東福門院徳川和子の入内2~入内と皇子の誕生~

前回は当時の朝廷・幕府の関係と、和子の入内に向けた動きについて見ました。たびたび延期された入内ですが、ついに暗礁に乗り上げてしまいました。ここで登場するのが大名・藤堂高虎です。彼によって入内の話はまとまります。

今回は再開された入内交渉から、和子に待望の皇子が誕生するまでを見ていきます。

※「和子」の名がいつから使用されたのかは明らかではありませんが、以下では「和子」、と統一表記します。

藤堂高虎による入内交渉

さて、入内をひかえた後水尾天皇とおよつの間に2人の子が生まれ、入内は暗礁に乗り上げてしまいました。

ここで交渉役として登場するのが伊勢国津藩主・藤堂高虎です。高虎は幕府側の代表者の一人として入内交渉を進めました。

なぜ高虎が交渉役になったのか、確たる理由は不明ですが。高虎は幕府の信頼が厚く、当時の公家社会の最上層にいた近衛信尋(後水尾天皇の弟)と親しかったと言われるので、朝廷と交渉するだけのパイプがあったからではないでしょうか。

後水尾天皇は元和5(1619)年9月5日に近衛信尋に送った書状の中で、高虎の斡旋に謝意を表しつつも、入内が延期するのであれば自分は譲位すると言っています(幕府を牽制)。

これに対してかはわかりませんが、9月18日に秀忠は6人の公家を処罰します。表向きは、朝廷の法度等に反したり、身勝手な行動があったりしたとの理由です。処罰された公家の中には、天皇の祖母の弟やおよつの兄が含まれていました。明らかに天皇の近親を処分した形と考えられています。

10月18日、天皇は近衛信尋に送った書状の中で再び譲位の意向を示します。高虎は天皇の意向を聞いて江戸へ向かい、秀忠に報告し、京都所司代の板倉重宗とも相談したとみられます。その結果は高虎から近衛信尋へ書状で報告されました。この書状は現存しません。

ただ、高虎の報告に対する信尋の返事が残されています。その返事には、高虎の報告では将軍の機嫌は良かったこと、高虎の報告内容を天皇に申し上げたところ、天皇は満足したことが記されています。

また、前日の酒宴では大酒を飲んだが、行儀の悪い事はしていないとも記しています。前述のように9月に公家が不行儀で処罰されていたため、自身の行動も気にしていたのでしょうか。

しかし、京都所司代の板倉重宗を通じて朝廷に届いた将軍秀忠の正式回答は、朝廷が期待していた内容とは異なりました。譲位は認めず、入内も既定方針どおりというものでした。天皇は再び怒りを見せます。

このようにして入内が暗礁に乗り上げた元和5年の内に問題は解決しませんでした。

翌6年2月、藤堂高虎が上洛して再び交渉し、2月27日に天皇が「入内は将軍次第」と回答して、6月の入内が決定しました。

高虎は2月24日に上洛しているので、3日後に決着をつけるという早わざでした。困難な交渉を決着させた安堵感からか、高虎は外部への書状の中で「天下の大変喜ばしい事である」・「昨夜はゆっくりと寝ることができた」と述べています。

このように速攻とも言える決着でしたが、一説には高虎は公家衆を相手に結構な強硬手段(話法)で決着をつけたと言われます。それによると、「昔は武家の指図に背いた天皇を左遷した例がある。決着をつけないまま江戸に帰ることはできない。入内について天皇の同意を得られないのであれば、天皇に左遷をすすめ、自分は切腹する。」と言い放ったようです。

これは「藤堂家記」という史料に書かれており、他の記述からはこの史料の全てが真実であったとは言い切れないものの、これに近いことは行われたのかもしれません。

入内

入内が決定した和子が江戸を出発したのは元和6(1620)年5月8日でした。まだ数え年14歳でした。同月28日に京都の二条城に到着しています。

入内は和子の体調不良で少し延期され、元和6年6月18日に行われました。

当日、入内の行列は正午頃に二条城を出発しました。行列を見るべく多くの人々が集まったようです。そのような中、京都所司代板倉重宗、酒井忠世・本多忠政・井伊直孝等の譜代大名、関白九条忠栄・左大臣近衛信尋等の公家、その他多数の武家・公家等が二条城から内裏へ行列をなしました。

内裏で和子が後水尾天皇と対面したのは午後10時頃とされています。和子から天皇や中和門院前子(天皇の母)へ装束や銀が贈られました。

23日には中和門院が和子と対面しました。この後も祝賀のための公家衆等の参上、諸大名からの献上物等があり、25日に入内の行事は終了しました。

父子・兄妹の対面と第一子の誕生

天皇と和子は政略結婚でしたが、入内後すぐの7月7日には、七夕の契りに関する和歌をやりとりしています。また、入内の翌年にも天皇と和子が酒の酌をし合っているのは、数少ない2人の関係を窺う史料のようです。しかし、天皇と和子の仲や和子の生活についてはあまり詳しくわかっていません。

天皇の母である中和門院前子は2人の関係に気を配っていたと考えられています。

また、朝廷内では和子の成長に関する儀式も行われています。

元和9(1623)年6月、和子の父・秀忠が参内(朝廷の内裏に参上すること)し、和子と入内後初めて会います。入内から3年後のことです。ここには後水尾天皇も加わり、初めての3人での対面でもありました。

そして、この翌月(7月)、和子の兄・家光が将軍となります。8月に家光は参内し、ここで和子は家光とも入内後初めて会いました。

秀忠や家光と会ったこの時、和子は17歳、1人目の子を懐妊していました。

そして11月に和子は女子(女一宮)を出産します。この女子が後に奈良時代以来の女帝となる明正天皇です。

少し遡ってこの年の9月、後水尾天皇の叔父・智仁親王が子・智忠親王(天皇の従弟)を天皇の猶子にしようとします。これについて、和子は秀忠又は京都所司代(史料により相手が異なる)の意見も聞くようにと言っています。

当時の女性には、政治的な発言をする印象があまり無いのではないでしょうか。和子のこの発言を見ると、幕府から入内した身・朝廷と幕府の橋渡しの身として、幕府への気遣いも忘れまいという自覚のようなものを感じます。とはいえ17歳でそのような認識を持っていたとするならば、現代人の感覚からすると聡明さを感じませんか?

中宮冊立と皇子の誕生

寛永元(1624)年11月、女御であった和子は中宮となります(中宮冊立)。

中宮と女御はともに天皇の妻ですが、中宮の方が格上です。

皇后と中宮は、並立していた時期もありましたが、次第に中宮が皇后のことを意味するようになっていました。中宮は南北朝時代以降絶えており、和子が中宮になったことで久しぶりの復活となりました。

女御は皇后になる前段階という地位(但し、女御という地位ができた当初はそうではなかった)です。これも南北朝時代以来絶えていましたが、後陽成天皇(後水尾天皇の父)の女御となった近衛前子(中和門院、後水尾天皇の母)の時に復活しました。この時には皇后(中宮)に準じる正妻と認識されていたようです。但し、前子は中宮にはなりませんでした。

和子の中宮御所は朝廷の中にありながら、京都所司代が統括し、幕府の支配下にありました。このあたりは幕府から入内した中宮という特殊性が垣間見られます。

和子は中宮となった翌年(寛永2年)、第二子を懐妊します。そして同年、女子が誕生します。

秀忠にとって、後水尾天皇と和子の間に男子が生まれて天皇になれば、自分は外祖父となります。それは朝廷への幕府の影響力が大きくなることを意味します。天皇の外祖父と言えば、藤原道長が有名ですが、(時代は違えど)道長の絶大な権力を見れば外祖父の影響力がよくわかります。

男子が天皇になると考えられていたであろう時代において、2人目も女子であったというのは、秀忠にとって心中複雑であったかもしれません。

なお、天皇家も男子を望んでいたようで、朝廷では僧に命じて男子が誕生するようにまじないを行っています。

寛永3年、秀忠・家光は後水尾天皇の二条城行幸(訪問)のために上洛します。この時、中宮御所で後水尾天皇・和子・秀忠が3年ぶりに対面します。家光も上洛後に中宮御所を訪れ、和子と会いました。

後水尾天皇の二条城行幸は9月6日から行われ、和子も二条城へと入りました。初日の宴には和子も出席しています。

幕府がその権力や朝廷との融和を見せつけたであろう行幸が終わった直後、江戸で和子の母・江与が亡くなっています。和子が最後に会ったのは6年前に江戸を出発した時です。

さて、この行幸の時、和子は3人目の子を懐妊していました。11月に誕生したこの子こそ、待ち望まれた皇子でした。皇子は高仁(すけひと)親王と命名されました。

翌寛永4年、年頭の勅使が江戸へ向かうに際し、後水尾天皇は、高仁親王が4歳になったら譲位する意向を幕府に伝えました。幕府も承諾します。秀忠が天皇の外祖父になる日が現実味を帯びていました。しかし・・・。

高仁親王は寛永5年6月、数え3歳(実年齢は1歳半)で亡くなりました。和子の様子はわかりませんが、父である後水尾天皇は、弟の近衛信尋の日記に「天皇のお顔を拝見した。涙が出るものであった。」と記されています。

高仁親王が天皇となり、秀忠が外祖父になることで、公武合体政権となる構想は露と消えてしまいました。もし公武合体政権が実現していれば、江戸幕府は本拠地を江戸から大坂へ移し、大坂幕府となる構想(家康時代からの構想)があったという説もあります。

さて、高仁親王が亡くなったことで、予定されていた後水尾天皇の譲位はどうなるのか。次回は譲位に至るまでの経過と、譲位後の和子について見ていきます。

《参考文献》

  • 『日本史広辞典』(山川出版社、1997年)
  • 朝尾直弘「「元和六年案紙」について」(『朝尾直弘著作集』第4巻、岩波書店、2004年)
  • 久保貴子『徳川和子』(吉川弘文館、2008年)
  • 藤田達生「徳川公儀の形成と挫折―新出小堀遠州書状を素材として―」(『織豊期研究』第21号、2019年)

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