前回は藤沢の歴史と藤沢宿の東端から藤沢御殿跡までを見ました。今回はその続きで、藤沢宿の西端までを見ていきます。
前回と同様に、ふじさわ宿交流館にあったパンフレット掲載の地図を載せておきます。大きいので、3分割にした内の右から2・3枚目(西側2枚)を載せます(1枚目は前回。2枚目は前回と重複)。地図中の丸番号は記事の中でも、№●のように記載します。


藤沢宿を歩く―妙善寺~関次商店
前回最後の写真を再掲します。
-1024x768.jpg)
この写真の道、藤沢御殿跡の南辺を西(写真の奥)へ進んで行くと、左側に墓地があります。その角を左(南)へ曲がり、突き当りを右(西)へ曲がって少し行くと、右側に妙善寺(№25)の山門が見えてきます。
-1-1024x768.jpg)

妙善寺の創建は永正元(1504)年です。
右上の写真の本堂の右から、裏の墓地へ入れます。本堂の周囲を回り込むようにして墓地の中を進み、本堂裏を通り過ぎて、本堂に続く庫裏(住職の居所)のちょうど裏に当たる位置に、蒔田家墓所があります。これは前回の終わりの方で紹介した蒔田本陣を務めた家の墓所です。


蒔田家は延享2(1745)年に堀内家から本陣を譲り受け、明治3(1870)年の宿駅制度廃止まで本陣を務めました。なお、蒔田家は明治時代中頃に藤沢を離れたようです。
蒔田家墓所には、宝篋印塔・板碑型石塔・石仏・笠付石塔・角柱形石塔等があります(石塔の呼称には諸説あります)。
宝篋印塔には寛永8(1631)年の銘があり、蒔田家の墓所の中で最古だと思います。笠の上の部材の造りも見事です。

下の写真の石塔は関東で多くみられる板碑型の石塔です。江戸系板碑型石塔とも呼ばれます。頂部が尖っており、彫り込み枠の上端が半円状に飛び出ているのが特徴です。17世紀から見られ始め、清浄光寺境内墓地にも多くあります。
下の写真のものは慶安5(1652)年、貞享3(1686)年、元禄11(1698)年です。写真では見づらいですが、綺麗な彫刻もあります。


笠付石塔も、笠の装飾が立派です(下の写真は白飛びして見にくいです、すみません)。

通常の庶民の墓石はこれほど大型で立派なものはあまり見られません。墓石を見ても、本陣を務めた蒔田家の力を垣間見ることができます。
ただし、本陣は大名等しか宿泊できず、経費に見合う料金を支払われるとは限りませんでした。このため、経営が苦しい本陣も珍しくありませんでした。蒔田本陣の経営状況はわかりませんが、或いは経済的に苦しくても、家の格式を維持するために立派な墓石を(無理してでも)造立し続けた可能性もあります。
妙善寺の山門を出て、山門前の細い道を南へ向かうと国道に戻れます。
国道に出た所から、国道の反対側(南側)を少し東へ戻ったあたりが坂戸町問屋場跡(№26)です。下の写真のあたりです。説明板もあります。


-1-1024x768.jpg)
右上の写真の少し先に、左(南)へ曲がる道があります。ここを曲がってすぐ、道の右側に関次商店があります。
-1-1024x768.jpg)

関次商店は明治時代初めから米穀肥料商を営み、現在まで続いています。ここには土蔵・石蔵があります。
藤沢宿を歩く―常光寺~旧鎌田商店
関次商店の横をそのまま通り過ぎると(と言っても、既に見えているが)、常光寺(№27)の山門があります。
-1-1024x768.jpg)

常光寺は元亀3(1572)年に創建されました。境内には巨木や歴史ある石造物があります。
上の写真の本堂前の巨木も立派ですが、本堂手前から左の墓地へ入って行くと、ここにも巨大なカヤがあります。その他にも巨木が繁っています。この樹林は藤沢市指定天然記念物です。


石造物は、まず本堂手前の巨木のすぐ左に庚申塔があります。

写真右の塔は万治2(1659)年、左の塔は寛文9(1669)年に建てられました。
庚申塔というのは、60日に1回回ってくる庚申の日の行事です。庚申というのは、十干十二支の組み合わせです。十干十二支については以下の記事をご覧ください。
上の記事では日ではなく年の話をしていますが、十干十二支は日にも当てはめられました。
庚申の日には、寝ている間に体の中にいる三尸(さんし)という虫が体から出て、天帝にその人の悪事を告げると信じられていました。三尸が体から出ないように(寝ないように)、みんなで集まって徹夜で飲食や談笑するのです(「庚申待ち」という)。江戸時代には一種の娯楽的要素もありました。
庚申待ちの記念等として建てられたのが庚申塔です。青面金剛という仏教の神の像を彫るものや、単に「庚申」と文字で刻むもの等があります。また、見ざる・言わざる・聞かざるの三猿を彫るものも多くあります。
ここの庚申塔には青面金剛はありませんが、三猿は彫られています。


また、墓地内には藤沢の旧家の墓石があります。
先ほども掲載した下の写真の左下に少し写っている所です。ここは本堂前から墓地に入ってきた所です。右端に移っているのが本堂です。

ここには2家の墓石があります。下写真の右4基は脇本陣を務めた和田七郎右衛門家のもので、左4基が問屋場の役職を務めた平野松兵衛家のものです。
先ほどの妙善寺で見た、蒔田家の墓石と同様に、大きく、装飾が凝ったものもあります。

常光寺を出て国道に戻り、再び西へ進みます。間も無く、下の写真のようにポストがある交差点があります。ここを左折します。

曲がってまっすぐ進むと、右にカーブします。カーブの右側には墓地があります。カーブしたらすぐにT字路があるので、ここを左折します。



奥の階段を上って行くと、弁慶塚があります。
-1-1024x768.jpg)


左下の写真は少しボケています(すみません)が、左下の写真の祠で覆われているのが弁慶塚です。周囲の石造物は殆ど庚申塔です。

この場所には江戸時代に八王子権現社がありました。八王子権現社には弁慶を祀っていたようです。なぜここに弁慶を祀っていたのかはわかりませんが、この後行く白旗神社に源義経が祀られているので、関係があるのでしょう。
階段を下りて、先ほど曲がった、墓地の横のT字路に戻り、左折します(元来た道とは逆方向へ行く)。更に先のT字路は左折します。


南へ進んで行くと永勝寺(№29)の山門があります。山門の前は駐車場になっており、山門は奥まった所にあるので、見落とさないように注意してください。
-1-1024x768.jpg)
階段にたまたま黒猫がいました。なかなか写真にマッチしていませんか?

永勝寺は元禄4(1691)年に創建されました。山門を入ってすぐ左に広い墓地区画があります。ここは旅籠屋を営んでいた小松屋源蔵の墓所です。

やけに墓石が多いですが、一段低い所に並んでいる墓石は飯盛女(めしもりおんな)たちの墓石です。
「飯盛」と言うと、給仕をするイメージですが、それだけはありません。実は飯盛女には遊女としての一面もありました。
飯盛女がいないと宿場がさびれるため、藤沢宿では幕末の万延2(1861)年に旅籠屋1軒につき2名の飯盛女を置く許可を得ました。
遊女というと、借金の代わりに奉公させられる悲壮なイメージもあると思いますが、小松屋はそんな飯盛女たちの供養のために墓石を建てたのです。これはとても珍しいことです。とある墓石には「施主小松屋源蔵」と刻まれており、確かに小松屋源蔵が建てたことがわかります。墓石のサイズは、概ね庶民の墓石と同じだと思います。

この墓所には飯盛女の墓石が39基あり、内38基は宝暦11(1761)年から享和元(1801)年までのものです。ということは、万延2(1861)年に公認されるまでにも、非公認の飯盛女がいたことになります(遊女は置かず、表向きは遊女ではない飯盛女を置いていた、ということ)。
また、刻まれている人数は48人ですが、内5人は男性です。小松屋が供養したのは飯盛女だけではなかったのでしょう。
永勝寺を出て、道を戻ります。弁慶塚から出てきた小道には戻らずに、北へ進んで国道へ戻ります。国道へ出て右を見ると、手前に古そうな蔵と、その奥に荘厳寺の看板があります。
-1024x768.jpg)
まずは荘厳寺(№28)です。
-1024x768.jpg)
荘厳寺の創建は元暦元(1184)年とされ、藤沢宿で最も古い寺の一つです。かつては白旗神社(後述)の隣にあり、白旗神社の管理的な立場でした(明治維新以前は、寺院が神社を管理することは普通にあった)。明治時代初めの神仏分離で現在地に移転しました。
荘厳寺の入口に戻ります。入口の横にあった蔵は旧鎌田商店のものです。
-1-1024x768.jpg)
なお、鎌田商店については、歴史等はわかりませんでした。
藤沢宿を歩く―伝義経首洗井戸・白旗神社
旧鎌田商店の付近か、西へ行って信号交差点(白旗交差点)で国道を反対側(北側)へ渡ります。この信号交差点(白旗交差点)の少し東に交番があります。この交番の横(東側)の小道を北へ入ります。下の写真は東から見た所です。写真で言うと右折します。


小道の奥は公園のようになっており、敷地に入って右側に伝義経首洗井戸(№34)があります。
-1-1024x768.jpg)


ご存知のように、源義経は兄・頼朝と対立し、奥州平泉の藤原氏のもとに身を寄せます。しかし、藤原泰衡に裏切られて自害しました。
義経の首は鎌倉へ送られ、腰越で首実検(首が本人のものであることを確認する手続き)が行われた後、浜に捨てられたとされます。その後、義経の首は潮の流れに乗って川を遡り、地元の人に拾われてこの井戸で清められたと伝えられています。
井戸から国道へ戻ります。国道へ出たら西へ右折します。すぐの信号交差点(白旗交差点)も北へ右折します。そのまましばらく進んで行くと、白旗神社(№35)があります。
-1-1024x768.jpg)
白旗神社には寒川比古命の他に源義経が祀られています。義経と藤沢の関係は前述の通りです。
白旗神社の創建年代は不明です。義経の首を埋葬したところと伝えられています。
前回、藤沢宿めぐりの最初の方で見た諏訪神社は、藤沢宿東部の町々の総鎮守でした。これに対して西半分の総鎮守がこの白旗神社です。

拝殿の右手前には弁慶の力石という石があります。
-1-1024x768.jpg)

力石とは、願い事をしながら持ち上げ、重いか軽いかで願い事が叶うかどうかを占ったものです。各地にあります。
白旗神社の力石は、かつては神社の西にありましたが、現在はここに移されています。
しかし、なぜ「弁慶」なのか?現地の説明板を見ても関係は不明でした。弁慶と言えば力持ちのイメージなので、義経や弁慶の伝説がある藤沢の力石と弁慶が結びついたのでしょうか?
ちなみに、最初の鳥居を入った右側には義経と弁慶の像があります。

藤沢宿を歩く―真源寺~伊勢山公園
白旗神社から国道の信号交差点(白旗交差点)へ戻り、交差点を西へ右折します。ここから緩やかな坂を上っていき、上りきった所に伊勢山橋があります。この橋の下には小田急線が通っています。橋の北(下の写真の右)には藤沢本町駅があります。

橋を渡った信号の南に真源寺(№31)があります(階段の上)。
-1-1024x768.jpg)

真源寺は浄土宗の寺ですが、由緒等は説明板も無く、わかりませんでした。
真源寺から国道へ戻り、少し西へ行くと京見附跡(№32)があります。下の写真のあたりです。

道の反対側(北側)に説明板があります。
-1-1024x768.jpg)

前回の最初の方で見た江戸見附が藤沢宿の東の入口であったのに対し、京見附は西の入口でした。
京見附跡から伊勢山橋に戻ります。伊勢山橋は渡らずに、西詰の交差点を左折して北へ下ります。下の写真で、右奥の車の列の先頭が交差点、その先の木がある高台が真源寺、右方が京見附です。

上の写真で右奥の交差点から左の方へ坂を下りてきて、Y字になっている所から右下へ下ります。下の写真で言うと、車が並んでいる道の奥から来て、右の道へ下りていきます。

更に、下の写真で車が出てきているところを右へ曲がります、ちなみに、写真の奥の突き当りを左折して道の下をくぐると、小田急藤沢本町駅があります。

右折すると下の写真のようになっており、写真中央にある階段を上っていくと、山の上に伊勢山公園(№33)があります。

階段はかなり長いです。山登りではないですが、一応覚悟して登りましょう。頂上の公園には子どももいたので、子どもでも登れる山ではあります。
パンフレットには「市民の憩いの場となっている」と書いてありますが、憩う前に上るのに疲れる・・・。
山の頂上には石碑等があります。
-1-1024x768.jpg)
ここはかつて神明宮(伊勢神宮の分霊を祭神とする神社)があったため、伊勢山と呼ばれています。
中央には西南戦争や日露戦争の忠魂碑があります。

-1-1024x768.jpg)
忠魂碑の左には鐘楼があります。ここにはかつて時の鐘があったそうです。時の鐘がなぜ今無いのかはわかりませんが、戦時中の金属供出とかでしょうか?
-1024x768.jpg)
忠魂碑の右奥(公園の端)には庚申塔があります。

この庚申塔は承応2(1653)年に建てられたもので、藤沢市の重要文化財になっています。下部には三猿も彫られています。

頂上の南端の展望台からは藤沢の町や江の島、伊豆大島等が見えます。



この景色を見れば、ここまで上ってきた苦労が報われます(多分)。
以上が藤沢宿です。ちなみに、帰りは先ほど書いた小田急藤沢本町駅から藤沢駅へ戻れます(1駅)。電車は約10分に1本あります。
藤沢宿、どうでしたか?私は正直なところ、寺社を除いて、思っていたほど古い建物が残っていないという印象でした。恐らく東海道がそのまま国道になったため、道幅も広がり、建物も新しくなっていったのでしょう。
愛知県藤川宿は国道が東海道から離れた所を通っているため、昔ながらの道幅や古い建物が残ったのでしょう(それでも藤川宿は古い建物が少なかったが)。逆に、今の時代に(特に市街地では)古い建物を残すのは難しいのだろうと思います。
その点、奈良県の今井町では古い町並みを維持する努力がなされていますし、その近くの八木町でも古い建物がいくつか残されています。藤沢の町を見ると、古い建物を残すことがどれだけ難しいのか、わかる気がします。
藤沢宿では、古い建物は殆ど失われていますが、見附跡や本陣跡等には説明板が設置され、どこに何があったのか、主なものはわかるように配慮されています。
町並みを楽しむのは難しいですが、静かな寺社(清浄光寺も落ち着いた雰囲気)を巡って癒されるのもよいのではないでしょうか。
※特に断りの無い限り、記事の内容は令和7年11月時点のものです。
《参考文献》
- 『藤沢市史』第五巻通史編(藤沢市役所、1974年)
- 『岩波仏教辞典』第三版(岩波書店、2023年)
- ふじさわ宿交流館ホームページ(最終閲覧令和7年12月6日)
- パンフレット「歩いて 見よう 藤沢宿 東海道藤沢宿」(ふじさわ宿交流館、2019年)
-160x90.jpg)



