なぜ「奈良天皇」がいないのに、「後奈良天皇」がいるのか

※令和7年8月3日、後深草・後小松・後柏原・後水尾・後西天皇の名のもとになった天皇と、「後●●天皇」となった理由について、詳細を追記しました。

戦国時代に後奈良天皇という天皇がいます。「後奈良」というぐらいだから、奈良天皇もいたんだろう。と思って調べると、奈良天皇が出てこない。

このように、「後●●天皇」はいるのに、「●●天皇」は教科書や資料集、事典で出てこないという場合があります。実は、「●●天皇」は知られていないだけで、いるのです。どういうことなのか、解説します。

天皇と言えば誰?

歴史上、神話時代も含めれば現在まで126代(南北朝時代の北朝を含めると131代)の天皇がいます。その中で有名な天皇と言えば、誰が思い浮かびますか?

  • 初代とされる神武天皇?
  • 聖徳太子を摂政とした最初の女帝・推古天皇?
  • 大仏を造った聖武天皇?
  • 平安京に都を移した桓武天皇?
  • 承久の乱の後鳥羽天皇?
  • 鎌倉幕府を倒した後醍醐天皇?
  • 日本の近代化の時代の明治天皇?
  • 激動の時代の昭和天皇?

さて、この中でも2人の「後●●天皇」がいます。「後」が付くということは、「後」が付かない天皇が先にいたことになります、普通に考えれば。

「後」の付く天皇は何人?2つのタイプの違いは何?

ところで「後●●天皇」が何人いたかというと、

後一条・後朱雀・後冷泉・後三条・後白河・後鳥羽・後堀河・後嵯峨・後宇多・後伏見・後二条・後醍醐・後村上・後亀山・後光厳・後円融・後花園・後土御門・後陽成・後光明・後桜町・後桃園の22人と

後深草・後小松・後柏原・後奈良・後水尾・後西の6人

の合計28人です。22人と6人の違いは何でしょうか?少し考えてみてください。

天皇の名前は後から付けられる

最初の「後●●天皇」は平安時代の後一条天皇で、母は藤原道長の娘彰子です。道長や彰子は今年(2024年)の大河ドラマにも登場していますね。

また、原則として「●●天皇」という名前は天皇の崩御後に付けられる名前です。昭和天皇も生前は「昭和天皇」とは呼ばれていません。

しかし、例外が後醍醐天皇で、平安時代の醍醐天皇を理想とし、自ら「後醍醐天皇」と名乗りました。これぐらいの強い意志が無いと、鎌倉幕府打倒や天皇親政(直接政治を行うこと)はできなかったのかもしれませんね。

2つのタイプの違い

さて、話を元に戻します。22人と6人の違いは何なのか?

例えば、22人の中の後一条天皇や後桜町天皇の場合、以前に一条天皇や桜町天皇がいました。後醍醐天皇は前述のとおりです。

それに対して、例えば6人の中の後奈良天皇ですが、「奈良天皇」って聞いたことありますか?後水尾天皇に対する「水尾天皇」は?インターネット等で調べてみてください。恐らくそのような名前はすぐには出てこないでしょう。これが22人と6人の違いです。

では、なぜ「●●天皇」がいないのに、「後●●天皇」という名前になったのでしょうか。実は、「●●天皇」がいた、というのが答えです。

先程、調べても「すぐには出てこない」と言いましたが、「いない」とは言ってません(←ごめんなさい)。

天皇には別の呼び方がある場合も

例えば奈良天皇は平安時代の平城天皇の別称です。一般的には知られていません。

平城天皇は次の嵯峨天皇に譲位した後、寵愛する藤原薬子やその兄仲成の協力を得て、かつての奈良平城京に移って再度天皇になろうとして失敗します(藤原薬子の変)。これが奈良天皇とも呼ばれた理由でしょう。そういえば奈良県のJRの駅名「平城山」は「ならやま」と読みますね。

とはいえ、後奈良天皇の名がなぜ平城天皇に由来するのかはわかりませんでした。ただ考えられる事は、平城天皇(奈良天皇)が桓武天皇の子、後奈良天皇が後柏原天皇の子であることです。

後述のように桓武天皇は柏原天皇とも呼ばれました。その「柏原」の名を取ったのが後柏原天皇です。つまり、桓武(柏原)―平城(奈良)の親子関係から、後柏原天皇の子であることを理由に後奈良天皇となったのではないかと想像します。根拠はありません。

その他の5人については・・・

①深草天皇・後深草天皇

後深草天皇に対する深草天皇は、平安時代初めの仁明天皇です。仁明天皇は崩御後に深草陵に葬られたことから、深草天皇の別称があります。後深草天皇は深草北陵に葬られていることが、後深草天皇の名になった理由でしょうか(確証は得られませんでした)。

②小松天皇・後小松天皇

後小松天皇に対する小松天皇は、平安時代前期の光孝天皇です。光孝天皇は崩御後に後田邑陵に葬られました。この後田邑陵は『日本紀略』に「小松山陵」とあり、この名称から小松天皇の別称があります。

なぜ後小松天皇の名になったのかはわかりません(インターネット情報では、後小松天皇自身の遺命とあるが、根拠は不明)。なお、鎌倉幕府滅亡後、南北朝に分かれていた朝廷は、後小松天皇のもとに一本化されました。

③柏原天皇・後柏原天皇

後柏原天皇に対する柏原天皇は、有名な桓武天皇です。桓武天皇は崩御後に柏原陵に葬られたことから、柏原天皇の別称があります。なぜ後柏原天皇の名になったのかはわかりませんでした。

④水尾天皇・後水尾天皇

後水尾天皇に対する水尾天皇は、清和源氏の祖として有名な清和天皇です。清和天皇は崩御後に水尾山陵に葬られたことから、水尾天皇の別称があります。

後水尾天皇は自らの名を「後水尾」とするように遺命していました。理由については、天皇が述べた史料が残っていないので、推定の域を出ないようです。

清和天皇は3人の兄を越えて即位しました。後水尾天皇も2人の兄を越えて即位しました。その境遇が似ていたから、というのが一般的な説です。「後水尾院御葬送記」では、在位期間が同じ18年であったことと、譲位後に出家して法皇になったという共通点があったからと記されています。

ちなみに、後水尾天皇の中宮(妻)は江戸幕府2代将軍・徳川秀忠の娘・和子(東福門院)で、子の明正天皇は徳川家の血を引く天皇となっています。後水尾天皇は、江戸時代初めの朝廷と幕府が対立を繰り返しながら、やがて融和に至る時代の天皇でした。

⑤西天皇・後西天皇

最後に、後西天皇に対する西天皇(西院帝)は、平安時代初めの淳和天皇です。淳和天皇は仁明天皇への譲位後、淳和院に住みます。この淳和院は西院とも呼ばれていました。確証は得られませんでしたが、恐らく西院に住んだことから西院帝と呼ばれたのではないでしょうか。

後西天皇は経歴・境遇が淳和天皇に似ていたため、後西天皇という名になりました。これについては、西院帝が由来であるため、後西院天皇とすべきという説もあります。

天皇の名前ですから、意味も理由も無く付けることはさすがに無いようですね。「後●●天皇」にもきちんとした根拠があったのです。

《参考文献》

  • 『日本史広辞典』(山川出版社、1997年)
  • 米田雄介編『歴代天皇年号事典』(吉川弘文館、2003年)
  • 久保貴子『後水尾天皇』(ミネルヴァ書房、2008年)

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