継体天皇の皇位継承と上村松園「花がたみ」に秘められた恋物語

日本の古代、聖徳太子よりも前の時代に、皇位継承が危機に瀕したことがありました。結果として即位したのは継体天皇です。しかし、その皇位継承には疑問も出されています。そこにはどんな説があるのか?全てではありませんが、その一部を紹介します。

また、この皇位継承に関わって、有名な絵画である上村松園「花がたみ」に秘められた継体天皇の恋物語もお話します。

いつの時代の天皇?~血統の断絶~

武烈天皇と継体天皇……その名を聞いたことがある人は少ないでしょう。武烈天皇は25代目、継体天皇は26代目の天皇とされています。

時代は聖徳太子の頃よりも前になります。武烈天皇の没年は506年(生年不詳)、在位は498~506年とされています。父は先代の仁賢天皇、母は倭王武で有名な雄略天皇の娘です。武烈天皇には後継ぎがおらず、16代仁徳天皇から続いてきた男系が途絶えます。

この頃は、現在のように「男系男子が継承する」といった明確な決まりがあったかは不明です。なので、後継者不足とみるか、後継者不在(男系断絶)とみるかは何とも言えません。

継体天皇の登場

ここで皇位を継いだのが26代の継体天皇です。生没年は450~531年、在位は507~531年とされています(「古事記」と「日本書紀」で異なる)。

継体天皇の父・彦主人は近江(今の滋賀県)におり、母は越前(今の福井県の一部)出身で、彦主人の死後に越前に戻って継体天皇(もちろん当時はまだ天皇ではない)を育てた(=継体天皇は即位前に越前にいた)といいます。

ただし、この説の根拠となった「上宮記」(後述)の記述には疑問も出されており、近江で継体天皇を育てた(近江が継体天皇の即位前の本拠地であった)という説が妥当であろうと言われています。

ちなみに、「日本書紀」は越前説、「古事記」は近江説です。

武烈天皇が崩御した時、継体天皇は57歳でした。翌年に近江又は越前から来て即位し、20年後に大和に入ったと言われています。皇后は武烈天皇の妹とされています。

武烈天皇と継体天皇は遠い親戚?

さて、武烈天皇と継体天皇の血縁関係ですが、継体天皇は仁徳天皇(武烈天皇の高祖父=祖父の祖父)の弟の玄孫(孫の孫)です。?????ぱっとイメージできないですよね。とてつもなく遠い親戚です。そんな人が突然現れたら、あなたは親戚だと信じることができますか?失礼な言い方ですが、「本当に親戚ですか?」と思いませんか?

高祖父母の兄弟姉妹の玄孫と今でも交流がある人はどれだけいますか?私は近所に1軒だけそんな家があり、子どもの頃は(親戚とは知らずに)一緒に通学していました。

血縁関係への疑問

この血縁関係(系譜)は、何らかの史料に書かれていた事で、それを「上宮記」という史料が引用して記しています。「上宮記」は残っておらず、更に「釈日本紀」(鎌倉時代後半に書かれた「日本書紀」の注釈書)が「上宮記」を引用して記しています。これが継体天皇の系譜を詳しく伝える唯一の史料です。

しかし、「上宮記」記載の系譜は複数の系譜を合体させて作られたもの(創作)という説もあり、疑問が出されています。この系譜は疑問であるが、天皇家の一族には間違いないとの説もあります。

一方、従来の天皇家とは別の一族とする説もあります。

また、現在では天皇家は男系男子が継ぐものとされています。しかし、継体天皇の頃は男系・女系の一方のみ重視ではない(男系でも女系でも可)という考え方であったと言われています。

この考え方であれば、皇后が武烈天皇の妹(仁賢天皇の娘)であれば、女系での継承になるので、たとえ継体天皇が天皇家とは別の一族であっても問題無いことになります。

皇位継承に関する諸説

継体天皇は即位から大和に入るまで20年を要しています(20年という期間にも疑義がある)。このように長期間を要したのは、皇位継承への反対勢力がいたためとも言われます。また、別の地域に拠点を置いたため、大和に入る必要が無かったためとも言われます。

天皇家とは別の一族説では、別の勢力が北陸地方から大和にやって来て、20年の争いの後に皇位を奪った(王朝交代)とします。仁徳天皇や武烈天皇との血縁関係も、皇位継承を正当化するためのもの(創作)だというのです。

いずれの説が正しいのか、真偽は確定していません。研究の世界から一歩引いて見ると、いろいろな想像ができるのは楽しいかもしれませんね。

上村松園「花がたみ」

さて、そのような謎の多い継体天皇ですが、一つほほえましい?物語があります。

皆さんは明治から昭和にかけての女性画家・上村松園をご存じでしょうか?多くの女性画を描いた松園ですが、その中に継体天皇に関わる作品「花がたみ」があります(どんな絵かはインターネットでお調べくださいm(__)mすぐに出てきます)。

私は美術が苦手ですが、「花がたみ」は数少ない好きな絵画です。見た目も何か儚さ?のようなものを感じる(絵の題材とは少し違うかもしれませんが)のですが、もとになったお話を知った時に、ますます好きになりました。

この絵は謡曲「花筐(はながたみ)」が題材となっており、描かれている女性は「照日の前」という名です。

継体天皇と照日の前~離別と再会~

継体天皇は越前にいた時(近江説もありますが、花筐では越前という設定)に、照日の前という女性を寵愛していました。しかし、急ぎ都へ向かうために、最後に会うことができませんでした。天皇は、その代わりに別れの手紙と花かごを贈りました。

しかし、照日の前は天皇のことを忘れられず、後を追って越前を出るのです。

やがて都まで来た照日の前は、紅葉狩りに向かう天皇の前に現れますが、最初は怪しまれます(そりゃそうですよね)。しかし、照日の前の持つ花かごと手紙、更には照日の前が舞う姿を見て、天皇は照日の前であると確信します。めでたく天皇は照日の前を連れて帰ることとなった、というお話です。

改めて「花がたみ」を見ると

上村松園の「花がたみ」で照日の前が持つ花かごには花とともに、かつて天皇が贈った手紙も入っています。天皇の紅葉狩りの場面であることを示すように、周りには紅葉が散っています。

照日の前の表情は一心不乱に天皇を追ってきたものとされています(確かに、ひたすら男性を追う怖い表情に見えます…)。しかし、私には、天皇に会えて、ほっと安堵した表情にも見えます。

謡曲「花筐」はさすがに史実ではないでしょうが、天皇が遠く離れた越前から畿内に来て皇位を継承したが故に、このような物語が作られたのかもしれませんね。

※上村松園「花がたみ」は松柏美術館(奈良市)所蔵です。常時展示されているとは限りませんので、見に行かれる方は事前にご自身でお調べください。絵はとても大きく、照日の前がちょうど等身大ぐらいなので、何か魅入られるにも感じますよ。

《参考文献》

  • 『日本史広辞典』(山川出版社、1997年)
  • 水谷千秋『継体天皇と古代の王権』(和泉書院、1999年)
  • 米田雄介編『歴代天皇年号事典』(吉川弘文館、2003年)
  • 水谷千秋『継体天皇と朝鮮半島の謎』(文藝春秋、2013年)
  • 『上村松園展』(名古屋市美術館特別展図録、2013年)
  • 篠川賢『継体天皇』(吉川弘文館、2016年)

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