戦国時代のゲームをしたことがある人は、紀伊国あたりで堀内氏善(ほりうち/ほりのうち うじよし)という武将を見たことがあるかもしれません。地元の方には申し訳ありませんが、結構マイナーな武将でしょう。
堀内氏善とはどんな武将だったのでしょうか?堀内氏や氏善について知ることができる文献はあまり多くありません(後世に書かれたものはあります)。今回と次回はこれまでの研究書や古文書から、堀内氏や氏善について見てみたいと思います。
氏善以前の堀内氏
堀内氏は戦国時代、熊野から新宮地域(現在の三重県熊野市や和歌山県新宮市周辺)で勢力を拡大していきました。
その出自は清和源氏・近衛氏(公家)・熊野別当・北野筋代官・新宮の社家・山伏等の説があり、はっきりとは分かっていません。
15世紀中頃から新宮周辺を中心とする勢力として登場します。
堀内氏が初めて登場する史料は寛正3(1462)年12月2日付の畠山政長書状です。応仁の乱が起こる5年前です。畠山氏は応仁の乱で東軍の政長と西軍の義就に分かれて争いました。
この書状の中で、堀内氏は畠山政長に敵対する勢力として登場します。ただし、「堀内」と名字のみです。
次に名前が見られるのは16世紀初めで、畠山義就の孫の書状です。ここでも「堀内」とのみあり、義就の子孫に味方しています。
また、時期ははっきりしませんが、堀内氏重という人物も確認されています。氏重は氏善以前の戦国時代の人物とみられ、新宮の社家と考えられています。
年数は不明ですが、氏重が那智大社の有力者である実報院へ宛てた書状も2通残されています。また、長田高忠や中洲氏張という人物が実報院へ宛てた書状にも堀内氏重が登場します。(『新宮市史』史料編上巻、「二 古代・中世」の「六 七上綱と堀内氏の台頭」16・17号文書)
後世に書かれた『熊野年代記』には氏俊という人物も見られますが、やはり詳細は不明です。
堀内氏は新宮へ入る前に、佐野(現在の和歌山県新宮市佐野)に拠点を置き、その後(何年後かは不明)新宮へ進出したとされています。
織田信長・豊臣秀吉の時代に活躍する氏善は天文18(1549)年に生まれました。父は氏虎といい、現在の三重県御浜町や同尾鷲市へ進出したとされています。但し、氏虎という名前は後世の史料に登場するだけで、果たして当時氏虎という人物がいたのかは不明です。
天文19年、新宮を中心としていた氏虎は、少し北にある阿田和(現在の三重県御浜町)の塩田氏と共に北進して有馬氏と戦ったとされます。戦いは3年間続きましたが、塩田氏は有馬氏に敗れたとされるため、堀内氏もこの時は北進できなかったのでしょう。
『熊野年代記』では、氏虎は天正2(1574)年没とされています。
氏善の登場から織田信長への臣従まで
※以下、時期が明確でない事項もあり、次項の織田・豊臣期の出来事になる可能性もあります。
氏虎の子・氏善の家督相続は2説確認できました。1つは『戦国人名事典コンパクト版』で、氏善を氏虎の次男とし、兄・氏高の跡を継いで当主になったとしますが、根拠史料は示されていません。
もう1つは後世に書かれた『熊野年代記』等です。天正2(1574)年に父の氏虎から家督相続したとされます。この事実は同時代史料(後世に書かれたものではなく、氏善が活動したのと同じ時代に書かれた書状類や日記類等)では確認されていません。
氏善は熊野地域で勢力を拡大しますが、これも同時代史料ではほとんど確認できません。その姿が描かれるのは後世に書かれた軍記等です。
熊野地域の有馬荘(現在の三重県熊野市)あたりには榎本氏(有間庄司)という一族が勢力を持っていました。
明確な年は分かりませんが、江戸時代に書かれた『紀伊国風土記』では、16世紀後半に堀内氏善は榎本氏に養子として入り、やがて榎本氏を併合したとされています。なお、養子として入ったのは、氏善の弟(子とも)・楠若(氏時)で、永禄元(1558)年という説もあります。
これにより、榎本一族が持っていた権力基盤を堀内氏善が引き継いだことが、堀内氏がこの地域随一の大名になった理由ではないかとの説があります。
これが確実かはわかりませんが、有馬荘内の安楽寺には堀内安房守(氏善)の墓とされる宝篋印塔があります(但し、形式からは15世紀後半~16世紀前半頃の塔とされ、氏善が亡くなった時期よりも100年程古いものとなる)。
また、熊野地域にある京城という山城は石垣を伴い、この地域屈指の複雑な城とされています。この城は堀内氏善が築城したという言い伝えがあります。しかし、遺構の状況から、15世紀後半~16世紀前半に榎本氏が築城し、16世紀中頃以降に堀内氏がこの地域に勢力を拡大して大きく改変されたと考えられています。
さて、織田信長や豊臣秀吉のもとで水軍として活躍した武将に九鬼嘉隆がいます。九鬼嘉隆は三鬼城(現在の三重県尾鷲市)で三鬼氏と共に堀内氏善に対抗します。天正4(1576)年、氏善は尾鷲や木本(現在の三重県熊野市)の勢力と共に三鬼城を攻撃します。
これに対し、織田信長の次男・信雄は九鬼嘉隆に三鬼城への援軍を命じます。しかし、三鬼城を守っていた加藤甚五郎は長島城(現在の三重県紀北町)へ退却してしまいます。氏善は更に、天正4(1576)年の内に(天正10年とも)長島城をも攻め落とします。
これ以降、織田氏や九鬼氏はこの地域に進出しなかったようです。
なお、氏善の妻は九鬼嘉隆の養女とされています。このことから、堀内氏と九鬼氏は和解した可能性があるとされています。
これ以降、氏善は熊野地域で勢力を拡大したと考えられます
天正5(1577)年に室町幕府将軍・足利義昭が京都から追放されます。義昭は毛利氏を頼りますが、毛利氏の重臣(一族)小早川隆景は氏善に対して、紀伊国雑賀(織田信長と敵対していた勢力)へ加勢するように要請します。
この頃には、まだ氏善は織田信長に敵対していたということになりますが、やがて信長に従います。
織田信長・豊臣秀吉のもとで
天正9(1581)年2月には信長が、氏善の相賀(伊勢・紀伊国境、現在の三重県南伊勢町)から新宮までの紀伊国の知行を認める朱印状を出しています。
この朱印状では宛先に「熊野新宮神主堀内新次郎」とあります。堀内氏を「新宮社家」と記した古文書もあり、神社の関係者と地侍の両方の側面を持ったと考えられています。なお、氏善は「神主」とあるのが「別当」の誤りであるとして、信長に朱印状の再交付を求めたとも言われます。
この頃には、氏善の勢力は新宮と共に熊野三山の一つである那智にも及んでいます。これ以前から氏善は那智への勢力拡大を進めていました。那智の有力者の一つに実報院があり、堀内氏は実報院と関係を深めています。先に登場した堀内氏重も実報院と連絡を取り合っていました。
氏善は実報院と友好関係を築く一方、那智の廊之坊とは戦い、これを破っています。
氏善は子の道慶を実報院へ養子として入れています。また、前述のように有馬氏にも弟(子とも)の楠若(氏時)を養子として入れますが、その前に実報院が氏時の寄親となっています。
氏善と実報院の関係については、何点か史料も残されていますので、次回で詳しく見ていきます。
天正10(1582)年6月の本能寺の変で織田信長が亡くなった後、信長家臣の中から羽柴秀吉が台頭してきます。秀吉は天正12(1584)年には小牧・長久手の戦いで織田信雄・徳川家康と戦います。
同じ天正12年、氏善は田原・佐部(現在の和歌山県串本町田原・同佐部。新宮よりも南)まで勢力を広げ、西隣の古座の高河原氏と争います。
天正13(1585)年、秀吉は紀州攻めを行います。前年の小牧・長久手の戦いの時に秀吉に敵対した勢力の一つが紀伊国(紀州)の勢力でした。紀州攻めの過程で新宮の堀内氏善も人質を差し出して秀吉に臣従します。
氏善は早くから秀吉に臣従したと言われています。しかし、三重県熊野市の山間部にある、豊臣系の石垣を備えた赤木城と前述の京城の位置付けを考えると、最初は氏善が秀吉と対立関係にあったのではないかという説もあります。詳細は以下の記事をご覧ください。
紀州攻めの後、紀伊国は秀吉の弟・秀長が支配することになります。秀長は臣従した紀伊国の者の本領を安堵します。氏善は2万7千石の所領を認められ、新宮に配置されます。ただ、実際にどの範囲までを支配していたのかは不明です。
新宮と言えば新宮城があります。氏善期の新宮城については明確ではないようです。ただ、関ヶ原の戦いの際には氏善の新宮城が攻撃される等、当時の史料からすると、城は存在していたようです。また、ある程度の城下町があったこともわかっています。
後世に書かれた『紀伊続風土記』では、現在新宮市内にある全龍寺が堀内氏の屋敷跡とありますが、これが新宮城であるのかは不明です。
また、氏善の家臣団については、「堀内家中知行附」という史料から窺えます。この史料によると、直臣が260人、旧有馬氏家臣が18人となっているそうです。ただし、この史料は戦前に書かれた『紀伊南牟婁郡誌』に掲載されているものの、原本は発見されていません。このため、この「堀内家中知行附」の信憑性は不明です。
紀州攻めがあった同年、秀吉は四国に出兵します。この時は、秀吉は四国へ渡海せず、弟・秀長が総大将となりました。氏善は秀長のもとで出陣を命じられています。
天正14(1586)年、秀吉の紀州攻めで没落した牢人達が大規模な一揆を起こします。秀長は家臣に鎮圧を命じ、氏善も出陣したとみられる史料が残っています(次回紹介)。この時は1ヶ月ほどで鎮圧されますが、2年後にも秀長は兵を送っているので、まだ抵抗勢力は残っていたようです。
氏善は豊臣政権に従い、その権威をもとに熊野地域を支配下に収めようとします。上記の一揆鎮圧に乗じて熊野を支配下に入れていったと考えられています。
天正19年の可能性がある史料によると、氏善は豊臣秀吉から檜皮の調達を命じられています。
さて、この地域の水軍と言えば、前述の九鬼嘉隆率いる九鬼水軍が有名ですが、堀内氏善も熊野水軍を率いていました。当時の史料からもそのことがわかります。
天正13(1585)年の四国攻めや同18年の小田原攻め、文禄の役(朝鮮出兵)でも氏善が水軍を率いて参戦した、或いは参戦した可能性があります。朝鮮出兵(文禄の役)での氏善の軍勢は600人という史料があります。また、釜山にある加徳島の守備として、藤堂高虎らとともに氏善も574人の兵を率いて配置されています。
当時朝鮮では日本軍による虎狩りが行われ、氏善も1匹捕獲したと、史料で述べられています。
慶長の役でも堀内氏を含む可能性がある紀伊国の水軍は出陣しています。秀吉没後の朝鮮からの引き上げに際しては、九鬼嘉隆・堀内氏善等に大安宅・小安宅船100艘の用意が命じられています。
慶長3(1598)年8月18日、秀吉が亡くなります。直後の9月に紀伊国日高郡山地地域(現在の和歌山県龍神村辺り)で一揆が発生します。この時に紀伊国を領していたのは増田長盛でした。
堀内氏善も一揆平定に出陣を命じられ、氏善が首1つを獲ったとあるそうです。
関ヶ原の戦いと氏善の没落
秀吉が亡くなった2年後、慶長5(1600)年に徳川家康と石田三成が戦った関ヶ原の戦いが起こります。
堀内氏善は西軍に味方し、伊勢方面に向けて兵を出すと共に、新宮城に籠城しています。氏善は九鬼嘉隆のいる鳥羽城に入ったともいいます。
西軍が敗れた後、新宮城は東軍の桑山貞晴らに攻撃され、落城します。氏善は、最後は京城に籠城したという言い伝えもあります。
氏善が西軍に味方した理由は不明ですが、『熊野市史』は氏善の妻が九鬼嘉隆(西軍)の娘(養女)であったことや、豊臣家によって現在の地位を得ることができたためと推定しています。
氏善は戦後に改易となり、加太村(現在の和歌山県和歌山市加太)に隠棲した後、加藤清正のもと(肥後国)に赴きます。10月には桑山一晴が新宮に入っています。氏善が亡くなったのは肥後国熊本で、没年は『寛政重修諸家譜』によると慶長20(1615)年4月、67歳とあります。
ただし、没年は2説あって、『寛政重修諸家譜』と同じ慶長20年とするのは『戦国人名事典コンパクト版』や『鵜殿村史』です。一方、『新宮市史』や『熊野市史』では慶長14年としています。
氏善の子
最後に、氏善の子ども達について見ていきます。
①氏弘
氏善の子の内、次男とも弟とも言われる氏弘は氏善が改易された後、浪人します。
慶長20(1615)年の大坂夏の陣では大坂城に入って紀伊国の一揆を煽動しました。落城後に捕まりますが、弟(又は甥)の氏久が千姫(豊臣秀頼室で徳川秀忠の娘)を秀忠の陣へ送り届けたため、一族は許されます。
『戦国人名事典コンパクト版』によると、氏弘は藤堂高虎の家臣となったとありますが、私が藤堂家の史料を見た限りでは、その形跡は確認できませんでした。氏善の七男である右衛門兵衛氏治は藤堂家の家臣となっていますが、それは高虎の没後です。
②氏久
氏善の次男とも言われる氏久は慶長20年に豊臣秀頼の招きによって大坂城に入ります。落城時に千姫を守って城を出、幕府軍へ送り届けました。
その功績によって、後に秀忠に仕え、500石を与えられて旗本になりました。
明暦3(1657)年、二条城の番を務めていた時に63歳で亡くなりました。子孫は少なくとも寛政期まで続きました。
③氏清
氏清は氏善の四男とされますが、詳細は不明です。氏清の子・氏衛は寛文12(1672)年に幕府に仕えます。この家系も子孫は少なくとも寛政期まで続きました。
④氏治
氏治は氏善の七男とされます。改易後の氏善と一緒に加藤清正のもとに赴き、家臣となります。
清正は慶長16(1611)年に亡くなり、子の忠広が跡を継ぎます。しかし、その後加藤家では家臣の対立が起き、家中統制が安定しませんでした。結局、寛永8(1631)年に加藤家は改易となり、氏治も浪人となります。
同年、氏治は藤堂高虎の子・高次に仕官し、1500石を与えられます。明暦元(1655)年に亡くなりました。
氏治の跡は子の藤太夫が継ぎ(250石に減封)、引き続き藤堂家に仕えました。
堀内藤太夫の名は寛政期とされる藤堂家の分限帳(家臣名簿)まで名前があるので、この頃までは確実に藤堂家の家臣だったようです。分限帳で見る限りは寛政期まで250石です。
寛政期の後は藤太夫の名前は分限帳で確認できません。しかし、藤太夫と入れ替わるように、250石(後には200石や180石)で別の堀内姓の家臣が継続して見られます。子孫は藤太夫を名乗らなかったものの、幕末まで藤堂家に仕えたのかもしれません。
以上、堀内氏について、戦国武将の氏善を中心に見てきました。堀内氏の当初の状況は不明な点が多くありますが、織田・豊臣時代には氏善が台頭し、特に朝鮮出兵では水軍を率いて活躍している様子が当時の史料からわかります(次回の記事参照)。
氏善はゲームではあまり能力値は高い方ではないでしょう。関ヶ原の戦いで改易とはなりますが、氏善は堀内氏を熊野・新宮を中心とした一大勢力まで成長させました。織田・豊臣という強大な政権のもとで勢力を拡大しつつ生き残ったのは、氏善にそれだけの能力が備わっていたと見ることができると思います。
次回は堀内氏善に関して私が確認できた古文書を見ていきます。
《参考文献》
- 笠原正夫「徳川頼宣の入国と所領支配の確立」(安藤精一編『紀州史研究1 藩政史特集』、国書刊行会、1985年)
- 『寛政重修諸家譜』第12(続群書類従完成会、1993年)
- 『新宮市史』(新宮市役所、1972年)
- 『新宮市史』史料編上巻(新宮市、1983年)
- 『熊野市史』上巻(熊野市、1983年)
- 阿部猛・西村圭子編『戦国人名事典コンパクト版』(新人物往来社、1990年)
- 『三重県史』資料編近世1(三重県、1993年)
- 『鵜殿村史』通史編(鵜殿村、1994年)
- 上野市古文献刊行会編『高山公実録』上巻(清文堂出版、1998年)
- 播磨良紀「堀内氏と那智―戦国・織豊期の紀南支配を通じて―」(『和歌山地方史研究』41号、2001年)
- 上野市古文献刊行会編『公室年譜略』(清文堂出版、2002年)
- 『藤堂高虎関係資料集 補遺』(三重県、2011年)
- 伊藤裕偉『聖地熊野の舞台裏』(高志書院、2011年)
- 佐伯朗『[増補]藤堂高虎家臣辞典 附分限帳等』(2013年)
- 『三重県史』通史編近世1(三重県、2017年)
- 播磨良紀「秀長執政期の紀州支配について」(柴裕之編『豊臣秀長』、戎光祥出版、2024年)※初出は『和歌山地方史の研究』(宇治書店、1987年)
- 矢田俊文「豊臣氏の紀州支配」(柴裕之編『豊臣秀長』、戎光祥出版、2024年)※初出は『和歌山県史』中世第四章第二節第四項、1994年」

