江戸時代の初め、徳川将軍家から朝廷へ輿入れ(入内=じゅだい)した女性がいました。女性の名は和子。徳川家康の孫で、秀忠と江与の娘です。朝廷・幕府の融和政策としての入内構想から実際の入内までは長い年月を要し、紆余曲折がありました。
和子は後水尾天皇と結婚して明正天皇を産み、国母とも称されました。典型的な政略結婚ですが、和子はどのような人生を歩んだのでしょうか。今回から3回にわたって久保貴子氏の著書『徳川和子』を中心に和子の生涯について見ていきます。
和子の誕生と兄弟姉妹
和子は慶長12(1607)年、江戸幕府将軍・徳川秀忠の5女として江戸城で生まれました。母は有名なお市の方の娘・江与です。徳川家康の孫にあたります。
和子の名前については、「かずこ」や「まさこ」という読み方と言われています。これについては、いつからどのように呼ばれていたのか、はっきりしていないようです。また、家康や秀忠の娘の名は千姫のように「○姫」で「○子」ではありません。このブログでは「和子」(後には「東福門院」)に統一表記します。
秀忠と江与の間には2男5女が誕生しました。
長女は千姫です。豊臣秀頼に嫁ぎ、大坂夏の陣で豊臣氏が滅亡した後は本多忠刻(徳川四天王・忠勝の孫)に嫁ぎます。忠刻の没後は江戸城に戻って暮らしました。
次女は珠姫です。加賀国金沢の前田利常に嫁ぎました。
三女は勝姫です。秀忠の甥の松平忠直(秀忠の兄・秀康の子)に嫁ぎました。しかし、元和9(1623)年、忠直は秀忠によって改易されました。勝姫は江戸へ呼び戻されますが、子・光長が忠直の跡を継ぐこととなりました。
四女は初姫です。江与の姉で京極高次室の初(常高院)と同じ名前で、初姫は常高院に引き取られて養育されます。そして京極高次の子・忠高と結婚します。しかし、夫婦仲は良くなかったようで、初姫が亡くなった時も忠高は相撲興行に興じていたようです。
次に生まれたのが、後に将軍となる家光です。
その2年後には忠長が生まれます。しかし、忠長は後に家光によって改易されます。
そして、秀忠と江与の間に最後に生まれたのが和子です。
その他、秀忠には別の女性との間に男子(後の保科正之)が生まれています。
また、江与は前夫の豊臣秀勝との間に娘・完子をもうけました。完子は、淀殿に引き取られ、後に関白となる九条忠栄(幸家)に嫁ぎました。
以上が和子の兄弟姉妹です。長兄・家光は将軍となり、次兄・忠長は後に改易されたものの大納言となり、家光にとってはライバルと言える大きな存在でした。姉達は名だたる家に嫁ぎ、保科正之は家光政権を支えた幕府重鎮でした。
さすが将軍秀忠の子どもたちですが、経歴で言えば、もしかしたら最も華やか(幸せか否かは別)であったのは天皇の妻となった和子かもしれません。
盤石ではない徳川政権
関ヶ原の戦いで勝利し、慶長8(1603)年に家康が征夷大将軍に就任、2年後には秀忠が将軍職を継ぎました。このように権力を大きく拡大した徳川氏ですが、盤石な地盤を築いたとは言えない状況でした。
関ヶ原での勝利に貢献した福島正則をはじめとする豊臣大名が多く配置されている西国には譜代大名を配置できず(池田氏・藤堂氏・細川氏等の徳川氏と親しい大名はいた)、十分な影響力があったとは言えません。
何より、大坂の豊臣秀頼は依然健在でした。朝廷も豊臣氏との関係を維持している状態にありました。
また、徳川氏内部でも秀忠のライバルになりうる弟の松平忠輝(妻は伊達政宗の娘)、甥の松平忠直(秀忠の兄・秀康の子)がいました。
家康・秀忠率いる幕府は豊臣氏・西国大名や忠輝・忠直らの課題を(時には合戦・粛清により)乗り越えていきますが、その中で朝廷と幕府との関係構築にも努めていました。その一つが和子の入内です。
入内前夜~猪熊事件~
慶長10(1605)年、幕府は朝廷の院御所の造営を開始しました(慶長12年完成)。これは後陽成天皇の譲位に向けた準備とされています。
慶長11年4月、家康は上洛し、幕府の推挙無しに武家に官位を与えないように朝廷に要求しました。これは豊臣秀頼が官位授与について朝廷と大名等を仲介することを防ぐ目的とされています。
慶長12年に和子が誕生します。翌13年には、次期天皇となる政仁親王(後の後水尾天皇)への秀忠の娘(和子とは断定できない)の入内の噂が流れています。
慶長14年に朝廷で大事件が起きます。猪熊事件と呼ばれる(首謀者が猪熊教利であったため)、朝廷に仕える女房衆(女官)と公家衆の密通事件です。このような事は珍しくはなかったようです。しかし、この時は複数人による密通で、後陽成天皇の怒りが激しかったという点で通常の密通事件とは異なる状況でした。
当初の取調べで関係者は処分を受けます。この事件は幕府にも報告され、家康は天皇の考え次第に処分を行う意向を示しました。朝廷側(摂家衆)も同じ考えでした。
これに対し、後陽成天皇は関係者への更なる厳罰を希望していました。これに対して家康は、十分に吟味した上で処罰するべきであり、急ぎ厳罰に処することには反対しました。天皇はこれに不満を抱き、自らの考えどおり(厳罰)にするように摂家衆に命じました。
しかし、天皇の意に反し、公家衆への取調べが継続されました。また、後陽成天皇の母・勧修寺晴子と天皇の女御(妻)・近衛前子は寛大な処分を望んでいました。
結果として、処分は家康に任せるという天皇の意向が示されましたが、これは天皇にとって納得できるものではなかったようです。
入内前夜~後陽成天皇の譲位をめぐる問題~
猪熊事件の処分に不満を抱いたからか、事件決着直後の慶長14(1609)年末に後陽成天皇は譲位の意向を示します。幕府は翌15年2月にこれを了承します。
しかし、3月に予定されていた譲位は、家康の娘が亡くなったことにより延期となります。幕府は天皇の子・政仁親王(後の後水尾天皇)の元服を年内に、譲位を翌年(慶長16年)に行うように要求します。これに天皇は激怒しました(天皇は年内に親王の元服と譲位を同時にしたかった)。
この後も幕府と朝廷の折衝は続き、ようやく天皇が折れました。慶長15年12月に政仁親王が元服し、翌16年3月に政仁親王へ譲位されました(後水尾天皇)。
猪熊事件に続いて譲位でも天皇の意志が認められない。本来は幕府よりも上位にあるはずの天皇にとっては当然怒り心頭ですよね。譲位したとはいえ、後陽成上皇は健在ですから、朝廷・幕府の関係は良好とは言えないままだったことでしょう。
入内の延期と後水尾天皇・およつ
さて、和子の入内ですが、いつから構想され始めたのかは定かではありません。
前述のように、慶長13(1608)年には、次期天皇となる政仁親王への秀忠娘の入内の噂が流れています。但し、この時点で未婚の秀忠娘には3女・勝姫もおり、和子とは断定できません。どの女子とは特定せずに、漠然と「将軍の娘が入内するのか?」という噂でしょう。
この後、勝姫は慶長14年に松平忠直と婚約し、同16年に嫁ぎます(残った秀忠娘は和子だけとなる)。
慶長16年には前述のように後水尾天皇が皇位を継ぎ、和子の入内に向けた協議が進み始めます。朝廷でも協議が行われ、幕府でも和子の装束等の準備が進みます。そして、同19年3月には和子の入内が正式に決定します。
順調に?決まった入内・・・しかし、ここからが大変な道のりとなります。
まず、入内が決まった慶長19年に大坂冬の陣が起きます。一旦和睦となりますが、翌年には大坂夏の陣が起こり、豊臣氏が滅亡します。
翌年の元和2(1616)年には家康が亡くなります。更に翌3年には後陽成上皇が崩御します。こうして入内は延期・延期の繰返しとなります。
ようやく入内の動きが再開されたのは元和4年になってからです。入内を翌5年とすることで話がまとまりました。元和4年9月には入内後に和子が居住する女御御殿造営の奉行が任命されます。
しかし、その9月にまたもや入内延期の噂が流れます。西洞院時慶という公家の日記に記されているようですが、理由は不明で、あくまで噂です。噂ですが・・・考えられる事が一つありました。
それは、この年に後水尾天皇と四辻公遠の娘(およつ)の間に第一皇子賀茂宮が生まれたことです。とはいえ、朝廷・幕府とも入内延期に向けた動きは見られず、翌元和5年には女御御殿等の建設が本格化します。
そのような中、この元和5年6月、天皇とおよつの間に再び女子(梅宮、後の大通文智)が生まれます。前年に続いて2人目ともなると、さすがに朝廷・幕府間に波風が立ち始めます。それを象徴するかのように、梅宮はこの後波乱の人生を歩むことになります。が、ここでは話が逸れるので、詳しくは述べません。また機会があれば…。
和子を嫁がせる予定なのに、先に別の女性と天皇の間に子が生まれたとなれば、幕府としては気にならないわけがありません。入内延期の動きは無かったものの、第一皇子賀茂宮の誕生は、外祖父を狙っていたであろう秀忠にとってはゆゆしき事態ではないでしょうか?根拠は無く、私の想像ですが…。そして、女子とは言え、2人目の誕生です。
元和5年の梅宮誕生の直前、恐らくはおよつ懐妊が秀忠の耳に入ったことにより、和子入内に供する女房(女官)の衣裳調製が中止されました。予定されていた同年中の入内はほぼ不可能な状況になったのです。
ここに来て、入内は暗礁に乗り上げたと言っても過言ではないでしょう。入内に向けて、朝廷・幕府間の再びの交渉が必要になってきます。交渉はどのように進められ、入内に至ったのか。次回はこれについて見ていきます。
《参考文献》
- 『日本史広辞典』(山川出版社、1997年)
- 久保貴子『徳川和子』(吉川弘文館、2008年)
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