大阪府堺市出身の人物として、前回は千利休・与謝野晶子のゆかりの地を見ました。今回は河口慧海です。
河口慧海について
河口慧海。千利休・与謝野晶子と比較して、その名を聞いたことがある人は少ないでしょう。しかし、とてつもない苦難を経て日本の仏教のために貢献した人物です。慧海はあまり有名でないと思いますので、少し詳しく書きます。
河口慧海が生まれたのは慶応2(1866)年、和泉国堺の浜筋山伏丁(後の北旅籠町)でした。父親は樽を造る職人でした。慧海は長男で、定治郎という名でした(以降も「慧海」と表記を統一します)。
明治4(1871)年、慧海は北旅籠町の清学院という修験道の寺にあった清光堂という寺子屋に通い始めます。
翌5年、当時の堺県が寺子屋等を廃止して、代わりに県学分校(小学校の前身)を開設しました。慧海が入学したのはその内の第七区分校で、綾之町の来迎寺内にありました。慧海が通ったこの学校は後に移転し、明治8年には錦西小学校となりました。
しかし、明治10年、慧海は父親の意向(家業の関係か)で小学校を退学します。注意が必要なのは、当時はまだ就学率が低く、下等小学(当時の小学校は下等4年・上等4年)の内に退学する子も多かったことです。当時の状況からすれば、慧海だけが特別に「教育の機会に恵まれなかった」というわけではありません。
これで慧海が教育の機会から離れたかと言うとそうではなく、自身で学ぶ独学を中心とした学びを継続します。
慧海はやがて家の手伝いをしながら夜学に通えるようになります。私塾を転々とし、明治13年に当時堺で有名であった土屋弘の晩晴書院という塾に入ります。この時慧海は数え年15歳でした。ここで明治21年(23歳)まで学ぶことになります。慧海はここで多くの学友も作ったとみられます。また、この間に慧海は仏教に触れ、関心を深めていきます。
また、学友ではないものの、堺北旅籠町出身の詩人・河井酔茗(かわいすいめい)は慧海と交流がありました。この河井酔茗を中心として浪華青年文学会堺支会が結成されます。やがてこの会に与謝野鉄幹や与謝野晶子が関わっていくのです。
明治21年、23歳の慧海は堺を離れて上京します。ここからは堺との関わりは少なくなるので、詳細は書きません。
慧海はやがてチベットへ行くことを決意します。なぜチベットなのか?
当時の日本では、廃仏毀釈によって仏教が危機的状況にありました。仏教の衰退を挽回すべき日本の仏教勢力が注目したのがチベット仏教でした。その理由の一つは、仏典です。
仏教の教えを記した仏典について、日本では中国で漢訳されたものを使用していました。漢訳される前の仏典はサンスクリット語等で記されたものでした。
漢訳された仏典ですが、長い歴史の中で複数の訳や解釈が存在するようになっていました。では、そもそもの釈迦の教えはどうだったのか?そこで元々の仏典(釈迦の教え)に近い、漢訳される前のサンスクリット語の仏典を入手しようとしたのです。
チベットにはそんな仏典が集められており、インドではすでに失われたものもチベットには存在する可能性がありました。
これが、日本の仏教関係者がチベットを目指した理由の一つです。しかし、チベットは地理的に非常に行きづらい場所であり、かつ外国人の入国が難しい(チベットの外国人に対する警戒感等)場所でした。
チベット域内に初めて入ったとされる日本人は能海寛(1868~1901?)と寺本婉雅(1872~1940)でした。しかし、チベット側の警戒感から、首都ラサに至ることはできませんでした。能海寛はその後も何度かチベット入りを試みますが、明治34(1901)年にチベットに向かったまま消息を絶ってしまいます。
次にチベット入りを果たしたのが河口慧海でした。慧海は能海寛や寺本婉雅がたどり着けなかったチベットの首都ラサへ到達した、初めての日本人とされています。
慧海はチベット側の警戒を免れるため、中国人僧侶としてチベットに「潜入」します。
慧海がチベットに入ったのは明治33(1900)年6月、ラサへ到達したのは約10ヶ月後の翌34(1901)年3月でした。この年は能海寛が消息を絶った年です。チベット入りからラサ到達まで10ヶ月も要したのは、チベット側の警戒を免れるために、チベットに入って直接ラサへ向かわず、大きく迂回したためとされています。
ラサの滞在は1年余りに及びましたが、日本人であることがバレそうになり、ラサを、チベットを脱出することになってしまいます。
しかし、帰国した慧海は、そのチベットでの体験が大きく注目を浴びます。新聞にはチベットの旅行談が連載され、慧海も『西蔵旅行記』(西蔵=チベット)を出版します。
帰国の翌年、明治37(1904)年に慧海は再びチベットへ向けて日本を出発します。
慧海はサンスクリット語の習得等のため、また、チベットの政治情勢の都合のため、インドやネパールに長期間滞在します。その中で、チベットからインドへ来ていたパンチェン・ラマ(チベットでダライ・ラマに次ぐナンバー2の僧侶)に会います。パンチェン・ラマの滞在中、慧海は彼と交流を深めました。
更に、明治43(1910)年、インドのダージリン(ネパール・ブータン国境近く)にダライ・ラマが滞在していました。慧海はここでダライ・ラマに会うことができました。そして、チベットへの入国を許可されたとされています。
その後、慧海がチベットへ再入国できたのは大正3(1914)年のことでした。日本を出発してから約10年が経っていました。
慧海の初入国の時からこの時までの間には、既に寺本婉雅や多田等観等の他の日本人もチベット・ラサ入りを果たしています。
慧海の2回目の入国は正式な入国であったため、身分を偽ることなく日本人として振る舞い、チベットで念願の多くの仏典を入手して帰国しました。
慧海のチベット行きはこの2回目が最後でした。その後、慧海は日本で仏典の研究を行います。晩年には東洋文庫で『蔵和辞典』(チベット・日本語の辞書)製作に取り組みますが、未完のまま昭和20(1945)年に病気で亡くなりました。
できるだけ簡単にまとめたつもりですが、とても長くなってしましました。慧海の業績や苦難は簡単にまとめることはできません。能海寛が消息を絶つ中、日本人であることを隠す必要まであったチベット入国という偉業を達成し、日本の仏教に貢献した河口慧海。その慧海が生まれた地が現在の大阪府堺市なのです。
河口慧海ゆかりの地
堺市内にある河口慧海ゆかりの地で主なものは次の3ヶ所です。位置図は下にあるとおりです(『河口慧海 仏教探究の旅―チベットで求めたもの―』から引用)。アルファベットは図にあるもの。
- 河口慧海像(南海電鉄七道駅前)【A】※駅前は直接のゆかりの地ではない。
- 河口慧海生家跡【D】
- 清学院【E】
- 来迎寺【F】
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大阪市街地から行くのであれば南海電鉄を使う方が便利ですが、千利休・与謝野晶子ゆかりの地を見た後であれば、阪堺電車で宿院駅から綾ノ町駅か高須神社駅まで行く方法になります。
①河口慧海像(南海電鉄七道駅前)【A】
南海電鉄七道駅前のロータリーには、河口慧海の銅像があります。1回目のチベット「潜入」時に、山羊を連れてチベットを目指す姿です。


この駅前が直接ゆかりの地というわけではありませんが、以下で紹介するゆかりの地をめぐるには七道駅が近いので、ここに銅像があるのでしょう。
②河口慧海生家跡【D】
慧海の生家跡は住宅地の中にあります。今ではその面影はありません。生家跡には石碑がありますが、住宅と住宅の間に僅かなスペースがあり、そこに石碑があります。注意していないと見落とします。

③清学院【E】
慧海が幼少時に学んだ寺子屋・清光堂があった清学院は生家跡の少し東にあります。住宅地の中に寺院のような建物がある所です。

ここの見学は有料で100円が必要です。
慧海とは関係ありませんが、近くの鉄炮鍛冶屋敷(井上関右衛門家住宅)と少し離れた山口家住宅との3館共通券は700円、3つの内の2館共通券は2館の組合せ次第で250~600円です。
井上関右衛門家住宅は貴重な江戸時代の鉄炮鍛冶屋敷、山口家住宅は古い部分で築400年ほど(江戸時代初めの建築)の建物なので、ぜひ一緒に見学することをおすすめします。
清学院はそれほど広くはありませんが、入ってすぐの土間には清学院や慧海の説明があります。

部屋の中には寺子屋時代の?机が残されています。また、慧海の肖像パネルや慧海がチベットへ入った行程を示した地図があります。

④来迎寺【F】
最後は来迎寺です。ここは中には入れないので、外観のみです。

明治5年に寺子屋が廃止され、代わりに県学分校(小学校の前身)が設置されました。来迎寺には慧海が通った第七区分校がありました。学校は後に移転し、明治8年には錦西小学校となりました。
以上が主な河口慧海ゆかりの地です。いずれも南海電鉄七道駅から徒歩で行ける範囲です。先程の鉄炮鍛冶屋敷(井上関右衛門家住宅)と山口家住宅も併せて行きましょう。
堺出身の人物として千利休・与謝野晶子・河口慧海ゆかりの地を見てきました。利休はともかくとして、あとの2人は堺を出て活躍したので、多くのゆかりの地が残っているわけではありません。しかし、堺は出生の地であり、ここから偉人の人生がスタートしました。
3人のゆかりの地をまとめて回ってもそれほど時間はかかりませんので、ぜひ行ってみましょう。
※記事の内容は2025年9月時点のものです。
《参考文献》
- 奥山直司『評伝河口慧海』(中央公論新社、2003年)
- 藤井健志「仏教者の海外進出」(『新アジア仏教史14日本Ⅳ 近代国家と仏教』、佼成出版社、2011年)
- 高本康子『チベット学問僧として生きた日本人―多田等観の生涯―』(芙蓉書房出版、2012年)
- 『河口慧海 仏教探究の旅―チベットで求めたもの―』(堺市博物館企画展図録、2023年)


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