秀長の研究」(同『豊臣秀長』、戎光祥出版、2024年)
- 中野等「豊臣政権と国郡制―天正の日向国知行割をめぐって」(柴裕之『豊臣秀長』、戎光祥出版、2024年)
- 斎藤隼人「藤堂高虎と公家・僧侶等の交流」(『ふびと』75号、2025年)
- 黒田基樹『羽柴秀吉とその一族』(角川選書、2025年)
- 藤田達生『藤堂高虎』(ミネルヴァ書房、2026年)
- 『史料綜覧』(東京大学史料編纂所ホームページ利用)


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