時宗本山・清浄光寺(遊行寺)はどんなところ?1

神奈川県藤沢市の清浄光寺。鎌倉時代に踊念仏で有名な一遍に始まる時宗の本山です。

実は創建したのは一遍ではなく、4代目の上人の時です。そんな清浄光寺はどんな寺院なのでしょうか?今回と次回は、そんな清浄光寺の境内や文化財を紹介したいと思います。併せて、開祖一遍・2代他阿真教についても簡単ですが紹介します。

一遍と踊念仏

一遍は学校でも歴史(日本史)で習う、時宗を開いたとして超?有名な人物ですね。

一遍は延応元(1239)年に伊予国の道後地域(現在の愛媛県松山市)で生まれました。この地の豪族・河野氏の一族です。祖父・河野通信は壇ノ浦の戦いで源氏の水軍として活躍しました。

一遍が10歳の時、母が亡くなります。母を失ったことにより、一遍の父・通広は一遍を出家させることにしました。一遍は父がかつて学んだ僧のもと、九州で学ぶこととなります。

しかし、弘長3(1263)年に父が亡くなったことにより故郷に帰ります。そして還俗(出家をやめること)し、結婚して子どもも生まれました。

その後、文永8(1271)年に再び出家します。善光寺に参詣する等した後、伊予国に戻って念仏三昧の日々を過ごします。

3年ほど経った文永11年、一遍は所有財産を全て放棄し、一族と別れ、念仏を勧める遊行の旅に出ます。旅の中では人々に「南無阿弥陀佛 決定往生六十万人」と書かれた念仏札を配りました。

最初に念仏札を配ったのは大坂の四天王寺でした。ここから高野山を経て熊野へ向かいますが、この道中、一遍はある僧侶と出会います。

一遍はこれまでどおり、この僧侶にも念仏札を渡そうとします。しかし、僧侶は「信仰心が起きないので、受け取れない」と言って断ります。押し問答の末、一遍は無理矢理念仏札を渡してしまい、このことで苦悩します。

そして、熊野権現にすがるため、熊野本宮大社を訪れます。そこで熊野権現から「人々はあなたの勧めで往生できるのではない。往生は南無阿弥陀仏と称えることによってできるのである」と告げられます。

一遍は、自分が念仏札を人々に渡すことで(一遍の活動によって)人々が往生できると考えていましたが、そうではなく、往生するためには南無阿弥陀仏と唱えることが必要だったのですね。時宗ではこの時を立教開宗の時としています。

建治2(1276)年、九州で他阿真教(一遍の跡を継いで2代目となる)と出会って同行を許してから人数が増え、「時衆」が形成されていきました。「時衆」とは昼夜に念仏を称える(となえる)集団の呼称として、当時使用された言葉です。

一遍が有名な踊念仏を始めたのは信濃国佐久(現在の長野県佐久市)です。当初、踊念仏は意図的ではなく、自然発生的に始まったとされています。その後も一遍は、北は東北から南は鹿児島まで、全国をめぐり歩きました。

そして、正応2(1289)年、神戸(現在の兵庫県神戸市)の観音堂で亡くなりました。51歳でした。

2代・他阿真教

時宗で一遍の跡を継いだのは2代上人の真教(他阿真教)です。この真教により教団が確立していきます。一遍に出会うまでの前半生は不明です。建治2(1276)年、九州で一遍に出会って最初の弟子となり、共に全国を遊行しました。

真教は一遍の没後に時衆と共に山で念仏を称えながら臨終を待とうとしました。しかし、淡河(現在の神戸市)の領主・淡河氏が真教のもとを訪れ、真教に念仏札の結縁を請います。真教は拒もうとしますが、拒み切れずに念仏札を渡します。このことにより、真教は時衆の再編を決意しました。

真教は一遍と同様に遊行しますが、関東甲信越が中心でした。その中で各地に道場(寺院)を建立し、教団の基盤を作りました。道場の数は100ヶ所以上にのぼり、各地の道場の統制と教化のために「道場誓文」を作っています。

その後病を患った真教は嘉元2(1304)年、当麻道場(現在の神奈川県相模原市)に住みます。そして量阿智得に遊行の地位を譲ります。この時に、「他阿弥陀仏」の号を量阿智得以降の代々の遊行上人に継承することとします。

これらのことから、真教は事実上の教団の開祖とされています。

文保3(1319)年、真教は当麻道場で83歳で亡くなりました

清浄光寺の創建

神奈川県藤沢市の清浄光寺(遊行寺)は時宗の本山で、正式には藤澤山無量光院清浄光寺という名称です。

本山ですが、実は一遍や真教が創建した寺ではありません。創建は正中2(1325)年で、開山は4代の呑海上人です。呑海上人の実兄である相模国俣野荘の地頭・俣野景平が土地や堂を寄進して建立されました。

建立当初の寺院名は清浄光院でした。延文元(1356)年時点でも清浄光院の名称でしたが、南北朝時代に後光厳天皇(在位:正平7~応安4、1352~71)より清浄光寺の寺名の額を賜っています。

創建後は火災・兵火で度々焼失します。戦国時代の永正10(1513)年に北条早雲・三浦義同の戦いで焼失した後、復興するのは慶長12(1607)年です。そして、寛永8(1631)年に江戸幕府から清浄光寺は時宗総本山として認定されます。総本山となったのは意外に遅いようです(創建から約300年)。

清浄光寺境内~惣門から宝物館まで~

前置きが長くなりましたが、ここからが清浄光寺の境内の紹介です。宝物館を除いて境内の拝観料は不要なので、特に受付等もありません。

ただ、受付が無いので、パンフレットもありません。その代わり、清浄光寺のホームページにはパンフレットが掲載されています(ホームページ自体もかなり詳しい)。行く前にこれらを見てから行くとよいと思います。

初めに見えて来るのは惣門です。惣門は境内の南の端にあります。旧東海道の遊行寺橋から少し北に行ったところです。

遊行寺橋  奥の道のカーブの先が清浄光寺惣門
惣門

惣門をくぐると、いろは坂を登ります。写真は冬ですが、清浄光寺のパンフレットの写真では、春には両側の桜並木が咲いていて、とても美しい光景です。

いろは坂

いろは坂の石段は阿弥陀如来の四十八願(阿弥陀如来が仏となる以前にたてた48の願い)に例えて四十八段と呼ばれています。48という文字数から、いろは坂の名で呼ばれています(但し、「いろは」は47文字)。

いろは坂を登りきったところには山門跡があります。

山門跡

ここには明治13(1880)年に焼失した仁王門がありました。現在は両側に門柱のようなもの?があります。左右両端の地面には、四角い穴の空いた石が並んでいます。私見ですが、これは元々の門の礎石ではないでしょうか。四角い穴の部分に門の柱を立てたのだと思います。

山門礎石

礎石の間隔もまずまずあり、大きな門であったことが窺えます。

続いて見えてくるのは大銀杏です。いろは坂を登りきって目の前に(本堂よりも目立って?)見えて来て、その巨大さからとても目立ちます。

大銀杏

樹齢ははっきりしていませんが、少なくとも250年は経過しているようです。元々はもっと背が高かったのですが、昭和57年の台風により、地上6mのところで折れてしまったそうです(それでも十分大きい)。

大銀杏の右側を奥へ進むと(既に見えていますが)大きな本堂が見えてきます。本堂の少し手前の右側には一遍上人像があります。

一遍上人像

諸国を歩いて念仏を広めたのを象徴するかのように、合掌して念仏を称えながら、今にも歩き出しそうな姿です。

さて、本堂ですが、現在の本堂は昭和12(1937)年の再建です。中には本尊である、煌びやかな阿弥陀如来坐像が安置されています。

本堂

次に本堂から少し戻り、大銀杏の前を通って、境内の左手の方にある宝物館に向かいます。すぐに宝物館へ入りたいところですが、入口ドアの左に一つの石があります。これは江の島道入口鳥居の沓石(くついし)です。沓石は、鳥居の根元にあり、鳥居の下端をはめ込む形の石です。

江の島道入口鳥居の沓石

この鳥居は、最初のところで写真を載せた遊行寺橋の西詰にありましたが、明治30(1897)年頃に撤去されました。沓石は残りましたが、後の道路拡張時に地元の人々が清浄光寺へ運んだと伝わります。

地元の人々が、この地に長らくあった鳥居の痕跡を留めようとしたことがわかります。鳥居は残っていませんが、当時の人々の努力により、現在も鳥居の面影を感じることができます。

では、宝物館に入ります。・・・が、館内は当然ながら撮影禁止なので、写真はありません。

宝物館

清浄光寺には一遍や真教の肖像画、後醍醐天皇の肖像画、鎌倉~江戸時代の仏教絵画、南北朝時代の天皇の綸旨(天皇の命令を伝える文書)、室町将軍・今川義元・武田信玄の書状等の貴重な文化財が所蔵されています。

後醍醐天皇の肖像画は歴史の教科書や資料集でもよく見る肖像画です。実は清浄光寺所蔵なのです。

ただ、これらの文化財は常時展示されているとは限りません。清浄光寺のホームページでは、宝物館の企画展示で展示される文化財一覧が掲載されていることもあります。よろしければ確認してみてください。

少し中途半端になりましたが、境内はまだまだ見どころが多いので、続きは次回です。

《参考文献》

  • 今井雅晴『捨聖一遍』(吉川弘文館、1999年)
  • 『国宝一遍聖絵と時宗の名宝』(京都国立博物館特別展図録、2019年)
  • 清浄光寺のパンフレット
  • 清浄光寺のホームページ(最終閲覧:令和7年2月11日)

コメント

タイトルとURLをコピーしました