天台真盛宗の本山・西教寺の訪問記です。これまで入口である総門から本堂や客殿、明智光秀一族供養塔等まで見ました。第3回目(最終回)の今回は墓地にある石造物をめぐります。足元が悪い所もあるので、注意して見学しましょう。
西教寺の文化財(六地蔵)
本堂前の広場、明智光秀一族供養塔等の石塔が並ぶ間(南側)から墓地へ入ります。
墓地には戦国武将等の墓があり、墓地入口手前(広場の所)に所在地案内板もあります。墓地は広大なので、案内板をスマートフォンで撮影し、場所を確認しながらめぐると良いと思います。
ただし墓地内は通路が狭く、階段や坂が多いので、足元には注意してください。画面を見続けて歩くのは非常に危険です。
墓地に入ってすぐ、正面に六地蔵があります。地蔵は境界に立てられることが多く、ここからが異界であることを示しています。
特に六地蔵は、人間がめぐると言われる六道の世界(天・人間・修羅・畜生・餓鬼・地獄)で迷う人々を救う(このため6体ある)と言われ、墓地でよく見られます。
ここの六地蔵は左右に3体ずつあり、全てに天文19(1550)年の銘があります。銘文から、故人の供養や逆修(生前に自分のための仏事を行い、没後の冥福を祈ること)のために造られたことがわかります。
この内、左側手前(写真では一番左)の1体には、「真恵上人卅三回忌/天文十九庚戌六月廿四日」という銘があります。第1回目で紹介した真宗の真慧(真恵)上人かと思いましたが、永正9(1512)年に没した真慧上人の33回忌は天文13(1544)年にあたるので、6年のズレがあります。
実は西教寺の貫主(住職)には同じ名前の真恵という人物がいます。貫主であった時期はわかりませんでしたが、代数からすると天文19(1550)年が33回忌でも無理はない年代です。なので、この六地蔵に刻まれている真恵上人は西教寺貫主の方かもしれません。
六地蔵それぞれには、預天賀・金剛宝・金剛悲・金剛憧(幢?)・放光王・金剛願と刻まれています。これは『仏説地蔵菩薩発心因縁十王経』という鎌倉時代にできた経典に記された六地蔵それぞれの名前です(六地蔵には、他にも経典や宗派によって、様々な名前があります)。
西教寺の文化財(長谷川藤広の墓)
次は長谷川藤広の墓です。五輪塔で元和3(1617)年の銘があります。
長谷川藤広は徳川家康の側室の兄で、時代は違いますが、真盛上人と同じ伊勢国一志郡の出身です。江戸幕府において長崎奉行や堺奉行を務めました。家康が死去した3ヶ月後に、藤広は西教寺で念仏会を催しています。
なお、藤広は大津で日本最初のそろばんを作らせた人物でもあるようです(そろばんは元々中国のものらしい)。
西教寺の文化財(長岡監物一族の墓)
次は長岡監物一族の墓です。笠の付いた大きな石塔が複数立ち並んでいます。
長岡監物家は肥後熊本藩細川家の家臣です。元は米田氏で、文化人としても有名な細川藤孝とともに足利義輝に仕え、織田信長と足利義昭の抗争でも藤孝(信長に味方)と行動を共にしました。後に細川家の家臣となり、家老となりました。
西教寺の文化財(比良太郎兵衛の墓)
長岡監物家の墓の筋向いあたりに比良太郎兵衛の墓があります。
比良太郎兵衛が誰なのかはわかりませんが、一部のインターネットサイトでは長岡監物家の一族という情報もあります。墓の前にある看板には「出雲国松平出羽府中」とあるため、松江藩(今の島根県)松平氏の家臣でしょうか。
五輪塔の空風輪の形からは、17世紀に建てられたように思います。
西教寺の文化財(山中長俊?の墓)
続いては墓地を少し登った所にある山中長俊の墓です。長岡監物家と同様に笠付の石塔です。慶長8(1603)年の銘があります。
山中長俊は、初め近江六角氏の家臣で、後に柴田勝家・丹羽長秀・豊臣秀吉に仕えます。関ヶ原の戦いでは西軍に味方して改易されます。戦後は京都に住みました。没年は慶長12(1607)年なので、墓石の銘文とは異なります。
長俊の妻は伏見城の御殿の一部を西教寺に移築・寄進した(現在の客殿)ようなので、ここに長俊の墓があるのはその関係かもしれません。
とはいえ、没年と墓石の銘文が矛盾するのは気になります。
ん??後から写真をよく見ると、戒名の末尾が「大姉」(=女性)に見えます(現地では看板を信じて、銘文までよく見なかった)。そうすると、この墓石は女性のものということになります。また西教寺に行く機会があれば確認したいと思います。
西教寺の文化財(前田菊子の墓)
最後は前田菊子の墓です。元々は別の墓石(五輪塔)がありましたが、明治17(1884)年に現在の墓石に建て替えられたようです(五輪塔も残しておいてほしかった…)。
前田菊子は有名な前田利家の娘で、豊臣秀吉の養女になります。大津で養育されていましたが、7歳で亡くなり、西教寺に埋葬されたとのことです。
このように見てくると、西教寺が多くの人々から信仰を集めていたことがわかります。現在も天台真盛宗の本山であり、墓地の墓石の多さからも、その信仰は現在まで続いていることがわかります。
西教寺の文化財(墓地・その他)
寄り道ですが、前田菊子の墓の右奥には、天文13(1544)年の銘がある一石五輪塔(横倒し)がありました(←何か、古そうで、銘文がありそうな予感がしたので、見てみた)。
また、前田菊子の墓の右の方には、第1回目で紹介した真慧上人供養塔があります。
ここの墓地は広大で、坂になっており、上の方からは琵琶湖を遥かに望むことができます。
あくまで墓地なので、興味本位で入る所ではありませんが、有名人の墓地を静かに参拝しつつ、眺望を楽しむ程度は許されるのではないでしょうか。
以上が西教寺境内になります。私はかなりゆっくり見学して、石造物もじっくり見て3時間でした。ブログ用に写真もたくさん撮ったので、普通に見学すれば3時間はかかりません。
最後に、西教寺へのアクセスを書いておきます。
西教寺へのアクセス
私は電車で行きましたが、正直なところ、電車ではアクセスが良くありません。車の場合は、総門の横に駐車場があります。今回は電車での行き方を書きます。
西教寺の最寄り駅は京阪電車の坂本比叡山口駅です。JRの場合は膳所駅や石山駅で京阪電車に乗り換えるのが便利です。JRにも比叡山坂本駅がありますが、京阪電車よりも遠い所に駅があるので、不便かもしれません。
京阪坂本比叡山口駅から西教寺へはバスもありますが、本数がかなり少なく、平日は1日3本、土休日でも1日4本なので、利用するのは難しいです。
私は、行きは徒歩で、帰りは運よく時間が合ったので、西教寺の前からバスに乗れました。バスだと10分程で着きます。なお、バスはJR比叡山坂本駅からも乗れます。
徒歩の場合は京阪坂本比叡山口駅から西教寺まで約25分です。しかも上り坂が多いので、覚悟が必要?です。とはいえ、坂は緩やかなので、ゆっくり歩けばそれほど疲れませんでした(むしろ、ずっと先まで続く道を見て気持ちが疲れる?)。途中では琵琶湖を眺められる所もありました。
京阪坂本比叡山口駅からの道はわかりやすいです。駅を出たら大通りをひたすら西へ向かいます。突き当りで左へカーブする少し手前を右へ曲がります(車道の上に西教寺の方向を示す看板があります)。あとは道なりに真っすぐ進むと西教寺に着きます。車も通りますが、歩道もあるので、歩きやすかったです。
上り・下りが続き、最後の延々の緩やかな上り坂を上りきると西教寺です。歩く場合は頑張ってください(祈)。
※記事の内容は2024年10月時点のものです。
《参考文献》
- 速水侑「日本古代貴族社会における地蔵信仰の展開」(桜井徳太郎編『地蔵信仰』、雄山閣出版、1983年)
- 阿部猛・西村圭子編『戦国人名事典コンパクト版』(新人物往来社、1990年)
- 稲葉継陽『細川忠利』(吉川弘文館、2018年)
- 『三重県史』通史編中世(三重県、2020年)
- 西教寺境内の説明板
- 西教寺のパンフレット
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