以前に三重県桑名市が徳川四天王・本多忠勝の最後の領地であり、終焉の地であることを紹介しました。今回と次回は、JR・近鉄桑名駅をスタートし、桑名市街地と多度で忠勝ゆかりの地をいくつか巡ってみたいと思います。
忠勝と桑名の紹介は下記の記事を御覧ください。
桑名へのアクセス
桑名の市街地にはJR・近鉄桑名駅があります。また、養老鉄道の桑名駅、三岐鉄道の西桑名駅もあります。名古屋駅からだと、JRか近鉄になります。
大阪・京都からの場合は新幹線(名古屋からJR在来線か近鉄)・JR(関西線)・近鉄等の方法があります。
名古屋駅からJRの場合は快速で20~25分、普通で約30分です。近鉄の場合は特急(全席指定・有料、一部の特急は通過)で約16分、急行で約20分です。
車の場合は東名阪自動車道の桑名インターチェンジからほぼ一直線で市街地まで行けるようです。市街地の主要道路は広いので、走りやすいと思います。
最後の多度大社は車の方が便利かもしれません。
桑名城跡
まずは忠勝が改修して居城とした桑名城跡(九華公園)へ向かいます。桑名駅前から三重交通バス長島温泉行きに乗車します。バスは昼間であれば1時間に3~4本あります。
田町バス停(桑名駅から5~10分)で下車し、東へ真っすぐ徒歩約5分です。バスを使わない場合、桑名駅から田町バス停までは徒歩約15分です。
到着したのは桑名城跡の北西部分です。このあたりは桑名城の三之丸にあたります。ここには駐車場もあります(10~17時、普通車250円)。
ここでいきなり本多忠勝の銅像がお出迎えです。有名な鹿角兜・袈裟懸けの大数珠を身に着け、後ろには槍(恐らく蜻蛉切)が立っています。
忠勝らしい堂々とした姿です。この迫力、戦ったら勝てる気がしませんよね。
桑名城跡への入口は、忠勝銅像とは道を挟んだ反対側です。現在、城跡は九華公園として整備されています。
戦国時代、後に桑名城となる一帯には複数の城がありました。これらの城の城主は織田信長の伊勢侵攻で降伏し、その後は滝川一益が桑名を支配しました。一益は桑名城から見ると西の方の走井山にあった矢田城に入り、後に長島城へ移って桑名には代官を置いて支配を続けました。
忠勝は慶長6(1601)年に桑名に移ると、この複数の城の内で「東城」と呼ばれていた「伊藤氏城」を本拠地としました。
「慶長自記」という史料によると、慶長6年6月から城の普請が始まり、2年後の慶長8年には本丸・二之丸が完成したようです。
桑名城は本丸を中心として南に二之丸、北に三之丸が配置されています。天守閣は本丸の北東角にありましたが、元禄14(1701)年に焼失し、再建されませんでした。
また、「慶長自記」には忠勝が桑名城の改修と共に、城下町の整備も進めたことが記されています。町中の家や蔵を全て取り除き、「慶長の町割」と呼ばれる整備を行いました。桑名の町衆が町づくりに協力して惣堀を掘ったという記載もあるようです。
話を桑名城跡巡りに戻します。桑名城跡へ入ってしばらく行くと、左(東)へ堀を渡る橋があり、この橋を渡ると本丸跡です。本丸跡には現在、鎮國守國神社があります。
この神社は忠勝と直接関係はありませんが、後に桑名藩主となった松平氏によって、前任地の陸奥國白河で創建され、転封に伴って桑名に移転しました。松平定綱と松平定信(寛政の改革の時の幕府老中)を祀る神社です。
この神社の拝殿の右奥に桑名城の天守台跡があります。拝殿で参拝して帰ってしまいそうですが、実はその奥にひっそりと天守台跡があるのです。
この他、本丸には神戸櫓跡(本丸南西角)や辰巳櫓跡(本丸南東角)があります。
江戸時代の絵図を見ると、どちらの櫓も石垣の上にあります。しかし、現在はしっかりとした石垣の土台は無く、土が盛られた高い場所になっているという感じです。
本丸の南には、堀を挟んで二之丸跡があります。この堀は、江戸時代よりも拡張されている部分があり、当時とは少し形が異なります。本丸とは赤い欄干の橋で繋がっていますが、江戸時代にはこの位置に橋はありません。
本丸の西には堀を挟んで細長い曲輪(忠勝銅像前から歩いてきた曲輪)があります。その西には更に堀があります(下の写真)。この堀の西には武家屋敷があり、その西に堀があり、町人地となります。
本丸→堀→細長い曲輪(忠勝銅像前から歩いてきた曲輪)→堀(下の写真)→武家屋敷→堀→町人地 です。
本多忠勝銅像の所に戻って、そこから西へ橋を渡ります。橋を渡った所で右折して真っすぐ進み、広場を抜けて揖斐川沿いに着くと、復元された蟠龍櫓があります。ここはかつての城の北西の端にあたります。
蟠龍櫓は東海道七里の渡しの近くにあり、東海道を通る人々の目に入る桑名城のシンボルでした。歌川広重の「東海道五十三次」にも描かれています。
櫓が建てられた時期は不明なようですが、正保年間(1644~48)の絵図には既に描かれています。
「蟠龍」とは天に昇る前のうずくまった状態の龍を表しているそうです。龍は水を司る聖獣とされているため、蟠龍櫓は航海の守護神として(七里の渡しから船出する人々を見守るために)ここに建てられたのではないか、と言われています。
蟠龍櫓は中に入ることができ、2階には桑名に関する展示が少しあります(解説してくれる人もいました)。また、2階からは真横を流れる揖斐川を望むことができます。入れるのは9時30分~15時で、月曜(祝日の場合は翌日)休館なので、御注意ください。
桑名城には当時の建物は残っておらず、城というよりも公園という言葉が当てはまる感じでした。それでも、曲輪や堀跡がある程度残っている点は城を感じさせます。復元された蟠龍櫓を含めて、十分に往時の雰囲気を感じ取ることができると思います。
桑名宗社
桑名城の蟠龍櫓を見た後、先ほど右折した橋の所(忠勝銅像前から橋を渡った所)まで戻ります。そこから西へ歩いて行き、橋を渡ります。渡ってすぐの交差点を左折します。少し歩くと、右に鳥居が見えます。ここが桑名宗社です。
ここにはかつて本多忠勝が慶長7(1602)年に寄進した鳥居がありました。その鳥居は寄進から約50年後に暴風で倒壊し、現存していません。次いで松平氏によって寛文7(1667)年に再建されますが、これも元文5(1740)年に倒れ、寛延元(1748)年に再建されて現在に至ります。鳥居の柱には寛延元年の銘文が確認できます。
この先には大きな楼門があります。駐車場は楼門の左にあります。
この日は七五三のお参りで賑わっていました。
桑名宗社は桑名神社と中臣神社を併せて祀った神社で、桑名の総鎮守とされています。
桑名神社の祭神は当初、桑名首の祖神である天久々斯比之命でしたが、後に多度大社と同じ天津彦根命(天照大神の第三子、天久々斯比之命の父)も祀られました。桑名首はその名前から古来桑名の地を治めた人(一族?)でしょうから、その祖神を祀る桑名神社はまさに桑名の鎮守に相応しいでしょう。
中臣神社はかつて桑名神社よりも西方の山にありましたが、正応2(1289)年に桑名神社の境内に遷りました。7年後には奈良から春日神4柱を勧請して合祀し、春日大明神とも称しました。やがて春日神の信仰が盛んとなるに伴って桑名神社の名よりも春日の名で呼ばれるようになったようです。
両神社は室町幕府や織田信長から所領を寄進される等しました。信長の家臣で一時期桑名を治めた滝川一益は春日社殿を造営しています。
関ヶ原の戦いの後は徳川家康から神領を寄進されます。本多忠勝は本社・末社の造営や塀の修繕、前述の鳥居の寄進等を行いました。慶長8(1603)年には桑名城祈願料として毎年50石を寄進することとしました。
忠勝の没後も子・忠政や本多氏に代わって藩主となった松平氏によって鳥居や塀の寄進・修理等が行われました。忠勝が始めた寄進等がその後の藩主達にも受け継がれたのです。
今回はここまでです。次回は忠勝の菩提寺と多度大社を巡ります。
※記事の内容は2024年11月時点のものです。
《参考文献》
- 『桑名市史』本編(桑名市教育委員会、1959年)
- 『目でみる桑名の江戸時代』(桑名市教育委員会・桑名市立文化美術館、1983年)
- 『徳川四天王の城―桑名城絵図展―』(桑名市博物館展覧会図録、2016年)
- 『本多忠勝と桑名』(桑名市博物館特別企画展図録、2021年)
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