桑名・熱田の七里の渡しと争った四日市・熱田ルート~十里の渡し~

東海道五十三次の中で唯一の海上ルートとされる七里の渡し(熱田⇔桑名)。しかし、熱田を発着する海上ルートには「十里の渡し」というものもありました。これは熱田と四日市と結ぶルートでしたが、桑名を飛ばしたため、桑名と四日市の争いが起こります。十里の渡しとはどのような歴史をたどったのかを見ていきます。

※熱田は、宿場名としては「宮」ですが、以下ではなじみのある「熱田」と表記します。

七里の渡し(桑名⇔熱田)

慶長6(1601)年、徳川家康は江戸・京都間の東海道の宿駅を定めます。七里の渡しの発着点である桑名と熱田も宿駅です。

七里の渡しは、東海道の中で桑名と熱田(現在の三重県桑名市と愛知県名古屋市)を結ぶ海上ルートです。現在も桑名城の近くと熱田神宮の近くには七里の渡し跡があります。

桑名・七里の渡し跡
熱田・七里の渡し舟着場跡

桑名・熱田の間には木曽三川があり、陸路でこれらを渡るよりも海上ルートの方が便利であるため、七里の渡しが利用されたと言われます。

十里の渡し(四日市⇔熱田)

しかし、海上ルートが便利となると、桑名を飛ばして熱田・四日市(現在の三重県四日市市)間を船で行くルートも使われます(宿駅の位置順は熱田→桑名→四日市)。これが十里の渡しです。

慶長6(1601)年に徳川家康により、四日市・熱田間の十里の渡しルートが認可されたのが、正式な十里の渡しの誕生です。

江戸・京都間の街道は東海道・中山道だけのように思いますが、陸路でも途中で分岐・合流するルートがありました。例えば七里の渡しと同じく桑名と熱田を結ぶ陸路の佐屋路や、浜名湖の北を回る本坂道、熱田から分岐して中山道へ向かう美濃路などです。

四日市・熱田間の十里の渡しは、桑名・熱田間よりも距離が延びますが、運賃は僅かに高くなるだけで、時間は陸路よりも早かったようです。四日市の人々は、熱田へ船で荷物を運んだ帰りに、人を乗せて四日市に戻ることをやっていたようです。

桑名・四日市の間を歩かなくていいし、早く着いて運賃もあまり変わらないとなれば、十里の渡しを選びますよね。

そして、当然ながら十里の渡しを使うと桑名を通りません。つまり、桑名に来るお客が減るわけです。当然、桑名は黙っていません。

桑名VS四日市(第1回戦)

桑名は延宝2(1674)年と天和2(1682)年に幕府の道中奉行へ、四日市・熱田間の船に人を乗せないように訴え出ます。しかし、この訴えは却下されます(訴訟扱いしてもらえない)。

享保9(1724)年、四日市が幕府領(天領)から大和郡山藩領になったのをきっかけとし、寛保2(1742)年になって桑名は再び道中奉行に訴え出ます。四日市が幕府領でなくなると、幕府の四日市に対する考え方が変わり、桑名に有利になると考えたのでしょうか?

この時の道中奉行の調べでは、桑名・熱田間と四日市・熱田間の渡船の比率は5:1だったようです。四日市分が多いのか少ないのか、何とも言えませんが、桑名にとっては多かったのでしょう。しかし、桑名は敗訴してしまいます。

桑名VS四日市(第2回戦)

その後も桑名は何度も訴訟を繰り返しますが、訴えを取り上げてもらえません。そこで、寛延3(1750)年の訴えでは、桑名は訴訟内容を変えます。四日市・熱田間の船による人の輸送を禁止するのではなく、桑名に予約があった分(予約を行うのは、主に大名)はきちんと桑名を通るようにしてほしいと言うのです。

また、荷物の取扱いについても、桑名経由の予約であったのに、急に十里の渡しを使われると、人馬・船を準備しても無駄になります。荷物も同様に、予約があった分は桑名を通すように要求します。

この結果、桑名予約であったのに十里の渡しを使うという場合は、旅人本人と四日市・熱田の宿場の役人から桑名へ、キャンセル連絡をすることに決まります。これを桑名・四日市・熱田の3宿が承諾します。ただし、キャンセル連絡が間に合わなかったり、人馬・船の準備をした後に連絡が来たりと、桑名にとってもあまり良い内容ではありませんでした。

今でも、準備しておいたのに当日キャンセルされたら困りますよね。

桑名VS四日市(最終戦)

しかし、この判決は守られず、桑名は宝暦2(1752)年にまた訴え出ます。この訴訟では、キャンセル連絡のルールが守られていないとして四日市・熱田が罰金を課されます。

実は桑名は、キャンセル連絡があっても、連絡が無かったことにして(虚偽)訴え出ていた事例があったようで、桑名も罰金処分となります。逆に言えば、それだけ桑名は何とか打開したかったのでしょうね。

この後はルールが守られたのか、桑名が幕府へ訴え出ることは無くなったようです。しかし、当日キャンセルは相変わらず可能であったでしょうし、人馬の準備後にキャンセル連絡が来ることもあったでしょう。そのあたりはどのように対処したのでしょうか?これは調べてもわかりませんでした。

当時の宿駅制度(交通制度)では、宿駅の人々の経営よりも、人や荷物の行き来が優先されたと言われています。四日市・熱田間を直行する方が人や荷物にとって便利であれば、桑名の経済的な打撃は仕方ない、といったところでしょうか。

現代でも高速道路や新幹線で便利になる反面、それまで多くの人が通っていた地域が寂れることがあります。便利さの影には、そのような地域もあることを忘れないようにしたいものです。

《参考文献》

  • 『新修名古屋市史』第4巻(名古屋市、1999年)
  • 『三重県史』通史編近世2(三重県、2020年)

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