大阪府堺市出身の人々ゆかりの地1~千利休・与謝野晶子~

大阪府堺市と言えば、何を思い浮かべるでしょうか?戦国時代の自治都市、鉄炮、千利休などなど。以前に紹介した大仙古墳(仁徳天皇陵)も堺市にあります。

今回と次回は、堺市出身の人物とゆかりの地を紹介します。人物は千利休・与謝野晶子・河口慧海の3人です。今回は千利休・与謝野晶子、次回は河口慧海です。

千利休

千利休(大永2~天正19、1522~91)は織田信長・豊臣秀吉の時代の有名な茶人です。

堺に生まれ、武野紹鷗から茶を学びました。織田信長の茶堂となり、本能寺の変後は羽柴(豊臣)秀吉に仕えました。北野での大茶会でも活躍しました。

また、茶道だけではなく、利休は政治面でも政権に繋がる非公式の重要ルートとなっていました。これは、秀吉の弟・秀長が、「秀吉家中では、内向きの事は利休が、表向きの事は秀長が承る」と述べていることからもわかります。

しかし、やがて秀吉との関係は悪化し、天正19(1591)年に大徳寺山門に自身の木像を置いたことを理由として切腹を命じられました。

千利休に関する場所はさかい利晶の杜という建物です(恐らく千利休・与謝野晶子の名前から1字ずつ取ったもの)。この中には千利休茶の湯館と、次に紹介する与謝野晶子に関する与謝野晶子記念館があります。

最寄り駅は阪堺電車の宿院駅(停留場)です。JR天王寺駅からの場合、あべのハルカスの西側の道に天王寺駅前駅があります。浜寺駅前行に乗ります。平日昼間は約15分間隔、土日昼間は約12分間隔で運転されています。天王寺駅前から宿院まで約35分です。宿院駅で下車し、駅がある通りから1本西の通りにさかい利晶の杜があります。

南海電鉄であれば、なんば駅から南海線になります。ラピートα以外に乗って堺駅で下車します。普通以外は11分程度、普通は15分程度です。堺駅南口から徒歩10~15分でさかい利晶の杜に着きます。

大仙古墳を見た後であれば、三国ヶ丘駅からバスになります。駅の北側・南側のどちらからでも堺駅南口行きです。北側からは、平日は1時間に2本、土日は1時間に1~2本です。南側からは、平日・土日とも1時間に2~3本です。ともに宿院バス停で下車します。バス停の西(バスの進行方向で言うと左前)にある交差点の角にさかい利晶の杜があります。

さかい利晶の杜は、北側にある入口を入ると、広いエントランス(観光案内展示室)があります。床には堺の古地図、壁には16世紀末の世界地図が描かれています。その他、宿院地域(さかい利晶の杜がある地域)の復元ジオラマ、土産物屋があります。

前置きが長くなりましたが、千利休茶の湯館(有料)では、堺の歴史の概要と千利休についての展示があります。博物館ほどの規模ではありませんが、概要を知るには丁度良い展示だと思います。

次に、さかい利晶の杜とは東の道を挟んだ反対側には千利休の屋敷跡があります。

千利休屋敷跡外観

中には井戸や千利休の事蹟を記した石碑等がありますが、その他には特に解説等は無く、見るだけという感じです。ボランティアガイドの方はみえるので、説明はしていただけそうです。

与謝野晶子

2人目は歌人として有名な与謝野晶子です。明治11(1878)年に堺の菓子店の娘として生まれました。『みだれ髪』や「君死にたまふことなかれ」の詩が有名です。

さかい利晶の杜の中にある与謝野晶子記念館(有料)では与謝野晶子について学ぶことができます。展示品は撮影しませんでしたが、一部の展示品のみに撮影禁止のマークがあったので、それ以外は撮影可能かもしれません(詳細は現地で確認してください)。

千利休茶の湯館は堺の歴史も含めて展示されていたためか、千利休についてはそれほど濃い内容ではありませんでした。対して与謝野晶子記念館では与謝野晶子の生涯について詳細な展示があります。私は一般レベルの知識しかありませんでしたが、いろいろと初めて知る事、驚く事がありました。例えば・・・

  • 晶子は本名ではなかった(本名は「志やう」)。
  • 『みだれ髪』は意外に若い頃に刊行された。
  • ヨーロッパに長期滞在していた夫の与謝野寛(鉄幹)を追って(子の世話等の問題で、当初は一緒に行くことができなかったため)、シベリア鉄道でヨーロッパへ行った。
  • 実は子どもが12人もいた。
  • ヨーロッパで出会ったオーギュスト・ロダン(「考える人」で有名な芸術家)に感動し、自分の子どもに「アウギュスト」という同じ名前をつけた。
  • ヨーロッパの下宿先の家の娘を気に入り、自分の子どもに「エレンヌ」という同じ名前をつけた。2人の子とも、明治時代に日本人どうしの子に外国人の名前を付けるという、今ですら考えられないことですね。
  • フランスでは雑誌にも取り上げられ、肖像も大きく掲載された。
  • 歌人という面だけではなく、女性や教育等に関する評論活動も盛んに行っていた。

ここで与謝野晶子についての基礎的事項は十分に学ぶことができるのではないでしょうか。

続いて与謝野晶子の生家跡です。さかい利晶の杜からは少し離れた所になります。阪堺電車の宿院駅がある交差点を北へ行き、次の交差点の北西角に生家跡があります。家は残っていません。

生家跡には石碑、与謝野晶子の説明板、歌碑があります。

この他、今回は行っていませんが、堺市内各地には与謝野晶子に関する文学碑があります。

千利休・与謝野晶子ともにあまり旧跡は残っていませんが、さかい利晶の杜のみでも2人のことを十分に知ることができます。

※記事の内容は2025年9月時点のものです。

《参考文献》

  • 『戦国人名辞典』(吉川弘文館、2006年)
  • 河内将芳『図説豊臣秀長』(戎光祥出版、2025年)

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