2月11日は建国記念の日です。でも、「建国」とは何を指すのでしょうか?今回はなぜ2月11日が建国記念の日になったのか、由来となった神武天皇、それに加えて神話時代の天皇の在位期間がなぜ異常に長いのか?についてお話しします。
建国記念の日の「建国」とは?
建国記念の日は「国民の祝日に関する法律」によって昭和41(1966)年に定められました(厳密には、法律に基づき、政令によって日が決められた)。同法の第2条で建国記念の日は「建国をしのび、国を愛する心を養う。」とされています。
では、なぜ2月11日が建国記念の日なのか?「建国」とは何を指すのか?について見ていきます。考えられるのは・・・
①戦後に日本が占領から解放されて独立を回復した日?
②戦前、明治政府ができた日?
③大和朝廷ができた日?
④日本の国土(日本列島)ができた日?
さすがに④は無いですね。ちなみに日本列島が概ね現在の形になったのは約1万年前とされています。1万年前のそんな日が記録されているわけがありませんね。
③は、何をもって大和朝廷の成立とするのか?の問題があるでしょう。恐らく日まではわからない(明らかになっていない)と思います。
②は、私はどの日を指すのかわかりません(大政奉還の日?五箇条の御誓文が出された日?)が、とりあえず建国記念の日とは関係ありません。
①はサンフランシスコ講和条約が発効した昭和27(1952)年4月28日です。2月11日ではありません。
これだけ言っておいてなんですが、多分、普通に連想していたのでは正解にたどり着きません。
建国記念の日と紀元節
現在、建国記念の日は2月11日ですが、実は戦前、この日は「紀元節」という祝日でした。
紀元節の名を聞いたことがある人は、現在では少ないでしょう。いや、このブログの読者ならば意外に多いかも?
紀元節とは明治6(1873)年に定められた祝日で、戦後の昭和23(1948)年に施行された前述の「国民の祝日に関する法律」で廃止されました。それが昭和41(1966)年に建国記念の日として実質の復活を果たしたのです。
「紀元節が2月11日だったから、建国記念の日も2月11日になった」というのが正しいかもしれませんが、それでは納得のいく答えではないでしょう。ここからは建国記念の日の由来である紀元節の由来を見ていきましょう。
紀元節とは?
紀元節は初代天皇とされる神武天皇が即位した(とされる)日です。「日本書紀」によると、即位した日は旧暦の紀元前660年1月1日で、新暦に直すと紀元前660年2月11日となります。
明治政府はこの神武天皇即位の日を国家成立の起源とし、2月11日を紀元節とした(実は最初は別の日だったが、間もなく2月11日に変更された)のです。ちなみに、大日本帝国憲法の発布も紀元節に合わせて明治22(1889)年の2月11日でした。
歴史学的には神武天皇の存在や即位の事実、即位の日は明らかではありません。明治政府が神話に基づいて定めたことは明らかなので、現在の建国記念の日も神話が由来ということになります。
このため、2月11日を建国記念の日とすることには現在も反対の声があります。日本はアジア・太平洋戦争で敗戦しているので、特に反対の声があるのでしょう。
※以前の「太平洋戦争」等の呼称では地域が太平洋に限定されること等から、最近は中国大陸等を含む呼称として「アジア」を入れて「アジア・太平洋戦争」と呼ぶようになってきています。
このブログで賛否を論じるつもりはありませんが、他の祝日と比較すると、しっかりとした根拠があるとは言えないと思います。
戦前とはいえ、近代国家で神話を根拠にしているの?と思ってしまうかもしれませんが、紀元節は教育等を通じて浸透していきました。神武天皇が即位した紀元前660年から数えて2600年にあたる昭和15(1940)年には東京で記念式典が開催された他、全国各地でも祝賀行事が開催されました。
このように、神武天皇やその即位は戦前の日本では重要視されていたのです。教育の重要さと恐ろしさを感じるものでもあります。
神武天皇について
これだけでは簡単に終わってしまうので、神話とはいえ紀元節・建国記念の日の由来となった神武天皇について簡単に紹介します。
神武天皇は初代天皇ですが、実在は証明されていません。ですので、あくまで神話上のお話です。
神武天皇は名を神日本磐余彦尊(かんやまといわれひこのみこと)といいます。
日向(現在の宮崎県)を出発し、東へ向かいます(神武天皇の東征)。河内(現在の大阪府の一部)に至りますが、ここで地元勢力の妨害を受け、紀伊(現在の和歌山県と三重県南部)から迂回して大和を目指すことになります。
紀伊の熊野からは八咫烏(やたがらす)の先導を受け、大和に入りました。八咫烏はサッカー日本代表でもシンボルとして用いられている、足が3本ある烏です。
また、敵と戦っていた際に金色の鵄(とび)が神武天皇の弓の先端にとまり、敵はその光に目がくらんだということがありました。この出来事にちなんで、明治23(1890)年にできたのが金鵄勲章(きんしくんしょう)です。この勲章は抜群の武功を挙げた者に与えられました。
神武天皇は敵を降しながら大和に入った後、橿原の地に館を設け、辛酉の年(紀元前660年)に天皇の位につきました。76年間在位し、127歳で崩御したとされています。
この年齢は科学的な話をすると、ありえないですよね。現在でも世界最高齢で110~120歳ではないでしょうか。神話上では神武天皇以外にも、100歳を超える天皇が何人かいます。次は、なぜこんな年齢になっているかのお話です。
神話時代の天皇は、なぜありえないほど高齢なのか?
一つは神武天皇の即位年を紀元前660年と決めたことによります。
一方で、「古事記」や「日本書紀」の基になった「帝紀」という史料(現存しない)に歴代天皇の代数(人数)が書かれていたため、その代数は変えられませんでした。
代数(人数)はそのままに、初代神武天皇の即位を紀元前660年としたことにより、少ない代数で約1300年という長い期間をカバーすることになりました。そうすると、自然と1代あたりの年数がありえないほど長くなったのです。
例えば、実際は10代で300年であったとすれば1代平均30年ですが、10代で800年にしたければ1代で平均80年になってしまいます。
では、なぜ紀元前660年でなければならないのか?それは紀元前660年が辛酉の年にあたるためです。辛酉の年とは、十干十二支の組合せの一つです。十干十二支については以下の記事を参照してください。辛酉の年は60年に1回巡ってきます。
次に、十干十二支の組合せの中で、なぜ辛酉の年なのか?それは、60通りある十干十二支の組合せの中で、辛酉の年には変革が起きるとされているからです(変革の年に神武天皇が即位したことにしたかった)。
ん?辛酉の年(=変革の年)は60年に1回。それなら神武天皇の即位を紀元前660年にせずに、例えば紀元前300年とかにすれば、ありえない年齢にならなかったのでは?と思いませんか?
しかし、それができれば苦労はしません。辛酉の年の中でも紀元前660年にしなければならなかったのです。
実は、十干十二支の組合せが1周する60年が21回で1蔀(ぼう)となり、1蔀を経た後の辛酉の年には大変革が起きるとされていました。
日本に暦が伝えられた前の年がたまたま辛酉の年にあたり、そこから1蔀を遡って計算すると、紀元前660年が該当するのです。初代・神武天皇の即位を「変革の年」ではなく「大変革の年」にしたかったために、即位が紀元前660年と定められたのです。
現代では考えられないような設定理由ですが、「日本書紀」が作られた時代においては決して遊び心や適当さでやったのではありません。「紀元前660年即位」には真面目な理由があったのです。
歴史学という視覚でみると、ありえない設定ですが、一つの物語・神話として見るのはよいのではないでしょうか。
建国記念の日・2月11日に、はるか古代の人々が苦労して?導き出した理論?に思いを馳せるのもよいかもしれません。
《参考文献》
- 『日本史広辞典』(山川出版社、1997年)
- 米田雄介編『歴代天皇年号事典』(吉川弘文館、2003年)
- 外池昇『神武天皇の歴史学』(講談社選書メチエ、2024年)
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