前回は和子に待望の皇子・高仁親王が誕生しますが、幼くして亡くなるところまでを見ました。一方で、後水尾天皇はこの皇子に将来譲位するつもりでいました。皇子が亡くなり、朝廷・幕府の関係も再び悪化する中、後水尾天皇は和子の娘への譲位を強行します。
譲位後、和子は後水尾上皇と過ごす時間が増える一方で、以降の天皇の母(実母・養母)として朝廷内で重きをなしていきます。最終回の今回は譲位後の和子について見ていきます。
※「和子」の名がいつから使用されたのかは明らかではありませんが、以下では「和子」、途中からは「東福門院」と統一表記します。
後水尾天皇の譲位
高仁親王が亡くなった翌月(寛永5(1628)年7月)頃、後水尾天皇は和子の第一子である女一宮へ譲位する意向を示します。この意向は和子を介して幕府へ伝えられますが、秀忠は時期尚早であるとして譲位を思いとどまらせます。
ちょうどこの頃、僧侶への紫衣着用の勅許(天皇の許可)に関する幕府の法令に寺院が反発した紫衣事件が起きていました。幕府はこれ以前の紫衣勅許の取消しも求めていたようです。この事件は後の後水尾天皇の譲位に大きな影響を及ぼしたとされています。
この年9月27日、和子は再び皇子を出産します。しかし、この皇子は10月6日に亡くなってしまいます。
翌寛永6年4月、和子は亡くなった2人の皇子と自らの母である江与の供養として施食を行いました。3年前に母を、前年に2人の皇子をたて続けに亡くした和子の悲しみが表れているようです。
同年5月、後水尾天皇は病気治療・療養を理由として譲位の可否を公家衆に諮問します。反対は無く、勅使が江戸へ向かいます。しかし、幕府は認めませんでした。
この頃、和子は次の子を懐妊していました。そして8月に女子を出産します。
9月になり、有名な家光の乳母・ふく(春日局)が上洛し、参内します。この参内の目的には諸説あるようです。
しかし、ふくには参内できる資格(位や家柄)がありませんでした。これには公家の養妹になるという形を取りました。春日局の名もこの時に与えられたものです。そして、後水尾天皇と対面を果たします。
天皇はこのような春日局の(半ば無理矢理な)参内を良く思わず、ここから譲位へ一気に傾いて行ったと考えられています。
10月29日、和子が最初に産んだ女一宮が内親王となり、興子と名付けられます。これは譲位の前段階でしたが、幕府側には気付かれずに行われたようです。
そして11月8日、後水尾天皇は幕府に事前に知らせないまま突然譲位を決行します。公家衆も譲位とは知らないまま参内を命じられ、参内後に譲位であることを知りました。結果として譲位は行われ、皇位に就いたのは興子内親王(明正天皇・7歳)でした。
これまで幕府に譲位の意向を示し、幕府の意向を窺ってきた天皇が、今回は幕府に知らせずに譲位を決行しました。このことからも、天皇がいかに譲位を望んでいたか、幕府の意向に従うつもりが無かったかがわかります。
幕府が望まない譲位であったとはいえ、和子は天皇の母に、秀忠は外祖父となりました。先に答えを言うと、明正天皇は生涯独身で子は無く、以降の天皇は和子以外の女性から生まれています。つまり、天皇が和子の子(秀忠の孫)であったのは明正天皇だけでした。
京都所司代板倉重宗は和子に会い、秀忠・家光の返事が来るまでは穏便にするように進言しました。そして、和子から秀忠宛の書状を持った使者が江戸へ送られます。
和子にとっては、夫である後水尾天皇が幕府の意向に反して譲位してしまいました。幕府から入内した身でありながら、幕府を無視した譲位を止められなかったということになります。書状にはどのような事が書かれていたのでしょうか。その内容は不明です。
秀忠・家光は譲位について追認することとなりました。
譲位の翌日、和子の院号が東福門院と決まりました。以降は和子を「東福門院」と表記します。
東福門院として
譲位の翌年、寛永7(1630)年9月、明正天皇の即位の儀式が行われました。
同年11月には後水尾上皇と東福門院が暮らす院御所・女院御所が完成し、12月に2人は新しい御所に移ります。
寛永9年1月、和子の父・秀忠が亡くなります。和子と秀忠が最後に会ったのは二条城行幸が行われ、母・江与が亡くなった寛永3年、約4年半前でした。
寛永11年、将軍家光が上洛し、後水尾上皇の院政を承認します。これは譲位以降改善されていなかった朝廷と幕府の関係改善の第一歩とされています。
子の明正天皇が皇位に就き、「国母」とも称された東福門院の発言権は増大したと考えられています。寛永7年に後水尾上皇の母・中和門院が亡くなっていたことも、それを助長したようです。和子は後宮の第一人者となっていました。寛永7年時点で和子は24歳でした。
例えば、寛永9年9月には、和子の母・江与の命日に合わせて、江与の父・浅井長政へ権中納言が追贈されました。これは東福門院が望んだものです(家光が東福門院を通じて要望を伝えた可能性もある)。
また、東福門院入内前に生まれた後水尾天皇の皇女梅宮(大通文智)が出家して、京都に創建した円照寺を奈良に移す時に、幕府の承認を得るために東福門院が仲介したとも言われています。円照寺には後に幕府から200石の寺領が与えられますが、これも東福門院の依頼によるものです。東福門院の幕府への影響力が大きかったことを物語っています。
後水尾上皇の譲位後も東福門院は2人の皇女を産んでいます。この内1人は1年も経たずに亡くなりました。東福門院がもうけた2皇子5皇女の内、成人したのは明正天皇を含めて皇女4人でした。7人の子どもがいたことからも、後水尾天皇と東福門院の仲は睦まじかったであろうことが想像できます。
なお、後水尾上皇は譲位後に東福門院以外の女性との間にも子どもをもうけています。この内3皇子は後に天皇となります(後光明・後西・霊元天皇)。
寛永19年9月、後水尾上皇と別の女性との子・素鵞宮が次期天皇となることが決まります。翌月には素鵞宮が東福門院の養子となり、12月には親王となり、紹仁と名付けられます。これは即位から年数が経っている明正天皇の譲位に向けた動きです。
そして約1年後の寛永20年10月に明正天皇は譲位し、紹仁親王が皇位を継ぎました(後光明天皇)。
時は流れて慶安4(1651)年、将軍家光が病で重体に陥ります。この時、朝廷側でも東福門院の命で回復祈願のための臨時神楽が催されました。しかし、家光は4月に亡くなります。東福門院と最後に会ってから17年が経過していました。
なお、この同じ年に後水尾上皇は出家し、法皇となります。
少し話が逸れますが、後水尾天皇が譲位した後、上皇と東福門院は外出をすることが可能となったようです(後水尾天皇の在位中は二条城行幸程度しかない)。東福門院は上皇と共にたびたび外出しています。時には娘も同行したようです。
普段、東福門院は上皇とは別の御所(隣ではある)で暮らしていたため、外出は上皇と共に過ごせる機会であったようです。また、明正天皇や後西天皇も譲位後は後水尾上皇(法皇)・東福門院と一緒に外出することがありました。
一方で、御所がたびたび火災に見舞われて仮御所で暮らすなどの苦労もありました。
後光明天皇の崩御と後継者選定
話を元に戻します。承応2(1653)年、内裏が火災で焼失します。更に翌年、内裏の再建も近くなった9月に後光明天皇が亡くなりました。後水尾法皇と東福門院は悲しみにくれたようです。
後光明天皇は生前に後水尾法皇の子・高貴宮(1歳)を養子にする意向を持っていました。このことについて、幼少での皇位継承は難しいとして、法皇は高貴宮が成長するまでは別の子・良仁親王に皇位を継承させる意向でした。
これについて東福門院は、関白・二条光平に対して、法皇の意向に賛同する旨を表明し、幕府にも相談するように伝えます。
果たして、幕府はこの方針に同意します。それと同時に東福門院に対し、良仁親王に天皇としてふさわしくない行動があった場合はいつでも高貴宮に譲位するよう、東福門院が取り計らうように伝えます。
これは、譲位について幕府の意向を東福門院を通じて反映できるようにするためと考えられています。また、東福門院を間に挟んだ理由は、将軍家綱が若かったためとされています。
関白への自らの意向表明や、幕府の意向を反映するための経路として、ここでも東福門院が存在感を発揮しています。
この年の10月、故・後光明天皇の生母・京極局に准后・院号宣下が行われました。しかし、これは「密議」で進められました。「密議」であったのは、後光明天皇の養母である東福門院に憚ったためとされています。このことから、朝廷が東福門院に気を遣っていたことがわかります。
11月、皇位継承を控えた良仁親王は後光明天皇と同様に東福門院の養子となり、2日後に践祚します(後西天皇)。東福門院を天皇の母とする方針がここでも確認できます。
次期皇位継承者である高貴宮も明暦4(1658)年に東福門院の養子となっています。その2日後に親王宣下があり、識仁と名付けられました。
やがて寛文2(1662)年9月、後西天皇から識仁親王への譲位が朝廷と幕府の間で合意されます。この時も幕府の使者は東福門院のもとを訪れています。翌年1月、後西天皇は識仁親王へ譲位しました(霊元天皇)。
東福門院の最期
東福門院は延宝4(1676)年6月から体調を崩しました。回復の祈祷も行われ、幕府も医師を派遣し、一時回復したこともありましたが、完全には治らなかったようです。
そして、延宝6年6月14日には危篤となり、翌15日に72歳で亡くなりました。この日は危篤の連絡を受けて、朝から皇族が女院御所に集まりました。東福門院の希望により、臨終の時に側にいたのは、奈良にある円照寺の文海だけだったようです。文海はかつて東福門院に仕えていた相模という人物で、東福門院の入内前に生まれて円照寺を創建した梅宮(大通文智)の弟子です。
東福門院を亡くした後水尾法皇は憔悴した様子であったと当時の史料に書かれています。
6月26日には葬送が行われ、泉涌寺に葬られました。
東福門院の逝去に対し、天皇の服喪の期間等については、天皇の実母(東福門院は当時の霊元天皇の養母)としての対応がとられました。このあたりも、朝廷内での東福門院の立場が窺えるのではないでしょうか。
和子(東福門院)の果たした「役割」について
さて、3回にわたって和子(東福門院)の生涯を見てきました。政略結婚というと、本人の幸せは二の次です。和子も確かに本人の幸せが優先されていたわけではありません。後継者となる皇子を産み、幕府が朝廷に打ち込んだ楔とも言える存在であるからには、それなりの役割を果たす必要もありました。
しかし、明正天皇が即位したものの、自分の男子が皇位に就くことはありませんでした。現代では「男だから」「女だから」ということはあまり気にしないかもしれませんが、当時の、ましてや朝廷や幕府においては男子が跡を継ぐという考え方がありました。その点では、役割の一つは十分に果たせなかったと言えるでしょう。
しかし、和子はその後の天皇の母(養母)となり、国母として朝廷で重きをなし、幕府との間に立ち、朝廷・幕府の関係を保つ役割を果たしていたと私は思います。実際、朝廷と幕府が大きく決裂することは無かったのです。
これらを和子の果たした「役割」と表現するのは現代では違和感があるかもしれませんが、和子はそのような「役割」が求められる厳しい時代にたくましく生き抜いた女性だったのではないでしょうか。
《参考文献》
- 『日本史広辞典』(山川出版社、1997年)
- 久保貴子『徳川和子』(吉川弘文館、2008年)
コメント