東京都文京区の永青文庫で開催中の「信長の手紙」展に行って来ました。撮影はできないので、写真はありませんが、織田信長と細川藤孝・忠興父子の関係を少し紹介します。
※ブログ公開時点で、展覧会の会期は明日(令和6年12月1日)までです。
細川家・永青文庫について
細川家は室町幕府に仕えた名門の家柄です。戦国時代には文化人としても有名な藤孝・忠興父子がおり、足利義昭や織田信長・豊臣秀吉・徳川家康に従い、忠興の子・忠利の代(忠興も存命)に肥後熊本藩主となります。
忠興の正室で明智光秀の娘・玉(ガラシャ)は有名ですね。細川護煕元総理大臣も細川家当主です。
永青文庫がある場所は、細川家の屋敷跡の一角です。屋敷は江戸時代から戦後までありました。
永青文庫は昭和25(1950)年に細川家当主護立によって設立され、細川家に伝わった文化財を所蔵・研究・公開しています。所蔵品は大名細川家に伝わったものと、護立が収集したものに大別されます。
文庫の名前は、細川家の菩提寺である永源庵と、藤孝の居城・勝龍寺(青龍寺)城から1字ずつ取って名付けられました。
織田信長・足利義昭の対立と細川藤孝
今回の展覧会は、永青文庫が所蔵する織田信長の古文書60点全てを展示するものです(時期を分けて展示しているので、一度に60点が見られるわけではありません)。
戦国時代の細川家当主・藤孝は、室町幕府15代将軍・足利義昭に仕えていました。やがて織田信長が義昭を助けて上洛します。しかし、5年も経たないうちに信長と義昭の関係は悪化し、義昭は京都を去ります。
義昭の奉公衆(側近衆)と信長の対立が原因の一つのようですが、奉公衆の中で藤孝だけは信長に味方します。そのことを示す古文書が、最近発見され、ニュースになった藤孝宛の信長書状です。
書状の中で信長は、藤孝が贈物をくれたことへの礼を述べています。そして「当年京衆何も無音之処」(今年は義昭の奉公衆がいずれも贈物等を贈って来なかったが)、藤孝は今回だけでなく初春にも信長へ贈物をし、例年通りの付き合いをしてくれている、と喜んでいます。
信長も藤孝へ馬を贈っています。
また、山城・摂津・河内の武将について、誰でも信長の味方に引き入れるように藤孝に依頼しています。
文面どおり読めば、義昭の奉公衆の中で、藤孝だけが信長に味方するという異例の行動をとったことになります。信長はそれがよほど嬉しかったのでしょう。信長は、そんな藤孝を頼りにしていることもわかります。
歴史の結果論になりますが、信長に味方した藤孝の判断は細川家の存続・繁栄にとって正しかったことになります。
細川忠興の活躍と織田信長の自筆感状
藤孝だけではなく、子の忠興も信長のもとで活躍します。この活躍に対する信長の感状は、実は貴重なものなんです。
天正5(1577)年、大和国の松永久秀が信長を裏切ります。信長は久秀を攻撃しますが、その中に15歳の細川忠興がいました。
数え年で15歳なので、現在の中学2年生(14歳)です。弟の興元(数え年13歳、現在の小学6年生)も参戦していたようで、現在でいう小中学生が合戦に出るという、信じがたい時代ですね。この時代では普通ですが…。
戦いでの忠興の働きに対して信長が出した感状(合戦での功績を称賛する手紙。今でいう表彰状のような感覚ですかね。)が、信長文書の中で唯一自筆と確定されているもの(自筆と推定されている文書は他にもある)です。
この時代は、信長ほどの人物になると、文書は基本的に祐筆(ゆうひつ。右筆とも。主人の文書を代筆する人。)が書くため、自筆はあまりありません。
なぜ自筆と確定できるのか?それは、同日付の信長家臣・堀秀政書状(細川忠興宛)の中に、「信長様が自筆でお書きになった」と記されているためです。
翌日に藤孝に対して出された信長の感状は自筆ではありません。親子でも自筆か否かが異なるというのは面白いですね。それだけ信長が忠興の働きに感じ入り、また今後への期待を持っていたということでしょうか。
感状の文面は短く、内容は簡単なものです。しかし、実物を見ると、文字がとても大きく、どこか評判通りの信長の豪快さ?が伝わってくるようでした。
しかも、文字も結構読みやすかった(きれいだった)です。右筆の上手な字に比べて、自筆だと結構クセのある読みにくい字になる人もいますが、信長は字が上手かったのでしょうか??これは信長の意外な一面でした。
長篠の戦いと細川藤孝
藤孝は信長のもとで活躍を続け、長篠の戦いでは後方支援を担当します。長篠の戦いは鉄炮隊で有名ですが、信長が藤孝に送った書状には、藤孝が上方(京都周辺)で鉄炮や火薬を調達していることが書かれています。
長篠の戦いといえば、織田・徳川軍が鉄炮隊で勝利した(鉄炮隊が勝利の主要因であったか否かは諸説ありますが)というイメージですよね。
しかし、多くの戦いは後方支援・補給も重要になってきます(補給がうまくできなかった例がアジア・太平洋戦争の日本軍)。もしかしたら、藤孝の後方支援があって、長篠の勝利があったのかもしれません。
本能寺の変~羽柴秀吉・明智光秀と細川父子~
やがて天正10(1582)年に本能寺の変が起きます。信長の書状ではありませんが、この時期の明智光秀の文書(条文のように書かれているので「条々」という)も展示されていました。
条々の日付は6月9日。本能寺の変から7日後、山崎の戦いの4日前の書状です。
光秀の娘・玉(ガラシャ)が忠興の正室という関係から、光秀は細川家が味方になることを期待したのでしょう。しかし、藤孝・忠興父子は元結を切り(髪を切って僧形になることを示す)、信長に弔慰を表します(つまり、光秀の行動を支持しなかった)。
これに対し、光秀は条々の中で次のような事を述べています。
- 細川父子の行動に当初は立腹したが、その行動ももっともである(理解を示す)。しかし、この上は自分に味方してほしい。
- 自分に味方してくれれば、摂津国か若狭国の支配権を細川家に与えたい。
- 今回信長を討ったのは、忠興等を取り立てようとしたからである。50日か100日の内に状況が安定すれば、光慶(光秀の子)や忠興に実権を渡して、自分は引き下がる。
この条々は有名だと思います。細川父子の行動に光秀は当初立腹しています。光秀にとって細川父子の行動は意外であり、それだけ味方になってくれることを期待していたのでしょう。今からでも細川父子に考え直してもらいたいという光秀の気持ちが伝わってくるようです。
しかし、光秀がこの条々を書いた前日(6月8日)、羽柴秀吉家臣・杉若藤七から細川家重臣の松井康之宛に、ある書状が出されていました。現在は原本が行方不明で写ししか残っていません。
杉若藤七書状の内容は、秀吉が「細川家を粗略に扱うことは無い」という書状を(細川家宛に)出した、というものです。肝心の秀吉書状は江戸時代初めに焼失したようです。
光秀が細川父子を味方に引き入れようとするのと同じ頃、秀吉と細川家は気脈を通じ合っていたのです。この秀吉書状と光秀条々のどちらが早く細川家に届いたのかはわかりませんが、光秀が条々を出した頃には、細川家の心は決まっていたのでしょう。
ちなみに、少し前にあった鳥取城攻めの頃から秀吉と細川家の関係は強化されていたようです。
細川忠利・光尚の信長文書収集
最後に(展示では最初だった)、なぜこれ程多くの信長文書が永青文庫に残っているのでしょうか?
それは、忠興の子・忠利と孫・光尚の活躍によります。忠利は忠興の隠居後に細川家当主となり、熊本藩の礎を築いた人物です。光尚は忠利の子で熊本藩主を継ぎました。
忠利は島原・天草一揆で細川家が軍功をあげたことをきっかけとして、先祖(祖父・藤孝や父・忠興)の武功に関心を抱きました。それから信長文書の収集に情熱を注ぎ、細川一門や家老等が所蔵する文書を熊本へ集約することを推進します。
中でも、藤孝が子・孝之(長岡休斎、忠興の弟、忠利の叔父)へ譲った信長文書群の熊本への移管に努めます。それ(実は孝之所蔵の内の一部のみだった)が忠興を経由して熊本へ来たのは約3年後です。
孝之から信長文書を受け取った忠興が、手元にある文書を忠利に渡すという内容の書状を出しますが、この書状が出された8日後に忠利は急死してしまいます。
忠利の遺志は子・光尚に引き継がれ、孝之のもとに残っている信長文書等の収集が継続されました。光尚の代になって整えられた信長文書群が、現在の永青文庫所蔵の信長文書群へと繋がっていったのです。
こうして見ると、永青文庫の信長文書群は単に「細川家に伝わった」のではないと思います。
藤孝・忠興の活躍があって信長文書が細川家宛に出され、忠利・光尚の努力があってそれが一ヶ所に集積されました。そして集めて終わりではなく、その後も代々の細川家の人々によって大切に守り伝えられたからこそ、今の姿があるのではないでしょうか。
今回の展示の全てを書くことはできませんが、多くの信長文書を一度に見ることができ、細川藤孝・忠興のこともより知ることができました。それだけではなく、歴史資料を集め、伝えるということの大切さを改めて感じることもできました。
永青文庫へのアクセス
最後に、永青文庫へのアクセスを書いておきます。
永青文庫へのアクセスは、ホームページ(最終閲覧:令和6年11月29日)では、次のようになっています。
- JR目白駅(「目白駅前」バス停)・副都心線雑司が谷駅出口3(「鬼子母神前」バス停)より、都営バス「白61 新宿駅西口」行きにて「目白台三丁目」下車徒歩5分。
- 都電荒川線早稲田駅より徒歩10分。
- 有楽町線江戸川橋駅(出口1a)より徒歩15分。
- 東西線早稲田駅(出口3a)より徒歩15分。
私は東京駅経由だったので、東京駅から隣の有楽町駅へ行き、有楽町線に乗って江戸川橋駅で下車して歩きました。駅の1a出口を出て、川沿いの小道を西へ歩きます。
高速道路出口の道の下の通路を通り、それから2つ目の橋(駒塚橋)を渡ってそのまままっすぐ、階段の道を上がっていきます。階段を登りきった少し先、左側に永青文庫の入口があります。
文庫の建物は道には面しておらず、入口はひっそりとしているので、行き過ぎないように注意しましょう。壁には永青文庫の説明板が埋め込まれ、門柱には「永青文庫」と書かれているので、わかると思います。
中に入って砂利道を奥へ進むと、文庫の建物が正面に見えてきます。
《参考文献》
- 永青文庫のパンフレット
- 公益財団法人永青文庫・熊本大学永青文庫研究センター編『織田信長文書の世界』(勉誠社、2024年)
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