前々回・前回は三重県の最南端地域にある戦国時代の京城、豊臣時代の赤木城を紹介しました。
今回紹介するのは、そこから三重・和歌山県境の熊野川を隔ててすぐの和歌山県新宮市にある新宮城です。
京城で技術的には未熟な石垣や枡形が見られ、豊臣氏の技術で築かれた赤木城ではそれらが発達した姿が見られました。
江戸時代に入って築かれた新宮城では、それらが完成形に達した姿を見ることができます。それは多くの人々がイメージする城の姿です(但し新宮城には建物は残っていない)。
見慣れた城かもしれませんが、改めて京城・赤木城とも比較しながら見ていきましょう。
新宮城の歴史
新宮城があるのは和歌山県新宮市です。三重県と和歌山県の県境を流れる熊野川に面した丘の上にあります。
国道42号線で熊野川を渡ってすぐの交差点を左折して少し進むと、左手に城跡が見えてきます。JRの跨線橋を渡ってすぐに左へ入ると(後掲のマップの公園入口②の所)、坂を上った所に駐車場があります。JR新宮駅からの場合でも徒歩10分程で到着するので、アクセスは悪くありません(JRの列車の本数は少ないですが)。
現在の新宮城が築城される前にも、この丘には館があったという説がありますが、現在の新宮城が築かれたのは関ヶ原の戦いの後です。
それ以前にこの地域で支配権を持っていたのは、京城でも登場した堀内氏善です。堀内氏の新宮城は現在の新宮城とは別の場所にありました。氏善は慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いで西軍に味方して没落し、代わって紀伊国には浅野幸長が入ります。
浅野幸長は浅野忠吉を新宮に配置し、忠吉は新宮城の築城を開始します。慶長19年の大坂の陣の際には、三重県側の北山地域(赤木城の北方)で起こった一揆が新宮城を攻撃しています。
大坂の陣で豊臣氏が滅亡した後、元和元(1615)年に一国一城令が出され、新宮城は一旦廃城となります。しかし、元和4年には再び築城が始まります。
翌年に一旦完成しますが、同年に浅野氏は安芸国広島へ転封となり、代わって御三家となる徳川頼宣が紀伊国に入ります。新宮へは幕府から頼宣に付属させられていた水野重仲が入ります。
水野氏は更に築城を行い、寛永10(1633)年に完了しました。寛文7(1667)年には増築工事が開始され、近世城郭としての新宮城は完成に至りました。
江戸時代は水野氏の居城として城下町も備えていましたが、明治維新後の明治3(1870)年の廃藩置県により廃城となります。同8年までには本丸・鐘ノ丸の建物は解体され、堀も埋められたようです。
新宮城の遺構
現在の新宮城には建物は残っていませんが、石垣等の遺構がよく残っています。全体図は下図(駐車場へ上る道にある説明板の所に設置されているパンフレットより引用)のとおりです。

現在残っているのは、本丸、本丸北の出丸、本丸西の鐘ノ丸、鐘ノ丸北の松ノ丸が主です。これらの曲輪には石垣もよく残っています。
大手道(城の正面入口に向かう道)は城の西側にありましたが、現在は民家等で途中までは無くなっています。現在の入口は駐車場から城へ上る(駐車場へはマップにある公園入口②から入る)か、駐車場入口よりも西方にある保育園の手前(マップにある公園入口①)から上るかの2通りです。保育園手前から入ると、途中でかつての大手道と合流できるので、こちらからが正規ルートです。
では、実際に城の様子を見ていきましょう。
保育園手前の入口から入る前に、入口を通り過ぎて保育園沿いまで行きます。この保育園の場所がかつての二ノ丸で、歩道から石垣を見ることができます(中には入れません)。
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保育園手前の入口から階段を登っていくと、やがてかつての大手道と合流します。
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大手道を上っていくと、松ノ丸入口の西門跡に着きます。この辺りから上を見ると、立派な石垣を見ることができます。まさに江戸時代の城のイメージそのものです。
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松ノ丸は東の端まで行くと、谷を挟んで本丸の方を望むことができます。
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また、熊野川の方を見ると、城の下のトンネルを通って川の方へ抜けているJRの鉄橋を見ることができます。
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松ノ丸の南側には鐘ノ丸へと上る門跡があります。枡形は京城・赤木城でも登場したものです。おさらいすると、枡形とは、敵が直進できないように、一旦左か右に曲がらせている部分です。↑ ← ↑の順に進む感じです。
ここは直角に曲がる綺麗な枡形になっています。京城では不完全であった枡形が赤木城では明確に曲がっており、新宮城ではしっかりと直角に曲がっています。京城・赤木城とも比較してみましょう。

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ここで石垣も見てみましょう。赤木城から更に技術が進歩した石垣になっています。赤木城ではまだ自然の形がいくらか残った石も用いて、隙間には小さな石を詰めていました。この積み方は、不完全かもしれませんが打込接(うちこみはぎ)といいます。
江戸時代になって築かれた新宮城では、石を加工して、殆ど隙間が無いように積まれています。この積み方は切込接(きりこみはぎ)と言います。
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3つの城を比較することで、石垣技術の進歩を見ることができます。
枡形を通った先の鐘ノ丸は広場のようになっています。かつては北西・南西・南辺中央辺りに3ヶ所の櫓がありました。
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鐘ノ丸を東の方へ進むと、天守台の下(西側)に着きます。この辺りから熊野川の方を見下ろすと、下の方に水ノ手曲輪が見えます。水ノ手曲輪には城の港や炭の倉庫の跡があります。
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この辺りからは天守台を見上げることができますが、すぐにたどり着くことはできません。城は、簡単に本丸や天守台に行くことはできず、遠回りをさせられることになります。ここでもまずは東に進んで本丸に入ります。
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本丸の北東部分からは北側にある出丸が見えます。現在は出丸へ渡ることはできませんが、江戸時代には本丸と橋でつながっていたようです。
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この辺りからは熊野川上流方向を望むことができます。もし上流から攻め下ってくる軍勢がいた場合、城からはその姿が一目瞭然です。
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本丸の東角付近には搦手(からめて)があります。搦手とは城の裏口のことです。表口は大手です。ここも堅固な石垣で固められています。
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この東角の櫓のところには丹鶴姫の碑があります。
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丹鶴姫とは?
熊野三山(本宮大社・速玉大社・那智大社)を支配していた熊野別当9代の殊勝が現在の新宮城の場所に別邸を設けました。11代別当の快真は屋敷を築いて、以後は代々の居住地となりました。
平安時代の末、この地に住んでいた熊野別当の娘のもとへ、源為義(源頼朝の祖父)が通い、1男1女が生まれました。この内の女子が丹鶴姫と呼ばれた人です(頼朝のおばにあたる)。姫は19代別当の行範に嫁ぎました。
以降、現在の新宮城がある丘は丹鶴山と呼ばれるようになりました。新宮城の別名も丹鶴城といいます。
続いては本丸の南の端にある天守台跡です。
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天守台跡の端(上の写真の右奥)の石垣の中には、石を割る時にできる矢穴(やあな)がはっきりと残っている石があります。下の写真(右)の矢印の先に点々とある一直線の穴が矢穴です。
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天守台からは遥かに城下から熊野灘までを望むことができます。江戸時代の眺めもこんな感じだったのでしょうか。
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現在は天守台の端に階段があり(もちろん江戸時代には無い)、下の曲輪へ下りることができます。下りてから天守台の東側へ回り込むと、赤木城でも見た横矢掛かりを見ることができます。
赤木城と比べて見ると、ここでも石垣の差がはっきりとわかります。
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先ほど天守台から下りたあたりから、更に下の駐車場へ下りることができます。これで新宮城をひと通り見たことになります。
最後に、もう一度駐車場から下の道路へ出てみましょう(そもそも最初にこれを見ても良いのですが)。道路へ下りて右(最初に城へ入った入口がある方向)へ曲がります。少し行くと、JRの線路の上を通る橋があります。
ここでJRの線路を見てみましょう。線路はトンネルで新宮城の下へ入って行きます。
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トンネルや熊野川の鉄橋の位置からすると、線路はちょうど、先程まで見ていた本丸の真下あたりを通っていることになります。江戸時代の城の下を通る鉄道トンネルは日本で唯一です。
地上で城を分断して線路が通っていると残念ですが、トンネルであれば景観をそれほど損なわないので、良い共存なのでしょうか。
以上が新宮城跡です。赤木城と同様に、新宮城も駐車場が整備され、初心者でも余裕で見学することができます(但し、階段を上るのは大変です)。トイレは天守台の下にあり、駐車場には無いので注意です。
赤木城のような各所の説明板はありませんが、駐車場へ上る道に設置されているパンフレット(新宮市観光協会ホームページ掲載のパンフレットでもよい)を見ながら見学すると良いと思います。
さて、前々回から今回まで戦国時代の京城、豊臣時代の赤木城、江戸時代の新宮城を見てきました。新宮城は石垣や枡形など、城郭の完成形と言える段階です。最初の京城跡と比べると、同じ「城」でも時代によってここまで違うのか?と思いませんか?戦国時代から江戸時代初めまで、100年も経たないうちに、ここまで築城技術が進歩したのです。
東紀州地域ではそれほど遠くない所で、3つの時期の城を見ることができます。宿泊が必要になりますが、朝から回れば、3つの城を1日で回ることも可能です。ぜひ、3つの城を自分の目で見て、比べてみましょう。
※記事の内容は令和7年3月時点のものです。
《参考文献》
- 『日本城郭大系10 三重・奈良・和歌山』(新人物往来社、1980年)
- 新宮城に設置されているパンフレット・新宮市観光協会ホームページ掲載のパンフレット
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