藤堂高虎の武勇伝2~何がすごい?勲章としての傷と遺訓~

今回は、前回に引き続き、戦国武将・藤堂高虎のお話です。

前回は高虎の武勇伝を紹介しましたが、今回は数多の戦いを経験した勲章でもある戦傷と高虎の遺訓(高虎が実際に話した事かは不明)を紹介します。

体の傷の数々

前回見たように、高虎は特に若い時(但馬一揆戦の話は25歳位、四国攻めの話は数え30歳)には自ら前線へ出て活躍することが多かったようです。その分、負傷することも多く、様々な武勇伝が伝わっているのでしょう。

後の天正15(1587)年の九州攻め(数え32歳)でも、劣勢の味方を救うべく、僅かな兵だけで突っ込んでいくような働きをしています。

年を重ねるにつれ、高虎自身が出世して大軍を率いるようになったためか、徐々に武勇伝は少なくなります。しかし、若い時の無茶?のためでしょうか、高虎が亡くなった時には体に無数の傷があったと伝えられています。

寛永7(1630)年に高虎が亡くなり、沐浴をさせる際に体を見ると、鉄炮傷・槍の傷が至る所に見られました。また、右手の薬指・小指は切れており、爪もありませんでした。左手の中指も3㎝程短く、右足の親指は爪がありませんでした。手の指には豆が多くあり、これは戦場で馬の鞍を叩いていたからだと、生前に高虎が語っていたようです。

こんな話を聞くと、高虎がいかに苦労して、身の危険を顧みずに戦って、大名にまで上り詰めたのかが偲ばれます。

徳川四天王の本多忠勝は生涯かすり傷一つ負わなかったとされており、それもとんでもない武勇伝です。一方で、高虎も多くの傷と共に多くの武勇伝を持ち、まさに「戦国武将らしい」と言えるのではないでしょうか。

遺訓

最後に、そんな高虎の遺訓とされる200ヶ条の訓戒の中からいくつかを見てみましょう。この遺訓は、高虎が江戸で話した事を、寛文4(1664)年になって「太神朝臣惟直」という人物が思い出して書き残したとされています。

この人物はよく佐伯権之助惟直と言われていますが、佐伯権之助で「惟直」という名前の人物は確認されていません。更に、高虎の生前から寛文4年まで存命であった(=高虎から直接話を聞いて、寛文4年に書くことができた)佐伯権之助もいません。

ただ、この遺訓は佐伯家に伝わったものとされていること、佐伯氏は名前に「惟」の文字を代々用いていることから、佐伯氏の人物ではあろうと考えられています。

寛文4年当時の佐伯権之助は惟信という人物で、高虎に仕えた惟定の子・惟重の養子にあたります(生誕は高虎没後)。この惟信が「太神朝臣惟直」の可能性があります。つまり、惟信が惟直という名前であった時期があるかもしれないということです。

高虎から直接聞いて書いたという確証はありません。そのため、どこまでが本当に高虎が話した事かは不明です。ただ、本当に高虎が話した事であれば、書かれた時期は高虎が亡くなって34年後なので、ある程度は正しい内容で伝わっていたとも考えられます。

戦国を生き抜いた高虎だからこその訓戒ですが、現代にも通じるものもあります。では、5つほど内容を見ていきましょう。

※以下、遺訓の引用文は『宗国史』に掲載されているものによります。読点は適宜追加しました。

①寝屋を出るより其日を死番と可心得、かやうに覚悟極るゆへに物に動する事なし、是可為本意(1条目)

これは高虎の遺訓の中で最も有名ではないでしょうか。現代語訳すると、「朝、寝室を出る時から、その日に死ぬかもしれないと覚悟を決めておけ。そのような覚悟があれば、物事に動揺することは無い。そのようにありたいものだ。」です。

確かに、その日に死ぬかもしれないと思っていれば、それ以上に恐い事はなかなか無いでしょう。常に死と隣り合わせの時代を生き抜いた高虎らしい言葉です。

②召仕ものに能者、あしき者有間敷也、其人々々の得たる所を見立、それゝゝに召仕へは人に屑なきなり、得ぬ事を申付るによりて埒あかす、結句腹を立なり、是主人の目かあかさる故なり(14条目)

現代語訳すると、「召し使う者に良い者・悪い者はいない。その人その人の得意とする事を見極め、それに応じて召し使えば、人に屑はいない。得意でない事を命じるからうまくいかず、結局腹を立てることになる。これは主人の目が開いていない(=見る目が無い)ためである。」

大名にまでなって多くの家臣を抱えることになった高虎らしい考え方ではないでしょうか。一言で言えば「適材適所」ですかね。現代でもよく言われることです。誰でも得手・不得手があるから、主人たる者は家臣の長所を見極めて用いよ、ということですね。

③人のあつかひ事、同詫云に掛るましき事なり、首尾調はよし、不調時は結句身のひしに成事数度あり、是非無了簡頼まるゝ時は大かたに云、能時分を考へ可立退、うかゝゝと掛り居て及難儀事歴然なり(112条目)

現代語訳すると、「他人の(争いの)あつかひ事(=仲裁)や詫び言にかかわってはいけない。うまく進めばよいが、そうでない場合は結局自分のひし(災難)になることが多い。どうあっても分別無く頼まれた時は大体で話し、頃合いを見て立ち去るべきである。なんとなく関わってしまったら面倒な事になるのは当然である。」

これは高虎にそのような経験が多かったのでしょうか?高虎は大名になってからも寺院どうしの争いを仲裁するなどしています。また、幕府では徳川3代の信頼を得、幕府の中枢にかかわっていたので、他の大名から色々と頼りにされたかもしれません。そんな中で仲裁などを経験して、このような訓戒に至ったのかもしれません。完全に想像ですが。

④大事の聞書は文字ふとく可書、年寄て重宝なり、若キ内は細字にても読なれ共、年よりては不見故、詮なき事なり(121条目)

これは結構わかりやすいですね。現代語訳すると、「聞いた大切な事は文字を太く書き残すべきである。年を取ってから重宝する。若いうちは細い字でも読むことができるが、年をとってからは(細字では)見えない。これは仕方のないことである。」

年を取ったら細い字が読みにくくなるのは多くの人が経験することでしょう。しかし、この遺訓は高虎だからこそ、より重みを増します。

高虎は晩年(少なくとも65歳頃から)に視力が低下します。花押(かおう)という、手紙に書く自分のサインですら簡略なデザインに変更し、ついには花押も書けずに印鑑を使います(花押よりも印鑑の方が相手に対する礼の度合いが低い。つまり、花押の方が丁寧。)。

高虎は最後には失明したと言われているので、単なる老眼や近視ではなく、緑内障のような病気だったのかもしれません。視力が落ちていった高虎だからこそ、しっかりとした文字で書き残すべきという遺訓を残したのかもしれません。

⑤千石より上の侍は自身の働稀成へし、内の者に情をかけ、能者あまた持は用に可立、第一主人江の御奉公成へし(144条目)

現代語訳すると、「禄高が1000石以上の侍は、自分自身の働き(恐らくは、主に戦場での働き)は稀である。家臣に情をかけて、良い者を多く召し抱えていれば役に立つ。それが第一に主人への奉公になる。」

これもまさに高虎らしい言葉です。高虎も最初は家臣はおらず、自分一人で功績を挙げるところからスタートしました。出世とともに、徐々に家臣を持つ立場に変わって、家臣をいかにうまく用いるか・動かすかということを考える必要があったでしょう。

最初から大名の子(=既に家臣が多くいる)に生まれたわけでもなく、かといって一生下っ端で終わることもなく、戦国時代に成り上がって自身の立場が大きく変わった高虎が言うと説得力があります。

以上、前回と今回で高虎の武勇伝と高虎ならではの遺訓を見てきました。戦国時代には珍しくない武勇伝かもしれませんし、およそ真実らしからぬ話もあります。しかし、そんな武勇伝が伝わっていること自体、藤堂高虎という武将がただならぬ人物であった(少なくとも家臣や後世の人々は高虎をそのような人物と見ていた)ことを物語っているのではないでしょうか。

《参考文献》

  • 上野市古文献刊行会編『宗国史』上巻(同朋舎出版、1979年)
  • 上野市古文献刊行会編『高山公実録』上巻・下巻(清文堂出版、1998年)
  • 佐伯朗『藤堂高虎と家臣逸聞』(2020年)

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