時宗本山・清浄光寺(遊行寺)はどんなところ?2

神奈川県藤沢市にある時宗本山の清浄光寺。前回は一遍や2代真教の説明が長くなったので、境内の紹介が少ししかできませんでした。今回はその続きです。まだまだ多くの見どころがあります。

清浄光寺境内~中雀門から藤堂彦子の墓まで~

前回最後に書いた宝物館を出た後は、左前方にある中雀門へ向かいます。この門は、安政6(1859)年に紀州徳川家の徳川治宝によって建立された、と現地の説明板にあります。が、治宝は嘉永5(1852)年に亡くなっています。生前に建立を決めていたということでしょうか?

中雀門

勅使門(勅使=天皇の使者が来た時にだけ開門され、通行する)であるため、普段は閉まっていますが、現在は一部の行事の時に開門されているようです。

明治13(1880)年に清浄光寺の南西にある藤沢宿で大火が起こりますが、その際にも焼失を免れた、境内で現存最古の建物です。ただ、関東大震災では倒壊し、その後に補修して建て直されています。

中雀門を背にすると、左前方に鐘楼(その奥には本堂)が見えます。

鐘楼

ここの鐘には延文元(1356)年の銘文があります。南朝の後醍醐天皇の肖像画を所蔵する清浄光寺ですが、この鐘にある延文という年号は北朝の年号です(事実を書いただけで、因果関係があるのか等はわかりません)。

鐘は当時から現在まで清浄光寺にあるように思いますが、そうではありません。戦国時代の永正10(1513)年に後北条氏が小田原へ持ち去り、合戦の時の鐘として使用されました。更に別の場所に移された後、寛永3(1626)年に清浄光寺の檀家が取り戻し、再び清浄光寺に設置されました。

文化財が今に伝わるのは、これまで大切に守り伝えてきた人々のおかげですが、この鐘の辿った道を見ると、一層そのことがわかります。

鐘楼の南側には4基の墓石が並んでいます。その内、下の写真は中里理安・理益の墓です(3基の内の2基なのか、3基ともなのかは不明)。先程の鐘を清浄光寺へ取り戻した檀家というのは、この中里理安です。

中里理安墓石

上の写真の左端の墓石は、両側面に美しい彫刻が施されています(少しわかりにくいですが、下の写真)。

鐘楼の横から、本堂の左側の道を奥へ進みます。渡り廊下をくぐる手前、道の左側に南部茂時の墓があります。

南部茂時の墓

南部茂時は鎌倉幕府滅亡の時に、幕府に味方した武将です。茂時は鎌倉で自害しますが、家臣がその遺骸を清浄光寺へ運び、葬られました。なお、茂時は清浄光寺まで逃れてきて、家臣と共に自害したとも言われます。

どちらが真実かはわかりませんが、茂時の墓石(形式から、当時のものではなく、後世のものと思います)の両側には5基の宝篋印塔(ほうきょういんとう)があります。これは家臣のものかもしれませんね。

道を進んで、渡り廊下の下をくぐると墓地に出ます。まずは左奥にある宇賀神社に行きます。鳥居と小さな社があるところが宇賀神社です。

宇賀神社

ここに祀られている宇賀神は徳川氏の祖先・有親の守り本尊と言われています。有親は遊行寺12代目の尊観法親王の弟子となり、宇賀神を清浄光寺へ勧請(神様を迎え、祀ること)しました。現在の神殿は小さなものですが、これは明治13(1880)年に清浄光寺が焼失した時に神殿も焼失し、後に再建されたものです。

来た道を戻って、渡り廊下の下をくぐった所(墓地の入口)まで戻ります。ここに歴代上人の墓への案内表示があります。表示に従って墓地の奥(渡り廊下を背にすると、右奥の方)へ進むと、下の写真のように、階段を登った先に門が見えます。この門の奥に歴代上人の墓石が並んでいます。

歴代上人の墓

門は格子状なので、中は良く見えます、多数の大きな墓石が並んでいる景観は圧巻です。

門の前から階段を下ります。下りてすぐの右側(歴代上人の墓に向かって左側)、階段の横に藤堂彦子の墓があります。彦子は伊勢国久居藩主・藤堂高通の正室です。

なぜここで藤堂家の紹介?それは一応、私が藤堂家のことを詳しく調べているという、極めて自分勝手な理由です(笑)

藤堂彦子の墓

墓石の正面には「清光院殿雪嶺宗皎大姉」、右側には「慈父黒田悲母佐竹氏女」と刻まれています。

正面は戒名(法名)ですが、知られている戒名とは一部文字が異なります。墓石からはこのような、文献とは異なる事実がわかることがあります。実父は筑前国秋月藩主の黒田長興、母は佐竹氏の娘なので、右側の銘はそれを示すのでしょう。

伊勢国の藩主の妻の墓がなぜここにあるのか?説明板によると、42代の尊任上人と親交があったため、清浄光寺に埋葬されたとのことです。今ではなかなか考えられないことですが、当時は夫婦で別々の寺に葬られることは普通にありました。

清浄光寺境内~俣野大権現から酒井忠重五輪塔まで~

さて、墓まで来た道を戻って、本堂の前まで戻ります。

本堂の前にある一遍上人像のあたりから、本堂に向かって右側(東側)に入って行きます。その先には俣野大権現が祀られた小さな社があります。

俣野大権現

最初の清浄光寺の説明で書きましたが、清浄光寺は4代の呑海上人が開山で、呑海上人の実兄である相模国俣野荘の地頭・俣野景平が土地や堂を寄進して建立されました。この俣野景平は貞和年間(1345~50年)に亡くなり、後に俣野大権現として祀られました。

一遍上人像の前を通って、本堂前の大銀杏のあたりまで戻ります。そこから、境内の東の方(本堂に向かって右の方)へ行くと、境内から外(東)へ出る道があります。その道のすぐ横(南側)に、柵に囲まれた敵御方供養塔があります。あまり目立ちませんが、説明板があるので、それを目印にしましょう。下の写真を参考にしてください。

敵御方供養塔

柵の中にあり、あまり近付けませんが、「南無阿弥陀佛」と文字があるのは読めます。建てられたのは応永25(1418)年です。清浄光寺の中ではかなり古い石造物だと思います。約600年前ですからね。

応永23年、かつて鎌倉公方(室町幕府の職で、東国を治めるための鎌倉府の長)を補佐する関東管領を務めた上杉氏憲(禅秀)が反乱を起こします(上杉禅秀の乱)。氏憲は鎌倉公方の足利持氏と戦い、一時は持氏を鎌倉から追い出します。しかし、室町幕府は持氏を支持して援軍を派遣したため、翌年に氏憲は敗れました。

この供養塔が建てられたのは乱が鎮圧された翌年です。当時の14代の太空上人は、乱における負傷者を治療しました。また、この供養塔を建立し、戦没者を敵味方の区別無く供養しました。

敵御方供養塔の下(北側)の道を挟んで境内の奥(北)へ向かいます。左側には多くの石造物群が並んでいます(下の写真)。

石塔群

この石造物群の先に六地蔵があります。写真では7体ありますが、一番左の1体は六地蔵ではありません。この六地蔵は酒井忠重が自身の逆修(生前にあらかじめ自身の供養をしておくこと)のため、万治3(1660)年に造立したものです。

六地蔵

酒井忠重は出羽国鶴岡藩主酒井忠勝の弟で、境内のこの付近にあった常念仏堂建立の際に資金を寄進しました。39代の慈光上人は出羽国最上の出身であったため、同じ出羽国の酒井家の忠重と関係があったと考えられています。

左から3番目の地蔵の背中には「萬治三庚子歳十一月十五日/右六地藏之尊容者為逆修調刻之/所令寄進也」・「施主 酒井長門守忠重敬白」等と刻まれています(/は改行箇所を示します)。六地蔵の横の説明板には「一月十五日」とありますが、「十一月十五日」の誤りです。

六地蔵の横には大きな五輪塔があります。これは先程の六地蔵を建てた酒井忠重の墓です。身長よりもはるかに大きな五輪塔です。

酒井忠重五輪塔

地輪(球状の石の下にある四角い石)の右側に寛文6(1666)年の銘文があります。地輪の裏側には「酒井長門守忠重」と、忠重の名が刻まれています。前述のように忠重は清浄光寺の上人と関係があったからか、清浄光寺に葬られています。

清浄光寺境内~堀田氏墓から小栗満重・照手姫等の墓まで~

酒井忠重の五輪塔の所から本堂の右を通って奥(北)へ道を進んで行きます、と行きたいところですが、すぐにストップ。本堂の真横辺りまで来たら、右側の墓地へ上りましょう。墓地の少し奥に、わかりにくいですが、堀田氏の墓石が並んでいます。

堀田氏の墓

ここには左から順に、堀田正盛室・阿栗、堀田正盛、堀田正利室・萬、堀田正利の供養塔が並んでいます(墓は別の寺にある)。なお、堀田正仲の墓もあるようです。

堀田正利は織田信長・浅野長政・小早川隆景・同秀秋に仕え、関ヶ原の戦いの後に徳川氏に仕えました。正利の妻・萬は稲葉正成の娘で、春日局(正成の後妻)の継子です。

堀田正盛は正利の長男で、母は萬です。徳川家光に仕え、老中となりました。また、武蔵国川越藩主、後に信濃国松本藩主、下総国佐倉藩主となりました。慶安4(1651)年に家光が亡くなると、家光に殉じました。妻は酒井忠勝の娘・阿栗です。

この4基の供養塔は堀田正俊(正盛の子)等が延宝5・9(1677・81)年に建てました。ただ、菩提寺とは別に清浄光寺に供養塔を建てた理由はわかっていないようです。

墓地から道へ戻って、今度こそ先へ進みます。終点まで行くと、坂の先に長生院があります。敷地に入って左側に小栗堂があります。

小栗堂

この小栗堂の左(写真の木々の左)から細い通路を奥へ進むと、小栗堂の真横の辺りで右に小さな門があります。門の中へ入って堂の外周に沿って進んでいくと、説明板(文字が消えかかっているが…)があります。

説明板

この説明板は小栗満重と家臣の墓についてのものです。満重と家臣の墓はこの説明板の右奥にあります。

小栗満重の墓
家臣等の墓

中央の宝篋印塔が満重、左右の計10基の宝篋印塔(厳密には一部の部材は五輪塔のもの)が家臣のものでしょう。

小栗氏は平安時代の終わりから常陸国小栗の地を治めた一族です。満重は14代目にあたりますが、応永30(1423)年に戦いに敗れて、子・助重と家臣10人と共に一族がいる尾張国を目指して落ち延びました。

その途中、藤沢周辺にあった横山大膳の館で酒宴の最中に、家臣10人は毒殺されました。その後、清浄光寺の8代太空上人が遺骸を清浄光寺の境内に埋葬しました。

なお、一緒に落ち延びた子の助重は照手姫(後に助重の妻となる)の助けによってこの難を逃れました。そして、嘉吉元(1441)年に室町幕府のもとで戦功を挙げ、常陸国小栗の地に復帰しました。助重は清浄光寺に父・満重と家臣等のためにこの地に墓石を建てたと伝わります。

※インターネットの情報では、満重は落城時に自害したとも、逃れたとも言われています。また、家を再興して照手姫と結婚したのは助重ではなく満重自身との情報もあり、どれが有力な説なのかはわかりませんでした。上記の経過は清浄光寺の説明板・ホームページによります。

説明板の左の方には照手姫の墓もあります。

照手姫の墓

以上が清浄光寺境内の紹介です。ここまで書いておいてなんですが、清浄光寺のホームページはとても詳細で、境内図や各見どころの説明等が詳しく掲載されています。お出かけの際はホームページも事前に見ておくとよいと思います。

境内は、普通に見れば1時間~1時間半もあれば回ることができると思います。

清浄光寺へのアクセス(電車)

最後に、清浄光寺へのアクセスですが、電車を使うルートを紹介します。

東海道新幹線を利用する場合は、小田原駅か新横浜駅下車になります。小田原駅はのぞみが停車しませんが、小田原駅から藤沢駅までは東海道線で一本で行けます(35分前後)。

のぞみが停車する新横浜駅からは途中乗換が必要です。新横浜駅から横浜市営地下鉄で横浜駅まで行き、横浜駅からは東海道線で藤沢駅まで行けます。こちらも乗換を含めて35分前後です。

藤沢駅からバスの場合、清浄光寺のホームページ(最終閲覧:令和7年2月18日)では、藤沢駅北口4番又は5番のりばから「戸塚バスセンター行」「大船駅西口行」に乗り、「藤沢橋」下車とあります。

徒歩の場合は約15分です。藤沢駅から空中通路を北の端まで行ってから下の道に下り、更に北へ歩いて行きます。道が右へカーブした先の交差点(遊行ロータリー交差点)を左折します。2つ目の信号交差点(藤沢橋交差点)を過ぎたら一つ目の角を右へ曲がると、すぐに遊行寺橋(下の写真)があります。

遊行寺橋

この橋を渡り、道を先へ進むと、間もなく清浄光寺の惣門に着きます。それほどアップダウンのある道ではないので、歩いても十分に行けます。

※記事の内容は令和7年1月時点のものです。

《参考文献》

  • 『日本史広辞典』(山川出版社、1997年)
  • 今井雅晴『捨聖一遍』(吉川弘文館、1999年)
  • 『国宝一遍聖絵と時宗の名宝』(京都国立博物館特別展図録、2019年)
  • 清浄光寺のパンフレット
  • 清浄光寺のホームページ(最終閲覧:令和7年2月18日)

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