東海道といえば江戸時代の街道で、現在も東海道新幹線等にその名を残しています。東海道五十三次が有名で、53の宿場町がありました。
今回はその内の一つ、愛知県岡崎市にある藤川宿を紹介します。
なぜ藤川宿にしたのか?それは単に私も知らなかったので、行ってみたいと思ったからです。以前に別件で名鉄藤川駅で下車した際、ここに宿場町があったことを知りました。駅から徒歩で行ける範囲なので、それほど広くなく、散策にはおすすめです。
藤川宿の歴史
初めに藤川宿の歴史を見ていきます。
藤川宿は現在の愛知県岡崎市にあります。江戸時代は三河国でした。
慶長6(1601)年1月、徳川家康は東海道に宿駅を設定しました。最終的に東海道には53の宿場ができましたが、藤川宿は品川宿から数えて37番目でした。藤川宿だけでは規模が小さく、宿場の維持が難しいため、隣の市場村が加宿となりました(加宿については後述)。
家数や人口等については次のとおりです。
- 万治3(1660)年、家数190軒余。
- 天明5(1785)年、藤川宿・市場村合計で家数212軒。但し、この内41軒は空家。
- 寛政2(1790)年、藤川宿のみで家数119軒、人口441人。
- 天保14(1843)年、藤川宿・市場村合計で家数302軒、人口1213人、本陣・脇本陣各1軒、旅籠36軒。
藤川の集落は、当初は現在よりも北にありました。現在の町並みの北、名鉄と国道1号線の間に山綱川が流れていますが、この山綱川の北岸にあったようです。天正18(1590)年に現在地(山綱川の南)に移転したという記録があります。
前述のように、慶長6(1601)年に東海道に宿駅が設置されると共に、藤川は宿場町となりました。寛永15(1638)年には公用の役人や荷物を運ぶために人足100人・馬100疋を常備するように命じられました。
しかし、藤川宿は東海道の宿場の中で、下から3番目の規模(人口・家数とも)でした。小さな宿場であったため、藤川宿は困窮しており、人馬の常備に応じられる状態ではありませんでした。
そのため、代官・鳥山牛之助は正保2(1645)年に隣の市場村に加宿を命じました。加宿とは、宿場のみで公用のための人馬が準備できない場合に、負担を分担する村のことです。
慶安元(1648)年に藤川宿の東方にある山中郷市場村の68戸が藤川宿の東隣に移住しました。それでも藤川宿は人馬の常備が難しかったようです。他にも藤川宿は多くの助成を受けています(以下は主なもの)。
- 寛永8(1631)年、藩から銭1000貫文を拝借。
- 寛永13(1636)年、銭100貫文を交付される。
- 寛永14(1637)年、島原の乱に際し、馬1疋につき米5俵、人足1人につき米2俵を拝借。
- 寛永19(1642)年、飢饉のため、126両と馬1疋につき米2俵を拝借。
- 万治3(1660)年、道中奉行から500両を拝借。
- 寛文8(1668)年、火災のため、96両を拝借。
- 享保期(1716~36年)、火災のため、967両の助成を受ける。
- 宝暦13(1763)年、1000両を拝借。
- 安永元(1772)年、疫病が流行、400人余りが亡くなる。同3年、道中奉行は人馬賃銭(いわゆる運送料)の5割増しを認める。同5年、道中奉行から650両を拝借。
- 天明5(1785)年、道中奉行は今後10年間の人馬賃銭の4割増しを認める。
このような藤川宿では本陣・脇本陣の経営も大変なものでした。
本陣は大名等の高貴な客専用の宿です。一般客は宿泊できませんでした。そのため、大名等の宿泊・休憩が少ないと、本陣の経営は厳しいものとなりました。ただ、大名も経費節減のため、できるだけ参勤交代等の時は道を進む速度を上げ、宿泊・休憩回数を減らそうとしました。大名側にも事情はあったのです。
また、大名等が本陣に支払うお金は宿側の経費を賄える額とは限りませんでした(必要経費分を払うという考え方ではない)。これも本陣が困窮する原因です。
脇本陣は本陣が一杯になった時に使用されました。大名等が利用しない場合は、一般客が脇本陣を使用することもできました。
藤川宿では当初2軒あった本陣の内、1軒が江戸時代途中で没落しました。没落した本陣は別の家が継承して脇本陣となりました。しかし、今度は残っていた本陣1軒が没落して別の家に経営が移りました。次は脇本陣が没落し、別の家に経営が移りました。
なお、本陣や脇本陣が潰れ、別の家が継承するのは藤川宿に限ったことではありません。
大名等は経費のかかる本陣の代わりに、安く済む茶屋等で休憩することが増えました。藤川宿では、本陣と、加宿の市場村の茶屋との間で客の争奪を巡って争いも起きました。寛政2(1790)年には、大名等が茶屋で休憩する場合等に関する取り決めがなされました。しかし、結局取り決めは守られず、争いは続くことに・・・。
また、隣の岡崎宿(城下町)の板屋町とも客の取り合いで争っています。
今回は藤川宿の歴史というよりは、藤川宿の困窮との戦いの歴史という感じになりました。宿場町の困窮は藤川宿に限ったことではありませんが、規模が小さい藤川宿では、よりその事が表れていると言えるでしょう。隣が大きな城下町岡崎宿であれば、なおさら岡崎に宿泊者は流れがちになりますし・・・。
藤川宿は小さな宿場で、維持には大変な苦労・努力がありました。藤川宿の人々は(課せられた役目を果たす義務もあるが)拝借金を願い出、客を巡って争う等、何とか宿を維持しようと努めてきました(借金や争いが良い事とは言いませんが)。現在まで藤川宿の建物等の史跡が残っているのは江戸時代以来の人々の努力の結果なのです。
では、ここからは、そんな藤川宿の今に残る史跡を見ていきましょう。
藤川宿を歩く―藤川駅~藤川宿資料館
ここからは藤川宿の中を見ていきます。スタートは名鉄藤川駅です。
藤川駅までは名古屋駅や豊橋駅から名鉄名古屋本線で行けます。藤川駅は準急か普通しか停まりません。
名古屋駅からは快速特急や特急で東岡崎駅まで行き、準急か普通に乗り換えます。豊橋駅からは特急で国府駅まで行って準急か普通に乗り換えか、急行で本宿駅まで行って準急か普通に乗り換えになります。
藤川駅を降りたら、南口に出ます。豊橋方面から来た場合は降りたホームから改札を出ます。
名古屋方面から来た場合は少しややこしいです。ホームに下りたら、後方にある改札を出ます。改札を出たら、駅舎の北隣にあるエレベーターか階段で陸橋に上がります。陸橋を渡ると南口に出ることができます。
なお、北口の改札を出た所の歩道と道路の境目には藤川宿の説明板があります。
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藤川宿のパンフレットにある地図が便利なので、スキャンしたものを掲載しておきます。このパンフレットは藤川駅前にある、道の駅藤川宿にあります(2025年11月時点)。横長の地図なので、2分割します(それぞれの画像の3分の1は重複しています)。地図内の番号は以下の記事で場所名に併記します。


なお、地図にあってもパスした所、逆に地図には無いけど見た所もあります。
藤川駅南口から駅のホームに沿って東へ進みます。駐車場・駐輪場の間を抜けると、ロータリーのような所に出ます。ここは藤川駅前ポケットパーク(№19)です。
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ここは特に史跡というわけではありませんが、ここにも説明板があります。同様の説明板は各所にありますが、内容が異なるものもあります。
ポケットパークの所から南へ行きます。下の写真の奥です。

藤川小学校の横を抜けるとT字路に出ます。この左右(東西)の通りが旧東海道です。藤川宿はここから東西に広がっています(このあたりは西の端に近いですが)。
このあたりの道は車がすれ違えない所もあるぐらい狭く、昔ながらの道という感じです。狭いということは、歩く場合に車に注意が必要です。
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さて、ここからのルートですが、まずは藤川宿資料館へ行きます。そこで藤川宿の概要を知ることができます。続いて、一旦東の端まで行き、東から西へ見ていきたいと思います。なお、このT字路から順次見ていっても問題ありません。
では、この小学校横のT字路を左折します(東へ曲がる)。東へまっすぐ歩いて行くと、下の写真のようなT字路に着きます。写真の左から来たことになります(東海道は奥へ続く)。ここが資料館前のT字路です。
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上の写真の奥、古い門が見えますが、ここが藤川宿資料館(№13)です。
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資料館の開館時間は午前9時~午後5時で、月曜休館(月曜が祝日の場合はその翌日が休館)です。
ここにはかつて脇本陣がありました。脇本陣は本陣に次ぐ宿です。大名等の高貴な客専用の宿が本陣で、本陣が一杯になった時に脇本陣が使用されました。大名等が利用しない場合は一般客が脇本陣を使用することもできました。
上記の写真にある入口の門は享保10(1725)年頃に建てられたとされています。
現在の敷地は狭いですが、江戸時代には現在の約4倍の広さでした。
さて、資料館の中に入ります。この建物は江戸時代のものではありません。入口は民家の玄関のようで、鍵は開いており、中に入れます。私が行った時は無人で、人が常駐している感じではなかったので、常に無人かもしれません。玄関を入って右側に電灯のスイッチがあります(それでも少し暗め。他にもスイッチがあるようだが、見つからず。)。
資料館の中はそれほど広くありませんが、藤川宿のことを学ぶことができます。
中には、江戸時代の高札(法令等を広く人々に知らせるための掲示板)も3枚展示されています(本物?レプリカ?)。また、藤川宿のジオラマもあります。
藤川宿を歩く―東棒鼻~市場公民館
資料館を出たらまっすぐ東へ向かいます。10分ほど歩くと、道が大きく右へカーブする所に出ます。下の写真は逆側(東側)から見たものです。写真の奥(西)から来たことになります。写真の右には常夜灯(№2)が1基あるので、これが目印です。
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カーブする道に沿って行くと、Y字路に出ます。ここが東棒鼻(№1)です。
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今まで進んできた道は上の写真の右側の道です。本当の東海道は、左側の道です。道の舗装の色が変えられています。
棒鼻とは宿場の出入口のことです。ここでは下の写真のようになっています。

道の両側に石垣のようなものがありますが、これは江戸時代の様子を再現したものです。
歌川広重の「東海道五十三次」でもこの石垣が描かれています。下の写真は東棒鼻にあったものです。

絵の中央に、文字が書かれているような細長い棒が立っていますが、これは宿場の入口の目印として立てられた牓示杭(ぼうじぐい)で、これも再現されています。

ここから旧東海道(Y字路の左の道)へ入ります。少し行った所でT字路に出ます。
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ここは右へ曲がります。また少し進むと、交差点(食い違いの十字路)に出ます。先ほど道がカーブすると書いた、常夜灯がある交差点です。下の写真の奥の突き当たりです。
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写真奥の突き当りの左右の道は、最初に資料館から東棒鼻へ向けて通って来た道で、東海道はここを左(西)へ曲がります。
このように、宿場の入口では何度か道を曲げる場合があります。藤川宿では曲手(かねんて)と呼びます。外敵が来た場合、まっすぐな道よりも曲がった道の方が、敵の勢いを弱めることができるためです。
先ほどの写真を再掲します。横断歩道の左が東棒鼻から曲手を曲がって来た道です。
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この写真の右端には常夜灯(№2)があります。

この常夜灯には「秋葉山常夜燈」と刻まれており、寛政7(1795)年に建てられました。
秋葉山は火災除けとして知られているので、宿場の火災防止を願ってのものでしょうか。
ここから東海道を西へ進みます。少し行くと、右側にまた常夜灯が見えます。ここは津島神社の参道入口とみられます。
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この常夜灯は大正6(1917)年に建てられたものです。
参道の先には津島神社がありますが、ここをまっすぐ行っても津島神社にはたどり着けません。少し行った所で名鉄の線路に突き当たってしいます。見た感じでは、かつては踏切があったのでしょう。線路には踏切跡のようなものが残っています。
また、線路のすぐ先には鳥居や石灯籠があります。取り残されている感じで、少し悲しい・・・。
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ここから先へは進めませんが、この鳥居の先には国道1号線があり、その先に津島神社があります。ちなみに、神社は次のような所です。
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踏切跡の手前には古い蔵があります。これは旧山中郷の郷蔵です。郷蔵とは、飢饉等の非常時用の穀物を貯蔵するための蔵です。
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藤川宿は当初は小さな宿場で、経営が難しい状況でした。そのため、正保2(1645)年に隣の市場村に加宿が命じられました。加宿とは、宿場のみで公用のための人馬が準備できない場合に、負担を分担する村のことです。
慶安元(1648)年には藤川宿の東方にある山中郷市場村の68戸が藤川宿の東隣に移住しました。その時に一緒に移転して来たのがこの郷蔵です。
また、郷蔵の隣、常夜灯の脇にある市場公民館(旧市場公会堂)は、江戸時代のものではありませんが、大正6(1917)年に建てられました。
合掌工法という近代工法を駆使した建物で、額田・岡崎地区では2番目にできた公会堂だそうです。戸数が少ない地区で建てたことで有名になり、絵葉書にもなっていたそうです。
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この常夜灯・公民館の筋向いには藤川宿来訪者用の駐車場(№3)があります。利用は午前9時~午後5時で、月曜・年末年始は利用不可です。ここにはトイレもあります。
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藤川宿を歩く―市場公民館~問屋場跡
駐車場から更に西へ進み、少し幅の広い道と交わる交差点があります。ここを過ぎて少し行くと、明星院(№6)への入口があります(下の写真)。
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道を入って行くと、明星院に着きますが、入口には大きな生垣の門があります。パンフレットには、生垣が額縁のようになっていると書いてありますが、その通りの光景です。

明星院では江戸時代に寺子屋が開かれていたそうです。
明星院を出て東海道に戻り、引き続き西へ進みます。この辺りから上り坂になります。
坂の途中、道の右側(北側)に高札場の跡があります。説明板があるだけなので、見落とさないように注意です。
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先ほども書きましたが、高札とは、法令等を広く人々に知らせるための江戸時代の掲示板です。これを人々が多く通る場所に掲げました。その場所が高札場です。後で紹介しますが、現在は本陣跡に再現されています。
ここは藤川町と市場町の境にあたります。元々は3間四方(約5.4m四方)の広さがある高札場だったそうです。
高札場跡から少し行くと、道の左側(南側)に小道があり、曲がり角に小さな緑色の看板があります。看板には「称名寺」と書かれています。
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称名寺には鎌倉時代初期のものとされる阿弥陀如来坐像があります(建物内なので、見ることはできない)。
東海道に戻って西へ進んですぐ、道の右側(北側)に藤川宿の問屋場跡(№8)があります。
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宿場と言えば、宿泊するための町というイメージがあるのではないでしょうか。実は、宿場のもう1つの重要な役割として、人馬の継ぎ立てがあります。
これは主に2つあり、1つは街道を通っていく人(主に幕府役人等の、今でいう公務員)が乗る馬を乗り換える(ずっと同じ馬に乗り続けるわけにはいかないので)ことです。もう1つは書状や荷物の運搬を中継する(運ぶ人が交代する)ことです。
この継ぎ立てを行う場所が問屋場でした。高札場跡と同じく、現在は面影は無く、石碑と説明板があるのみです。
藤川宿を歩く―旅籠つる屋跡~伝誓寺
ここからは見どころが連続します。
問屋場跡から西へ少し行くと、右側(北側)に下の写真のような塀に囲まれた家があります。
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ここにはかつて旅籠つる屋(№9)がありました。下の写真(藤川宿資料館内の展示パネル)のような建物だったようです。
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現在は建て替えられていますが、建物の高さを低くし、塀を茶色にする等、景観に配慮されていると思います。
続いて道の左側(南側)に旧野村家住宅(米屋、№10)の建物が見えてきます。
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この建物は江戸時代の天保期(1830~44年)に建てられました。非公開ですが、内部は道に面した部分に店、奥に居住スペースがあるようです。上の写真の右端にあるように、なまこ壁もあります。

なまこ壁は、壁を風雨や火災から守るためのものです。白い部分は漆喰で、その盛り上がっている形が海鼠(なまこ)に似ているため、なまこ壁と呼ばれるようです。
1軒飛ばして、次に銭屋(№11)があります。ここは「旧東海道で最も古い町家」と、パンフレットには書かれていましたが、東海道五十三次の中で最古なのか、藤川宿内の旧東海道沿いで最古なのか、何ともいえません。
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少し傷んでいるように見えますが、古い建物です。が、しかし、中央の掲示板が・・・。これが無ければもっと良いのに・・・。
続いて右側(北側)に藤川宿の本陣跡があります。本陣は大名等の高貴な客専用の宿です。
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入口左側には高札場が再現されています。

本陣の建物は残っていませんが、敷地内は広場になっていて、藤川宿・高札場・本陣の説明板があります。

敷地の奥からは藤川宿北方が見えます。

藤川宿と山の間には、現在は国道1号線・名鉄・建物がありますが、山を望むことができます。当時もこれに近い風景があったのではないでしょうか(←想像力の問題)。
また、敷地の奥からは下へ下りていくことができます。下りていく道の両側には江戸時代から残る石垣(№12)があります。


下へ下りた所から上を見ると、敷地を囲むような石垣を見ることができます。




本陣跡の隣には、最初に見た藤川宿資料館(脇本陣跡、№13)があります。
本陣跡から少し西へ行くと、右側(北側)に小道があり、両側に常夜灯(№17)があります。
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この常夜灯は関山神社のもので、恐らくここが参道の入口だったのでしょう。常夜灯には明治44年の銘があります。
先ほどの津島神社参道と違い、ここはまっすぐ行くと、名鉄線を踏切で渡ることができます。しかし、その先の国道1号線は渡れないので、関山神社に行きたい場合は少し東へ遠回りして、信号交差点から渡る必要があります。
ちなみに、関山神社はこんな感じです。
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なお、私が行った時は入口の石段脇が崩れかかっているのか、回り道をしないと神社へ上がれませんでした。
関山神社は藤川宿の氏神です。神社がいつできたのかは不明です。山の上には奥宮もあるようですが、さすがに行きませんでした。ここには藤川宿の高札が保存されているようです(ってことは、資料館にあったのは、やっぱりレプリカ?)。
関山神社参道入口の常夜灯から西へ、水路を渡って間も無くの左側(南側)に伝誓寺(№18)へ入る道があります。
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伝誓寺は浄土真宗大谷派の寺院です。室町時代に蓮如(1415~99年)の教えに帰依して天台宗から浄土真宗に変わっているので、この伝承が正しければ、15世紀後半頃には伝誓寺はあったのでしょう。
パンフレットによると、大きなクスノキがシンボルのようですが、私が行った時には上部の枝が全て伐採されていました。枝の重みで倒木の可能性があったとかでしょうか?


東海道に戻ります。ここからしばらくは西へ進んでいきます。
藤川宿を歩く―西棒鼻~松並木
西へ進むと、途中、小学校があるT字路があります。ここが、最初に駅方面から出て来た交差点です。
駅の方へは曲がらず、小学校に沿って引き続き西へ進みます。運動場が終わる頃に、学校側に西棒鼻(№21)が現れます。
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最初の方で見た東棒鼻が藤川宿の東の入口で、この西棒鼻が西の入口です。2つの棒鼻の間が藤川宿になります。
ここでも写真の右の方に石垣が再現されています。東棒鼻と異なり、ここの再現石垣は道の片側だけです。
また、歌川豊広(安永3~文政12年、1774~1829年)の歌碑があります。

「藤川の しゆく(宿)の棒はな ミわたせハ 杉のしるしと うて蛸(ゆで蛸)のあし」と刻まれています。
藤川宿の棒鼻を見渡すと、杉で造った表示(多分、東棒鼻にもあった、細長い木造の標柱)とゆで蛸の足が見える、という意味のようです。当時、この付近にはゆで蛸を売る店があったらしいです。
西棒鼻の端(小学校の敷地が終わる所)には十字路があります。西棒鼻の筋向いには十王堂(№23)があります。
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十王堂は写真内の左側のものです(右側の建物は何か不明)。当初の十王堂は元禄期(1688~1704年)頃に建てられたと伝えられています。現在の十王堂は戦前の写真を基に平成29年に復原されたものです。
中には地蔵菩薩や十王の像があります。ガラスが少し曇っていた(汚れ?)ので見にくいのですが、下の写真のような感じです。


中央にあるのが地蔵菩薩立像です。十王は地蔵菩薩に向かって右側奥の檀上に5体、左側奥の壇上に4体、左側手前の一番中央寄りに1体あるものとみられます。左側手前の一番中央寄りのものが閻魔王(エンマ大王)だと思います。
詳しい説明は書きませんが、十王は亡くなった人を裁きます。閻魔王は有名ですね。一方で地蔵菩薩は地獄に堕ちた人を救う仏です。
一見すると地蔵菩薩と閻魔王は逆の立場に見えますが、昔は姿を変えているだけで同じものだと考えられていました。観世音菩薩や薬師如来、地蔵菩薩といった仏が姿を変えたものが十王だと考えられたのです。
その中で閻魔王は地蔵菩薩が姿を変えたものとされたため、お地蔵さんとエンマさんはセットになって祀られていることがあるのです。
元はと言えば、中国でも唐の時代には地蔵菩薩と閻魔王は同じと考えられていました。その考え方が日本に入って来たものです。平安時代の終わりにはその考え方があったことがわかっています。
話を藤川宿に戻します。十王堂の横には松尾芭蕉の句碑(№24)があります。
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「爰(ここ)も三河 むらさき麦の かきつはた」と刻まれています。紫麦はこのあたりで江戸時代に栽培されていた麦だそうです。いつしか栽培されなくなっていたものを、平成6年に復活させたようです。
今回は11月なので時季が違いましたが、パンフレット等の写真で見ると、本当に穂が紫色です。藤川宿周辺では何ヶ所か栽培地があり、5月中旬頃が見頃のようです。
十王堂・芭蕉句碑から少し西へ行くと、住宅の入口横に一里塚の跡(№25)があります。
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現在は植え込みのような所に「一里塚跡」という木札と説明板があるのみです。
一里塚は、街道で一里(約4㎞)ごとに設置された、距離の目印です。「塚」とあるように、土が盛られ、木が植えられました。ここの一里塚では、かつて道の両側に塚があって、榎が植えられていたそうです。
さて、ここからは次まで間が空きます。西へ5分程歩いて行くとY字路があります。ここが東海道と吉良道の分岐点(№27)です。
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右が東海道、左が吉良道(吉良方面へ繋がる道)です。中央には松が植えられています。木製の説明板があったのですが、文字がほとんど磨滅して見えませんでした。残念・・・。
なお、上の写真には写っていませんが、写真のすぐ左、道路の左側(南側)には小さい祠があり、中には観音像(№26)が祀られています。
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恐らくは十一面観音像だと思います。関係あるのかはわかりませんが、手前には地蔵菩薩像もあります。
ここでは東海道(右の道)を進みます。踏切を渡って間も無く、道の両側が土手になって、木々が植えられています。この辺りからしばらくが、東海道の松並木(№28)です。
私は松並木に入ってすぐの所で写真を撮りました(下の写真)。
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が、グーグルストリートビューで見ると、もっと先の方が綺麗な風景なようです。写真の所では木以外にも多くの植物があり、松並木がイマイチです。もっと調べていけば良かった・・・。ここまでかなり調べて行ったのに、最後の最後にこのオチ。皆さんはもうちょっと頑張って歩いてください(努力は景色で報われる・・・はず)。
ということで、最後が締まりませんでしたが、以上が旧東海道の藤川宿です。
ここからは藤川駅に戻ることになります。藤川駅の北西には道の駅藤川宿があります。
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上の写真は北側から撮ったものなので、駅の方(東・南)から見ると建物の裏側や側面が見えます(裏からも建物に入れます)。
道の駅の中にはレストラン・農産物直売所・土産店・コンビニ・トイレ等があります。
以前に来た時は平日だったからか、昼間でもレストランは混んでいなかったのですが、今回は休日昼間(12時代)で10~20人ほど並んでいました。
藤川宿はそれほど大きくなく、歩いて全てを見ることができます。2時間あれば十分でしょう。私は東海道から離れた津島神社や関山神社へも行って3時間弱でした。
道が狭いので、車には注意ですが、散歩がてら散策するにはピッタリだと思います。電車でも行けて、車でも駐車場があるので、一度行ってみてはいかがでしょうか。
※記事の内容は2025年11月時点のものです。
《参考文献》
- 『国史大辞典』(吉川弘文館、1991年)
- 『新編岡崎市史』近世(新編岡崎市史編集委員会、1992年)
- パンフレット「東海道藤川宿ご案内」(藤川学区社会教育委員会・藤川まちづくり協議会、2024年9月)
- パンフレット「東海道藤川宿まち歩き観光マップ」(岡崎パブリックサービス・JAあいち三河共同事業体)


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