明智光秀の菩提寺・西教寺の歴史と文化財1

滋賀県大津市坂本、比叡山のふもとにある西教寺に行って来ました。延暦寺へ行く人は多いと思いますが、西教寺にも貴重な文化財があります。そんな西教寺を今回から3回にわたって紹介します。

天台真盛宗本山・西教寺

西教寺は滋賀県大津市坂本にある天台真盛宗の本山です。

天台真盛宗は聞き慣れない宗派かもしれませんが、室町時代に真盛上人によって開かれた宗派です。天台宗の一派で、明治11(1878)年に別派独立が許可され、天台宗真盛派となりました。この時に西教寺は真盛派の本山となりました。そして、昭和21(1946)年に天台真盛宗として独立しました。

西教寺は618年に聖徳太子により創建されたと伝えられ、669年に天智天皇から西教寺の名を与えられたとされます。

その後、一時荒廃しましたが、950年頃に延暦寺の良源上人(元三大師)が再興し、恵心僧都が念仏道場としました。

室町時代になり、文明18(1486)年に比叡山で修業した真盛上人が入寺して再興し、不断念仏の道場としました。

織田信長の比叡山焼き討ちの際には西教寺も焼失しますが、その後に坂本城主となった明智光秀により復興されます。

以下で紹介しますが、西教寺には重要文化財の本堂を初めとした文化財があります。また、あまり知られていないかもしれませんが、明智光秀と一族の菩提寺でもあります。

開祖・真盛上人

真盛上人は嘉吉3年(1443)年に伊勢国一志郡(今の三重県中部)で生まれました。紀貫之の一族のようです。14歳で出家し、19歳で比叡山に入って20年間修業します。

文明14(1482)年、母が亡くなったため、一時伊勢国に帰ります。翌年、比叡山に戻り、平安時代に源信が著した『往生要集』に従って戒律の厳守と称名念仏(念仏を唱えること)の励行を見出したといいます。

そして前述のように文明18年に西教寺に入り、寺を再興します。ここを拠点に朝廷・公家・武士・庶民へ布教しました。その布教活動は京都・近江国・越前国・伊勢国(出身地)・伊賀国に及びました。

当時の日記には真盛上人の名前が多く見られ、同時代の他の宗教者よりも圧倒的に多いようです。天皇のもとでも進講や皇族の追善供養の講釈を行っています。

教科書には出て来ない人物ですが、当時の多くの人々から信仰を集めた人物であったことが分かりますね。

真盛上人が亡くなったのは明応4(1495)年、伊賀国西連寺(今の三重県伊賀市)で、53歳の生涯でした。

西教寺の文化財(総門~宗祖大師殿)

西教寺は道に面した総門から入ります。総門を入った所に拝観受付があります(拝観料500円)。受付ではパンフレットとともに拝観順序を記した地図がもらえるので、この順序に従って行くとうまく境内を回ることができます。

初めての所で、しかも広いと、行ったり戻ったりしてしまうので、こういう地図があるととても助かりますね。他所ではあまりこんな地図をもらったことが無い(境内に順路を示した看板が立っている場合はある)ので、西教寺はとても親切だと感じました。

境内は参拝者がそれほど多くなく、ゆっくりと落ち着いた雰囲気で見ることができ、個人的にはとても良かったです。

では、総門から紹介していきます。

総門は、明智光秀が天正年間(1573~92、光秀没は1582)に居城・坂本城の門を移築したものと伝えられています。現在も残る門を見ると、城の門と言われても納得できるような立派な佇まいでした。

総門

続く参道は、特に秋に紅葉の通り抜けで有名なようです。今回はまだ時期が早かったですが、真っすぐの参道にはちょうど人がおらず、落ち着いた雰囲気でした。

参道

参道の突き当りには勅使門があります。特に説明板等は無かったのですが、名前からすると、朝廷の勅使(天皇の使者)を迎える時等のみに使用された門なのでしょう。

勅使門

勅使門の所を左に曲がると、その先に宗祖大師殿があります。宗祖大師殿の前にある唐門の所からは、琵琶湖を遥かに見渡すことができます。

実はもらった地図の順序で行くと、宗祖大師殿の横から入り、正面入り口にあたる唐門から出ることになります。なので、あえて逆に唐門の方へ回って入るのも良いかもしれません。

宗祖大師殿唐門
宗祖大師殿唐門前からの風景(琵琶湖)

宗祖大師殿は宗祖真盛上人の木像をまつる建物です。天台宗真盛派として別派独立したことにともない、明治27(1894)年に建てられました。

宗祖大師殿

西教寺の文化財(真盛上人御廟・真慧上人供養塔)

宗祖大師殿の外、右奥にある階段を上っていくと本堂前の広場に着きます。順番はどちらでもよいのですが、今回は本堂や客殿の見学に先がけて、本堂左手にある階段を上って真盛上人の御廟へ向かいます。

階段は結構長いです。適宜休憩して登りましょう。階段を登りきると、御廟の建物が現れます。

この御廟の建物は天保13年(現地の説明板には天保13年で1843年とありましたが、1843年は天保14年で、どちらが正しいかは不明)に建てられたものです。中に真盛上人の五輪塔が安置されているとのことです。

御廟の建物内には入れないので、前で参拝。建物は、屋根がとても大きいように見えます。ちょっとアンバランス??

真盛上人御廟 ※逆光です。

建物の周りには歴代貫主(住職)の墓石が林立しています。五輪塔や僧侶に特有の無縫塔があります。

歴代貫主墓石

御廟から戻る途中、階段から脇道に入ります(階段下り方向に向かって左へ入る)。曲がる所には「染殿」と「高田山真恵上人御廟塔」の看板があります。

曲がってすぐの壁際に染殿と呼ばれる五輪塔があります。西教寺境内で最古、鎌倉時代のものと考えられています。なぜ「染殿」と呼ばれているのかは分かりませんでした。

染殿(五輪塔)

うーん、火輪(屋根の部分)はかなり古い様式に見えますが、空風輪(屋根の上に載っているもの)は、室町時代か江戸時代のような…(空風輪のみ別物という可能性もあります)。

その先のY字路を左へ入り(案内板はありません。勘で左へ行ったら当たりだった。)、斜面の階段を登った先に真慧(真恵)上人供養塔があります。ここは後で書く墓地の一角です。途中の道は舗装されておらず、階段もあるので、足元には注意してください。

真慧上人供養塔

真慧上人は真宗(浄土真宗のこと)高田派の住職で、室町時代の人物です。真盛上人ともほぼ同世代の人物です。

真宗僧の供養塔がなぜ天台真盛宗の西教寺にあるのかはわかりません。真慧上人は西教寺のある坂本に一時期滞在したことや、2人の間には交流があったと言われているからかもしれません。

供養塔は五輪塔で、地輪(球形の下の直方体の部分)には「永正九申年/権大僧都法印/(梵字ア)真恵上人/三月廿二日」(/は改行を示す)と刻まれています。真慧上人の命日は永正9(1512)年10月22日であるため、月が異なります(月の部分は一部欠損しているようにも見えるので、私の誤読の可能性もあります)。

これも火輪や空風輪の形が永正年間のものではないような…。

後世に供養のために建て、命日を刻むことはあるので、この五輪塔もそうなのかもしれません。後世に建てられとしても、真慧上人を慕ってのことでしょうから、没後も信仰を集めていたことが分かります。

真慧上人供養塔から戻ります。供養塔から階段を少し降りて右にカーブする所の右側に、いくつかの石塔があります。中には天文年間(1532~55)の銘の一石五輪塔もあります。

御廟へ向かう階段へ戻り、階段を下りて、本堂前の広場へ戻ります。次回は本堂や客殿の見学です。

※記事の内容は2024年10月時点のものです。

《参考文献》

  • 阿部猛・西村圭子編『戦国人名事典コンパクト版』(新人物往来社、1990年)
  • 『三重県史』通史編中世(三重県、2020年)
  • 西教寺境内の説明板
  • 西教寺のパンフレット

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