神奈川県の藤沢という町(市)を聞いたことがありますか?時宗の本山である清浄光寺(遊行寺)がある町です。清浄光寺は以前に紹介しましたし、こちらが有名かもしれませんが、ここは江戸時代に東海道五十三次の一つ、宿場町でもありました。
宿場町というと、古い町並みをイメージします。しかし、残念ながら藤沢にはあまり古い建物は残っていません。
今回と次回は、かつての宿場町・藤沢が今どんなところになっているのかを紹介します。
ちなみに、少し前に紹介した藤川宿は、名前は似ていますが、愛知県にある東海道五十三次の宿場町です。
藤沢宿の歴史
藤沢宿は現在の神奈川県藤沢市、藤沢駅の北方にありました。
南北朝時代に書かれた史料に「藤沢」とあるのが歴史上の初見です。この史料では、鎌倉に送られた源義経の首を藤沢に埋葬したと書かれています。
正中2(1325)年には時宗の4代目・呑海上人によって、藤沢に清浄光寺(遊行寺)が建立されました。以後、藤沢は清浄光寺の門前町として発展していきます。
一方で、鎌倉に近い場所にあったためか、鎌倉幕府滅亡の直前には、周辺の集落ともども焼き討ちにあったとされています。
戦国時代になると、永正10(1513)年に北条早雲・三浦義同の戦いで清浄光寺が焼失します。復興するのは慶長12(1607)年です。
清浄光寺の詳細は次の記事をご覧ください。
戦国時代、藤沢は小田原北条氏の支配下にありました。この頃、藤沢は既に町として発達していたと考えられ、小田原北条氏の伝馬(北条氏の公用の人・荷物を輸送する馬)を取り扱う屋敷が存在したことや、塩干魚・酒の商売が行われていたことがわかっています。
天正18(1590)年、小田原北条氏の滅亡後、徳川家康が関東に入り、藤沢も徳川氏の支配地になります。
慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いを経て、翌6年に家康は東海道に宿駅を設定しました。藤沢宿もこの時に宿駅とされました。当初、隣(江戸側)の戸塚宿はありませんでした。
最終的に東海道には53の宿場ができましたが、藤沢宿は品川宿から数えて6番目でした。
人口は、寛政10(1798)年よりも前は不明です。寛政10年には約3,400人、天保6(1835)年には約4,000人、幕末の元治元(1864)年には約4,500人となっています。
江戸時代の藤沢宿は全部で3つの町に分かれており、東から大鋸町・大久保町・坂戸町となっていました。
この内、大久保町と坂戸町から宿場の役人の長である問屋が1名ずつ選出されていました。一方、行政組織上の町は名主が管轄していました。(宿場としての藤沢と、行政上の町としての藤沢は別々に管理されていた)
大久保町の問屋は代々堀内家が務め(堀内家が名主の時や、務められない時は別の5家が交代で務める)、坂戸町の問屋は平野家(牧野屋)・平野家(平野屋)・杉山家が交代で務めました。問屋の事務所にあたる場所は問屋場と呼ばれました。問屋場があった場所は後ほど紹介します。
宿場町で問屋と共に重要であった施設に本陣・脇本陣があります(むしろこちらの方が有名?)。本陣とは、大名等の高貴な客専用の宿で、一般客は宿泊できませんでした。脇本陣は本陣が一杯になった時に使用されました。
藤沢宿では本陣が1軒、脇本陣が2軒(後に1軒)ありました。
本陣は、当初堀内家(大久保町)が務めていましたが、延享2(1745)年に蒔田家(坂戸町)が堀内家から本陣を譲り受け、明治3(1870)年の宿駅制度廃止まで務めました。
脇本陣は大久保町と坂戸町に1軒ずつありました。少なくとも文政3(1820)年までは2軒存在しましたが、天保14(1843)年の史料では1軒だけになっています。
一般人が宿泊する旅籠屋は1800年代には50軒前後で推移しています。
以上のような本陣・脇本陣・旅籠屋の軒数は、藤沢宿の前後の宿場と比較すると少ない方にあたります。
さて、江戸時代、宿場には役人が使用する馬や、荷物を運ぶ人足を備え置くことが義務付けられていました。これらの人馬を常時備えておくことは宿場にとって負担となり、中には困窮する宿場もありました。少し前にこのブログで書いた藤川宿(愛知県岡崎市)もそうでした。
一方、幕府にとっては、公用の人・荷物を運送するため、宿場の機能を維持する必要があり、たびたび救済を行っています。
藤沢宿も例に漏れず、様々な救済を受けています。土地税である地子(じし)の免除、飛脚や問屋への給付米、幕府等からの拝借金・米、貸付金制度(代官が諸方へお金を貸付け、その利息を宿場の補助に充てる)
また、藤沢には東海道から少し北に入った所に藤沢御殿がありました(場所は後述)。御殿とは、宿駅制度が整備される前段階からあった施設です。御殿は将軍用の宿泊・休憩施設です。藤沢御殿には徳川家康が宿泊したという言い伝えもあります。寛永11(1634)年には3代将軍家光が宿泊しました。
藤沢御殿は、家康が利用したという言い伝えからすれば、遅くとも慶長期(1596~1620年)には設置されていたと考えられています。寛永11(1634)年に家光が宿泊した時点では御殿があったので、御殿と藤沢宿が併存する時期があったことになります。
藤沢御殿は天和2(1682)年以前に廃止され、現在は痕跡も残っていません。
御殿の敷地は86間×39間(約155m×70m)で、高さ3間(約5.4m)の土手があり、その外に幅6間(約10.8m)の堀がありました。
以上が藤沢の歴史の概要です。
藤沢宿を歩く―藤沢駅~ふじさわ宿交流館
では、藤沢宿を歩いてみましょう。が、その前に藤沢までの行き方を書いておきます。
東海道新幹線を利用する場合は、小田原駅か新横浜駅下車になります。小田原駅はのぞみが停車しませんが、小田原駅から藤沢駅までは東海道線で一本で行けます(35分前後)。
のぞみが停車する新横浜駅からは途中乗換が必要です。新横浜駅からJR横浜線か横浜市営地下鉄で横浜駅まで行き、横浜駅からは東海道線で藤沢駅まで行けます。こちらも乗換を含めて35分前後です。
藤沢駅からバスの場合、清浄光寺のホームページ(最終閲覧:令和7年12月6日)では、藤沢駅北口4番又は5番のりばから「戸塚バスセンター行」か「大船駅西口行」に乗り、「藤沢橋」下車とあります。
徒歩の場合は藤沢駅から約15分です。駅から空中通路を北の端まで行ってから下の道に下り、更に北へ歩いて行きます。道が右へカーブした先の交差点(遊行ロータリー交差点)を左折します。2つ目の信号交差点(藤沢橋交差点)に着いたら、道を北へ渡っておきます。この交差点を右折して藤沢橋を渡ります。
しばらく歩いて坂を上っていき、道の右側(東側)に諏訪神社が見えたら、そこからまだ少し坂を上った所に一里塚の跡があります。
この一里塚跡から藤沢宿めぐりスタートです。
はじめに、後述のふじさわ宿交流館にあったパンフレット「歩いて 見よう 藤沢宿 東海道藤沢宿」掲載の地図を載せておきます。大きいので3分割になります。今回はその内の東側2枚を載せます(3枚目は次回)。地図中の丸番号は記事の中でも、№●のように記載します。


地図の右上端の方にある一里塚の跡(№1)は下の写真の辺りになります。道の左側(西側)に説明板があります。下の写真は説明板の前辺りから北を撮影したものです。
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一里塚は、街道で一里(約4㎞)ごとに設置された、距離の目印です。ここが藤沢宿の入口のように思いますが、4㎞ごとの一里塚が偶然この位置になっただけです。厳密には藤沢宿の入口はここから少し南に戻ったところです。
一里塚前から南を見たのが下の写真です。
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では、南へ進んで(坂を下りて)行きます。南を向いて左側(東側)の林が終わる所に諏訪神社(№2)の入口が見えます。
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諏訪神社は藤沢宿東部の町々の総鎮守となっています。諏訪神社の創建年代は不明です。
一説には、鎌倉時代には藤沢の地にあり、正中2(1325)年に清浄光寺が建立されて、清浄光寺と諏訪神社が密接な関係を持つようになったと考えられています。戦国時代には一度焼失し、江戸時代初めになって再建されたとされています。
江戸時代初めの再建時には、神社は北向きで、今よりも少し低い位置にありました。それを文政元(1818)年に南向きに変えて、上段(現在地)に建て直しました。


諏訪神社とは道を挟んで反対側(西側)、坂を少し下った所に江戸見附跡(№3)があります。痕跡は何も残っておらず、標柱と説明板があるのみです。
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昔の絵図には、道の両側から道へ出っ張った土居が描かれています。この見附が宿場の入口になります。つまり、江戸から来た場合は、ここからが藤沢宿になるのです。
少し前に紹介した愛知県の藤川宿では、宿場の入口のことを「棒鼻」と呼んでいましたが、見附と同じ意味です。
ここから坂を下りきったところに遊行寺交差点があります(下の写真)。ここを左(東)へ曲がる道は鎌倉道(№10)です。鎌倉の建長寺や円覚寺に通じているそうです。今回は藤沢宿めぐりなので、鎌倉へは行きません。

ここから南へ行って2つ目の交差点を右(西)へ曲がります。下の写真の赤い車が出てきている所です。

右折すると下の写真のようになっており、すぐに突き当たります。東海道はこの突き当りを左折していきます。

このように道を2回曲げているのは、宿場への外敵の侵入に備えるためです。直線だと敵は勢いよく突入してきますが、道が曲がっていると、勢いを弱めることができます。鍵の手や枡形と呼ばれる形です。少し前に紹介した愛知県の藤川宿では曲手(かねんて)と呼ばれています。
この突き当りの交差点の右手前に、ふじさわ宿交流館があります。交流館の前には高札場が再現されています(高札とは、法令等を広く人々に知らせるための、江戸時代の掲示板)。かつて高札場があったのは別の場所です(後述)。


ふじさわ宿交流館の開館時間は9~17時で、月曜・1月1日・12月27~31日が休館日です。
中には藤沢宿に関する史料やパネルが展示されている他、ふじさわ宿交流館がある場所付近の、江戸時代の町並みを復元した模型もあります。




コンパクトな展示なので、見るのにそれほど時間はかからないと思います。
藤沢宿を歩く―清浄光寺周辺~江の島道の道標
ふじさわ宿交流館を出て、前のT字路を左折すると東海道が続き、右折すると清浄光寺(№5)があります。ここは一旦東海道を離れて右折します。
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今回は清浄光寺周辺にある寺院を3ヶ所紹介します。
T字路を右折すると、下の写真のように、すぐに清浄光寺の惣門(黒門)が見えます。
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この惣門を入ると、いろは坂という参道があります。この両側に寺院が2ヶ所あります。まず右側に見えてくるのは眞徳寺(№6)です。
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眞徳寺は清浄光寺にあった4つの塔頭(たっちゅう。寺院の境内にある小寺院のような感じ。)が合併した寺院です。通称赤門と呼ばれています。
いろは坂に戻って少し上ると、左に眞浄院(№7)の入口が見えます。奥に進むと本堂があります。
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眞浄院は元々、清浄光寺の塔頭の中で筆頭寺院でした。
続いては清浄光寺になりますが、以前に紹介したので、詳しくは下の記事をご覧ください。
清浄光寺の見学が終わったら、いろは坂の下の惣門まで戻ります。総門を出た所を(西へ)右折します。少し進んで、下の写真の所を(北へ)右折します。

住宅地の中を少し進むと、道の左側、建物が3軒続いた次に地蔵院があります。
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ここには「日限地蔵」(ひぎりじぞう、№8)が安置されています。恐らく本堂の中にあるのだと思います。ただ、日限地蔵の由緒等はわかりませんでした。
境内には他にも石造物があります。観世音菩薩(観音)像とみられる石造物は、銘文から、道標の役割があるので、かつては別の場所にあったのでしょう。
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地蔵院からふじさわ宿交流館前のT字路まで戻ります。このT字路から南側(清浄光寺とは反対側)を見ると、赤い橋があります。
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この橋は大鋸橋(遊行寺橋、№19)です。藤沢駅から来た時に渡った、大きな藤沢橋(№16)は江戸時代には無く、この遊行寺橋が東海道でした。遊行寺橋の幅(3間=約5.4m)は昔のままだそうです。
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遊行寺橋を渡った南側には、かつて高札場(№20)がありました。ふじさわ宿交流館の前に再現されていた、アレです。橋を渡った南の交差点の北西角にあたりますが、現在は何も痕跡はありません。
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高札場跡から反対方向(南東方向)を見ると下の写真のような感じです。先に見える信号は藤沢橋の交差点です。この信号の少し手前に、かつては江の島の一ノ鳥居(№17)がありました。
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上の写真の左側にある建物の前に説明板がいくつかあります。その中に、歌川広重の東海道五十三次の絵があります(下の写真)。この絵には、奥に遊行寺橋、中央右に江の島一ノ鳥居が描かれています。

先ほどの江の島一ノ鳥居跡の写真で、左側の建物の奥(信号に近い方)には江の島道の道標(№18)があります。
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右上の写真の面には、「ゑのしま道」と刻まれています。「ゑ」の上の文字のようなものは梵字といって、一字で仏を表す文字です。ちなみに、この梵字は「サ」と読み、観世音菩薩を表します。
江の島道という名の通り、この道を進むと江の島に至ります。その一番目の鳥居が、ここにあった江の島一ノ鳥居です。なお、この鳥居の沓石(くついし)は清浄光寺境内の宝物館前に移されています(下の写真は令和7年1月撮影)。沓石とは、鳥居の根元にあり、鳥居の下端をはめ込む形の石です。
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藤沢宿とは逆方向になるので、今回はさすがに江の島へは向かいません。高札場があった交差点から北西へ向かいます。
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藤沢宿を歩く―江の島道の道標~藤沢御殿跡
上の写真にある大きな通り沿いに進みます。この道は国道467号線で、かつての東海道です。歩道には所々に下の写真のような、身長よりも少し低い茶色の金属製の箱があります。ここには戦前の町並みの写真が印刷?されています。


国道の北側を進むと、右側に古そうな建物が見えてきます。これは旧桔梗屋の建物です。前の木が無かったら・・・。いや、逆にこの木も含めていい感じ?
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旧桔梗屋は、藤沢宿で茶・紙問屋を営んだ旧家です。市内に現存する唯一の店蔵で、江戸時代末期の文庫蔵を含む3棟が国登録有形文化財となっています。
旧桔梗屋と国道を挟んで反対側にあたる、下の写真の辺りが、堀内本陣(№21)があったとみられる所です。特に説明板も無く、位置は冒頭掲載の地図から推定しました。
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本陣とは、大名等の高貴な客専用の宿です。一般客は宿泊できませんでした。
更に数軒進んだ、下の写真のあたりが、大久保町問屋場(№22)があったとみられる所です。これも位置は推定ですが、歩道の例の茶色の箱に「脇本陣柏屋半右衛門・問屋場の絵図」が載っています。冒頭掲載の地図によると、柏屋と問屋場は隣にあるので、このあたりで間違いなさそうです。
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脇本陣は本陣が一杯になった時に使用されました。問屋場とは、街道を進む役人が馬を乗り換えたり、荷物の運搬を中継(運ぶ人馬が交代)したりする場所です。
続いて、上の写真のお店のような建物の1軒隣(奥)にアパートがあります。ここが旧稲元屋です。アパート敷地の北西角に「稲元屋本店跡/明治天皇行在所記念碑」と刻んだ、小さな石碑があります。
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稲元屋は呉服屋を営んでいました。弘化2年(1845)にこの場所で開業し、最初は雑貨・薪炭屋でしたが、間も無く呉服屋に変わりました。
明治24年(1891)10月、関東地方陸軍大演習の時には明治天皇の行在所(あんざいしょ。一時的な滞在地。)となりました。他にも、昭和初期までに皇族等の宿泊所として10回用いられました。
上の写真の石碑は昭和15年(1940)に建てられました。かつては一番蔵から八番蔵までがありましたが、火災、老朽化等で2棟のみが現存しています。蔵はアパートの裏にあるので近付けませんが、隣の建物との隙間から少し見えます。

この先に進むと、信号交差点が2つ続きます。2つ目の信号交差点の少し先、国道の北側に、かつて蒔田(まいた)本陣(№23)がありました。下の写真のあたりです。

歩道には説明板もあります。
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蒔田本陣跡の手前の信号交差点を北へ曲がります(左下の写真の茶色い建物の右の道に入ります)。なお、蒔田本陣跡は写真の左の方になります。
この先には藤沢御殿(№24)がありました。


右上の写真の道をまっすぐ進むと、T字路に着きます。このT字路付近が、かつての藤沢御殿の南東の角辺りになります。下の写真は西向きで、道の右側がかつての藤沢御殿です。現在は住宅地になっています。
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御殿とは、江戸時代初期に設置された将軍用の宿泊施設です。藤沢御殿は3代将軍家光の時まで使用されていたようです。ただ、現在は痕跡は残っていません。
藤沢宿はまだまだ続きます。長くなるので、今回はここまでです。次回は藤沢宿の人々が眠る立派な墓地や源義経の伝説にちなんだ場所を紹介します。
※※特に断りの無い限り、記事の内容は令和7年11月時点のものです。
《参考文献》
- 『藤沢市史』第五巻通史編(藤沢市役所、1974年)
- 『角川日本地名大辞典』14神奈川県(角川書店、1984年)「藤沢」の項
- 『国史大辞典』(吉川弘文館、1991年)「藤沢」の項
- 『国宝一遍聖絵と時宗の名宝』(京都国立博物館特別展図録、2019年)
- ふじさわ宿交流館ホームページ(最終閲覧令和7年12月6日)
- パンフレット「歩いて 見よう 藤沢宿 東海道藤沢宿」(ふじさわ宿交流館、2019年)

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