徳川四天王として名高い本多忠勝。少し戦国時代が好きな人ならまず知っている武将でしょう。数多くの戦いに出て、生涯で傷一つ負わなかったという猛将です。関ヶ原の戦いが終わり、平和な時代になった後、忠勝は伊勢国桑名(今の三重県桑名市)に転封となります。今回はあまり知られていない桑名と本多忠勝についてのお話です。
関ヶ原の戦いと本多忠勝
本多家は徳川家の家臣で、忠勝は天文17(1548)年に生まれました。初陣は永禄3(1560)年の桶狭間の戦いの際、徳川家康の大高城への兵糧入れです。その後、忠勝は三方ヶ原の戦いや長篠の戦い、小牧・長久手の戦いなど、名だたる合戦に参戦します。
徳川家康が関東に転封となったことに伴い、忠勝は上総国(今の千葉県)大多喜城主(10万石)となります。そして関ヶ原の戦いを迎えます。
関ヶ原の戦いには参戦しますが、本多家の主力部隊は長男忠政と共に、東山道を進む徳川秀忠に従ったため、忠勝は僅かな兵力しかなかったといわれています。しかし、この通説には疑問も出され、実際には1000人ぐらいはいて、他の大名にも匹敵する兵力であったとも言われています。忠勝は島津義弘軍と戦うなど、活躍します。
忠勝の桑名転封
さて、忠勝と言えばどうしても合戦での活躍が目立ちます。関ヶ原の戦いが終わり、平和な時代となった(実際は大坂の陣や島原の乱が起きますが)後の忠勝はどうなったのでしょうか?それを知る人はあまり多くないのではないでしょうか。
忠勝は関ヶ原の戦いの後、慶長6(1601)年に上総国大多喜から伊勢国桑名へ転封となります。
桑名と言えば、特に幕末には幕府を最後まで支えようとした忠臣・松平氏というイメージでしょうか?実は松平氏よりも前、江戸時代最初の桑名藩主は本多忠勝です。本多氏は忠勝の没後、元和3(1617)年に子の忠政が播磨国(現在の兵庫県南部)姫路へ転封となります。
本多氏の支配は僅か16年であったため、あまり桑名=本多氏というイメージが無いかもしれません。
しかし、桑名は東海道の宿駅で、尾張の熱田へ渡る七里の渡しがあり、交通の要衝です。西国から東国へ抜ける主要路の途中にある彦根・桑名を井伊氏・本多氏が抑えるという配置はよく考えられたものではないでしょうか?
桑名・領内の開発
桑名に入った忠勝は桑名城の改修と城下町の整備を行います。城は拡張し、城下町は町割りを行い、新たに堀を掘って町を囲むようにしました。城下を流れる川の流路を変える工事も行っています。
また、城下町以外でも用水路を建設したり、多度大社等の寺社を復興して寄進も行ったりする等の事業にも取り組みました。
本多氏は短期間で転封してしまったため、次に藩主となった松平氏のもとでも開発は継続されました。
このように、忠勝は現在につながる桑名の基礎を築いた人物と言えるのではないでしょうか。合戦での活躍といった武功が目立つ忠勝ですが、このように藩の政治もしっかりと行っていたのです。
終焉の地・桑名
忠勝は慶長9(1604)年から病気がちになりますが、隠居を願い出ても許可されませんでした。
平和な時代になって、武功派の忠勝は桑名の地へ遠ざけられたという話も聞きます。しかし、桑名の重要性や、隠居が許可されなかったことを考えると、やはり幕府にとって忠勝は重要な家臣であったことがわかると思います。
忠勝は慶長15(1610)年10月18日、桑名で亡くなります(63歳)。徳川四天王・本多忠勝の終焉の地は桑名なのです。忠勝の墓は桑名城下町の浄土寺にあります。
《参考文献》
- 『徳川四天王 天下統一の立役者たち』(岡崎市美術博物館特別企画展図録、2006年)
- 『三重県史』通史編近世1(三重県、2017年)
- 『本多忠勝と桑名』(桑名市博物館特別企画展図録、2021年)
コメント