プロ野球で沢村賞という賞を聞いたことがあるでしょうか?優れたピッチャーに与えられる賞で、現在も続いています。この沢村賞の由来となったのが、戦前のプロ野球選手でピッチャーの沢村栄治です。今回は沢村栄治の出身地・三重県伊勢市に残るゆかりの地を訪ねます。
※私は野球には疎いので、あくまで歴史の面で書きます。野球に関してはあまり詳しく書けません。悪しからず…。
沢村栄治の活躍
沢村栄治は大正6(1917)年2月に三重県宇治山田市(現在の三重県伊勢市)に生まれました。地元の明倫尋常高等小学校に在学していた時に野球を始めました。
登下校時にはゴムまりを握って握力を高め、放課後は塀に的を書いて投げ込み練習を行っていました。将来は優秀なピッチャーになっていますが、それは子ども時代からの地道な練習があったからなのでしょう。
後に京都商業学校へ進学します。子どもの頃からバッテリーを組んでいた人は、沢村の球を受け続けた結果、生涯指が変形したままだったらしいです。これは光栄と言ってよいのかどうなのか…(野球をする人にとっては光栄なのかもしれない)。
昭和9(1934)年、京都商業学校を中退します。そして全日本選抜軍に入り、アメリカの大リーグ選抜チームと対戦します。日本チームは16戦全敗だったようですが、その中で沢村は有名なベーブ・ルースから三振を奪うなど、活躍しました。
全敗ということは、それだけ日米の力量に圧倒的な差があったことになります。その差がある中で、有名なベーブ・ルース(←野球に疎い私でも名前を聞いたことがある)から三振を奪うというのは、当時としては画期的だったことでしょう。
そして、同年(昭和9年)に大日本東京野球倶楽部(現在の巨人)に入団します。2年後の昭和11(1936)年にはプロ野球初のノーヒットノーランを達成します。今でも時々、ノーヒットノーラン達成をニュースで聞きますが、沢村が初めてだったんですね。その翌年には最高殊勲選手に選ばれました。
戦争と召集、活躍の終焉
しかし、この頃には日本は次第に戦争への道を進んでいました。
沢村14歳の昭和6(1931)年には既に満州事変が勃発していました。そして沢村がノーヒットノーランを達成した翌年の昭和12(1937)年には日中戦争が始まりました。
沢村にも戦争への召集の時が訪れます。日中戦争が始まった翌年の昭和13(1938)年1月に召集され、早くも4月には中国へ行くこととなります。そこで手榴弾を投げ過ぎたことで肩を壊し、戦闘で銃弾が左手を貫通して負傷します。
しかし、昭和15(1940)年には満期除隊となり、日本に帰ります。帰国後は再びピッチャーとして復帰しますが、翌年に再び召集されます。この年は日米が開戦した年です。
昭和18(1943)年に再び復員し、またまたピッチャーとして復帰します。しかし、長くは続かなかったようで、同年10月24日が最後の試合となりました。最後の試合はピッチャーではなく代打での出場であったというのも、ピッチャーとしての選手生命の終焉を感じさせます。そして、翌年2月に巨人を解雇されます。
解雇から8ヶ月後の10月に3度目の召集となります。そして12月2日、フィリピンへ向かう途中、乗っていた輸送船が撃沈されて亡くなりました。享年27歳という若さでした。
日本が敗戦を迎えるのはそれから8ヶ月半後です。あと1年早く戦争が終わっていたら沢村が亡くなることは無かったかもしれません。そして、選手人生は既に終えていましたが、別の形で野球界で活躍していたかもしれません。
沢村が野球人生を早く終えたのは最初の召集での負傷が大きな原因ではないでしょうか?そう考えると、戦争が人間の人生を大きく変えてしまうことを改めて感じます。
沢村栄治の生家跡
さて、ここからは沢村の地元・三重県伊勢市に残るゆかりの地をめぐっていきます。
まず沢村の生まれた場所です。そこは近鉄宇治山田駅からほど近い所です。駐車場は無いので、車の場合は駅周辺の有料駐車場を利用しましょう。
駅を降りると、ロータリーがあります。ロータリーの北側を大通り沿いまで出たら南へ横断歩道を渡ります。渡った所(植え込みの所)に沢村栄治の銅像があります。
この銅像は令和元年に造られたようで、銅像の下には年表も取り付けられています。
銅像から南へ歩道を歩き、横断歩道を渡ります。ここで大通りの反対側を見ると、アーケードの明倫商店街(閉まっている店が殆どですが)の入口があります。入口には「澤村榮治生誕の街」という看板が掲げられています。
余談ですが、商店街入口の少し左に蜂蜜ぱんじゅうの店があります。恐らく蜂蜜が入った生地で作られた饅頭で、青のり?が少しかかっています。1個100円で、なかなかおいしかったです。
話を戻します。先程の看板がある所から商店街に入ります。道は途中がクランクのように曲がっていますが、一本道なので、そのまま進み、T字路に出たら右折します。
それから次の角を左折してアーケードから出ます。
アーケードから出るとすぐに右側に駐車場が2ヶ所続き(間に道がある)、2つ目の駐車場の端(下の写真の右奥に停まっている黒い車の後ろ)に小さな石碑があります。ここが沢村栄治の生家跡です。
※一部影で見えにくくなっています。すみません。
建物は残っていませんが、石碑と簡単な説明板が設置されています。この説明板に、この後行く沢村栄治の墓までの案内が書かれています。必要な場合はスマホ等で写真を撮っておきましょう。
今も地元で愛される沢村栄治
生家跡からアーケードへ戻り、アーケードに入った所は右折して先程来た道を少しだけ戻ります。次のT字路は元来た道(クランクの方)へは曲がらず、そのまま真っすぐ南へ進みます。
このT字路の所には、右側の壁に沢村栄治を紹介したコーナーがあります。
ここからは一本道です。しばらく進んだ左カーブの所にも、沢村の活躍を紹介したコーナーがあります。また、全力石なる石も置かれています。
この全力石は沢村栄治生誕100年の平成29年に設置されたようです。石には沢村の言葉「人に負けるな どんな仕事をしても勝て しかし 堂々とだ」が刻まれています。何事にも全力で向かった沢村にあやかり、この石に触れることで目標に向けて全力で取り組めるように、との思いが籠められているようです。
ここから真っすぐ進むと、駅前の通り(蜂蜜ぱんじゅうの店の横)に戻れます。
次はしばらく歩いて沢村栄治の墓へ向かいます。
沢村栄治の墓
先程の商店街から墓までは少し離れています。
墓地は広大で、入口は複数あります。今回は生家跡の説明板にあった経路で行きます。
まずは先ほどの商店街を出た所から大通りを南へ進みます。右手に神社が見えますが、神社を過ぎて2つ目の信号交差点(岩渕交差点。みずほ銀行がある交差点。)を左折します(ここで南側に渡っておくとよいです)。
近鉄の高架下をくぐり、しばらく行くと右側にローソン(下の写真の青矢印の方にある)がある交差点に着きます(橋まで行くと行き過ぎです)。この交差点を写真の赤矢印の方へ右折します。
右折すると橋を渡ります。渡り切った所で左奥の道(写真の矢印の所)へ入ります。
少し行くとY字路があるので左(写真の矢印の方向)へ進みます。
そのまま道なりに進むと墓地の入口に着きます。
墓地内の通路は狭い所が多いので、注意しましょう。また、墓参者の方の迷惑にならないようにしましょう。
墓地入口から右前の方を見ると、白い建物(伊勢郵便局)が見えます。下の写真の白い建物がそれです。この建物の右端の角の所(写真の矢印の所)まで行きます。
白い建物の角の所は曲がらずに直進し、2つ目の大きな曲がり角(桶がたくさん置いてある所)を左折します(写真の矢印の方へ入る)。フライングすると、実は下の写真の矢印の少し上に、球が乗った墓石が見えます。これが沢村栄治の墓です。
そしてすぐに1つ目の角を右折します。すると数区画先の右側に大きな野球ボールが乗った墓石が見えます。これが沢村栄治の墓です。もしかしたらグーグルマップで探して行った方がわかりやすいかもしれません…。
墓石には「澤村榮治墓」と刻まれています。墓石が新しいことや、野球ボールが乗ったデザインからすると、戦死した直後に造られたものではなく、後世のものかと思います。
私の想像ですが、乗っていた船が撃沈されて亡くなったので、恐らく遺骨は戻って来なかったのではないでしょうか。そう考えると、このお墓を見るだけで、戦争に対して悲しい気持ちになります。
この墓石を見る時、沢村栄治の活躍を偲ぶと共に、戦争というものについて改めて考えさせられるのではないでしょうか。
今回は名ピッチャーの沢村栄治の痕跡を辿りました。近鉄宇治山田駅から近いということもあるので、伊勢神宮参拝と共に訪れてみてはいかがでしょうか。
※記事の内容は2024年11月時点のものです。
《参考文献》
- 『三重県史』通史編近現代2(上)(三重県、2019年)
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