天台真盛宗の本山・西教寺の訪問記です。前回は総門から入って、宗祖大師殿や真盛上人御廟等をめぐりました。第2回目の今回はメインとなる本堂や客殿、明智光秀一族供養塔等です。
西教寺の文化財(本堂・客殿・庭園)
真盛上人御廟や真慧上人供養塔から本堂前の広場へ戻って来ました。ただ、本堂にはここからは入れません。
本堂の右を通り、奥へ進むと、大本坊があります。ここの受付で拝観券を見せると、本堂・客殿・庭園を見ることができます。
本堂・客殿等、建物内部の撮影は禁止されています。庭園は撮影可です。
本堂は元亀2(1571)年の比叡山焼き討ちで焼失しましたが、18世紀に再建されました。元文4(1739)年に上棟しますが、天井を張ったのは安永4(1775)年で、再建が始まってからも長い年月がかかったようです。現在は重要文化財となっています。
外縁から本堂の中に入ることもでき、本尊である阿弥陀如来坐像(平安時代、重要文化財)を見ることができます。今回は本堂の脇陣にある恵心僧都像も期間限定で公開されていました。
続いての重要文化財・客殿に進みます。この客殿は慶長3(1598)年に伏見城の建物を移築したと伝えられています。移築したのは有名な大谷吉継の母と、吉継と同じく豊臣秀吉家臣の山中長俊の妻です。山中長俊の墓(実は長俊の墓ではないかもしれない)はここ西教寺の墓地にあります(次回紹介)。
内部の通路から撮影してよいかが分からなかったので、外(本堂前広場)から撮影した写真です。板塀の奥に見える大きな屋根が客殿です。
客殿の中には鶴・猿猴・賢人・花鳥・帝鑑の間があります。襖絵は狩野永徳筆と伝えられており、見学通路からガラス越しに見ることができます。
ガラスの反射具合で見づらい部屋もあったのが少し残念でしたが、寺院の襖絵に相応しい落ち着いた絵でした。狩野永徳というと、勇壮な唐獅子図屏風が有名ですが、それとは雰囲気が異なります。この襖絵が永徳の作だとすると、永徳の画風の幅広さを感じます。
客殿の西側には、小堀遠州作と伝えられる庭園(客殿庭園)があります。庭園は確かに美しいのですが、見る目が無いので、うまく伝えられません。ごめんなさい。
小堀遠州は江戸時代初期の人物です。幕府のもと、各地で政治手腕を発揮したほか、茶人や文化人としても有名です。私の好きな藤堂高虎とも親戚で、親交がありました。そんな遠州が作った(と伝えられる)と言われると、どこか親しみも感じます。
続いては明智光秀の資料室があります。コンパクトな資料室ですが、中では光秀や西教寺との関係に関する歴史資料等を見ることができます。
資料室を出ると、2つ目の庭園(書院庭園)が現れます。この庭園は、この地域の造園で活躍した穴太衆によって作られたものとされています。穴太衆は城の石垣造りでも有名ですね。
この庭園を過ぎてすぐ、通路を右へ曲がると、二十五菩薩石仏があります。受付で聞いたところ、これは撮影禁止とのことでした。
二十五菩薩石仏は天正12(1584)年、近江国の富田民部進が娘を亡くし、娘が極楽浄土に往生することを願って造立したものと言われています。元々は屋外にありましたが、風化が進んだために、現在の位置(半屋内)に移されました(本堂前広場には復元されたものが安置されています)。
この時代は江戸時代ほど石造物の造立は多くありません。そのような時代に、1m程もある石仏を25体も造立するとは、富田民部進の経済力に驚くとともに、彼がいかに娘を愛していたかを物語っていると思いました。
それと同時に、なかなか見ることができない天正年間の石造物を一度にこれだけ多く見られるのは貴重であると思います。
撮影ができない屋内(半屋内)にあるのは残念ですが、文化財の保存は重要なので、風雨の影響を受けにくい現在の場所に移されたのは良いことだと個人的には思います。
これで本堂・客殿・庭園の見学を終え、受付の所まで戻ります。受付の周りには、お土産が買える売店や自動販売機・トイレ(めちゃ綺麗)も揃っています。この後は上り坂のある墓地の見学に行くので、ここで一旦休憩しておくとよいかもしれません。
受付のある大本坊から外へ出、再び本堂前の広場に戻ります。
広場の南側(本堂正面の向かい側)に多数の石塔があります。中には明智光秀一族の供養塔や光秀の妻・煕子の供養塔(一石五輪塔)があります。明智光秀の格好?をした飛び出し坊やもいます(笑)
明智光秀と西教寺
光秀一族の供養塔がなぜ西教寺にあるのか?そこには西教寺と光秀の深い関わりがありました。
前回書いたように、元亀2(1571)年の織田信長の比叡山焼き討ちの際に西教寺は焼失します。その後、光秀が坂本城主となり、坂本地域一帯の復興に努め、西教寺の復興にも尽力します。
先程、本堂・客殿見学の受付があった大本坊は光秀により築かれたものです。天正2(1574)年には仮本堂を完成させ、現在の本尊を迎えました。
元亀4(1573)年には、光秀は戦いで亡くなった者18名の供養を行い、妻煕子が亡くなった際には、煕子の墓を建てています。
やがて本能寺の変で信長を討った光秀は、山崎の戦いで羽柴秀吉に敗れ、亡くなります。その後、煕子の父・妻木広忠によって一族と共に西教寺に葬られ、墓が建てられたと言われています。
明智光秀については、先程の本堂・客殿見学の途中にあった資料室でも学ぶことができます。
煕子の墓は、光秀一族の墓の左の方にある二十五菩薩像の更に左の壁際にあります。小さな一石五輪塔です。形式を見た感じでは、当時のものというよりは後世に建てられたもののように感じました。
次回は広場から墓地に入り、戦国武将等の墓をめぐります。
※記事の内容は2024年10月時点のものです。
《参考文献》
- 西教寺境内の説明板
- 西教寺のパンフレット
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