現在、女性天皇をめぐるニュースがしばしば話題になります。現代の皇室典範では女性天皇は認められていませんが、江戸時代までは女性天皇が存在しました。時代は飛鳥・奈良時代と江戸時代です。
飛鳥・奈良時代の人々の考え方を窺うのは史料的に容易ではありませんが、多くの史料が残る江戸時代の人々の考えを知ることはできます。江戸時代の人々は女性天皇についてどのような意見を持っていたのでしょうか?今回は相良海香子氏の論文を中心に見ていきます。論文どおりの言葉で書くと難しいので、できるだけわかりやすく言い換えて書きたいと思います。
※この記事は女性天皇に対する江戸時代の人々の考え方を紹介するものであり、現代の女性天皇問題に関して何らかの意見を述べることが目的ではありません。コメント等で女性天皇をめぐる議論等は行わないでください。
※通常、天皇は前天皇の崩御等を受けて「践祚」し、後に即位式によって「即位」します。但し、以下では話が煩雑になることを避けるため、「践祚」も合わせて「即位」と表現します。
江戸時代の女性天皇
現在、歴史上の天皇として数えられる女性天皇は全部で8人10代です。飛鳥~奈良時代には最初の女性天皇・推古天皇に始まり、皇極(再度即位して斉明)・持統・元明・元正・孝謙(再度即位して称徳)の6人8代がいました。
最後の称徳天皇が崩御したのは宝亀元(770)年でした。それから天皇は男性のみとなり、859年後の江戸時代に女性天皇が復活します。
江戸時代には2人の女性天皇がいました。1人目は寛永6(1629)年に後水尾天皇の突然の譲位を受けて即位した明正天皇です。約14年間在位し、寛永20(1643)年に後光明天皇に譲位しました。明正天皇の名は、奈良時代の女性天皇である元明天皇と元正天皇から1字ずつ取ったものです。これも久しぶりの女性天皇であることが理由でしょうか。
なお、明正天皇は後水尾天皇と東福門院和子(徳川秀忠の娘)の子で、徳川秀忠の外孫にあたります。
もう1人は江戸時代中期の後桜町天皇です。宝暦12(1762)年、弟の桃園天皇が若くして崩御しました。桃園天皇の子(後の後桃園天皇)は幼少であったため、成長するまで桃園天皇の姉である後桜町天皇が皇位を継ぐことになり、即位しました。明和7(1770)年、後桃園天皇に譲位しました。
このように、江戸時代には初期と中期に女性天皇が存在しました。実際に女性天皇がいた時代、人々は女性天皇のことをどう思っていたのでしょうか?史料が多く残るのは学者なので、一部の人々ではありますが、その考え方を見ていきましょう。
なお、神話時代の仲哀天皇の皇后で、朝鮮へ出兵したとされる神功皇后は、現在は天皇として代数に数えられていませんが、以下では天皇と同様に扱います。
朱子学と江戸時代初期の学者の意見
結論から言うと、江戸時代の学者の意見には、女性天皇容認論と批判論がありました(論文を読んだ感じでは批判論の方が優勢な感じがしました)。
まずは江戸時代の思想で大きな位置を占めた朱子学の話から始めます。朱子学の発祥の地である中国で女性皇帝(女帝)がどのように考えられたのか。
朱子学の大成者・朱熹は、天下統一して政権を2代以上継続することを「正統」としました。逆に「非正統」であるものとして「簒賊」と「無統」を挙げました。
そして、漢の時代の女帝である則天武后について、正統な王朝から位を奪った「簒賊」とします。但し、朱熹は女性であることだけを理由に「簒賊」としたのではなく、「簒賊」には男性の例も挙げられています。
しかし、朱熹が女性を正統ではないとしたことにより、後世に(朱熹の意図とは関係無く)女性王朝を非正統とする議論が主流となります。それは江戸時代の日本にも影響を与えます。
まず、859年ぶりに女性天皇(明正天皇)が即位した江戸時代初め、儒学者として有名な林羅山が「女性天皇は久しぶりであり、然るべき例は無い」と述べています。羅山は「朱熹にならえば、女性天皇は正統ではないのではないか」という考えを持っていました。羅山の考えは子の鵞峰にも引き継がれています。
また、朱子学者の山崎闇斎(1619~82)は全ての女性天皇(神功皇后を含む)を天皇の歴代代数から除外しました。これは闇斎の著書に書かれていましたが、完成版は闇斎自身が焼却しました。結果、草稿本の目録(目次)しか残らなかったため、女性天皇を除外する叙述は門人には継承されませんでした。
以降、女性天皇の容認論と批判論が出てきます。
江戸時代の女性天皇容認論
まず容認論から見ていきます。
①遊佐木斎(1659~1734)
山崎闇斎の門弟で、仙台藩に仕えた儒学者・遊佐木斎は「日本が外国と異なるのは、(皇位は)必ず神孫(天照大御神の子孫の意味か)に受け継がれていることである。適任者がいなければ、しばらくは女性が天皇となり、適任者が成長するまで待つのも理に適ったことである」としています。
つまり、女性天皇は皇位を継承する適任者がいない場合のピンチヒッター・中継ぎの役割があるとしました。また、日本の神功皇后や中国の創造神・女媧などの女帝の果たした功績も説きます。更に、当時は庶民の家でも家督相続する適任者(男性)がいなければ女性が継ぐことがあり、国であれば尚更そうすべきであるとします。
この遊佐木斎の女性天皇(女帝)容認論は、道理(あるべき姿)よりも地域・時代の実情を尊重する価値観があったため、とされています。
②三田義勝(1701~77)・跡部良顕(1658~1729)
遊佐木斎と同じく山崎闇斎学派で、丸亀藩に仕えた儒学者・三田義勝は、女性の皇位継承や家督相続を、日本の「水土自然の理」に適う合理的慣習としました。
義勝の師である幕府の旗本・跡部良顕は、三種の神器を持っていれば男女の性別は関係ないとする考え方でした。なお、良顕は遊佐木斎とも交流がありました。
③三浦梅園(1723~89)
豊後国の思想家であった三浦梅園は「女性で皇位を継ぐのは、天照大神(あまてらすおおみかみ。天皇ではなく皇祖神。)を初めとして、推古天皇は欽明天皇の子として、元正天皇(女性)は天武天皇の孫として天皇となった。そのような例は多い。下々(庶民)でも昔は同様の例が多かったことだろう。」と述べます。庶民でも女性相続の例は多く、天皇家もそれに共通するとして、女性天皇を肯定的に捉えました。
④小野高潔(1747~1829)
小野高潔は国学者で幕臣です。高潔は著書の中で神功皇后も天皇として歴代の女性天皇を数え上げ(天皇の代数に含め)、三田義勝と同様に日本では理に適ったことであると考えました。
このように、女性天皇容認論は江戸時代後半になっても見られました。
女性天皇批判論の根拠
一方で、女帝に対する批判論には出所と考えられるものがあります。それは、中国の北宋時代の儒学者・程頤(ていい)という人物の考えです。
程頤は『易経』という書物の注釈書である『易伝』を著した人物です。その中で程頤は、「女性が君主になることは普通ではない、変則的なこと(「非常の変」)であり、話にならない」としました。この『易伝』は、日本でも江戸時代初めから世の中に流通していました。
実は容認論のところで登場した遊佐木斎は、女帝の可否について(可とすることを目的として)問答形式の書物を書いています。その中で女帝批判論については程頤の論を出しています。この木斎の書物を通じて批判論が広まったと考えられています(木斎は容認論なので、批判論の基になるという、意図しない結果になったのかもしれない…)。
この考え方が、日本における女性天皇を批判することに影響を与えていったのです。
女性天皇批判と排仏論の結びつき
もう一つ、女性天皇批判に関係あるのが排仏論(仏教を批判する考え方)です。
江戸時代初めの林羅山を先駆けとし、日本では儒学者が仏教を批判する排仏論が起こりました。排仏の理由としては、A仏教の反倫理性(君臣・父子・夫婦関係の否定=儒教とは逆の考え)、B因果応報説・輪廻転生の死生観、C外来宗教(=日本古来の宗教ではない)であること、D政治的・経済的損失、です。
飛鳥時代に蘇我氏が崇峻天皇を殺害したことから、Aを理由として、仏教を政治に導入した蘇我馬子・聖徳太子が批判されました(仏教は君臣関係を否定→その仏教を信仰する蘇我氏(臣)が天皇(君主)を殺害、という繋がりでしょう)。そこから当時擁立された推古天皇(女性天皇)批判にも繋がりました。更にCの理由も加わっていきました。
仏教と女性天皇を関連付けて否定的に捉える見解は享保期(1716~36)前後に登場します。その非難の的になったのが推古天皇でした。当時の学者からは次のような考え方が出されました。
- 蘇我馬子・聖徳太子による女性天皇(推古天皇)擁立は「男女の分」を乱したもので、仏教導入に起因する現象である。
- 聖徳太子による仏教優遇政策は日本の神々をないがしろにするものである。仏教を導入したいために、懐柔しやすい女性天皇を擁立した。
- 推古天皇は聖徳太子の意見を認め、仏教を盛んにし、仏教に心奪われて判断力を失った。そもそも女性天皇であるから論じるまでもない。
天照大神は男神?
また、天照大神もここに関わってきます。天照大神といえば女神とされていますが、江戸時代には、実は男神であるという説が出されます。そして、「天照大神が男神であるから、女性天皇の即位は先例に反する」という理論になっていきます。
天照大神が男神であるという説は鎌倉時代から見られるそうです。江戸時代に入ってもこの説は存在しますが、当初は天照大神が男女両方の性を持っているというもので、女性天皇批判に繋がるものではありませんでした。
しかし、有名な荻生徂徠(1666~1728)が「推古天皇・持統天皇(女性天皇)の時期に天照大神は女神であるという話に改竄された」と主張します。具体的には、推古天皇・持統天皇の時期にそれぞれ編纂された『先代旧事本紀』と『日本書紀』において、天照大神は女神であると改竄し、女性天皇即位を正当化した、というのです。
神功皇后が即位しなかったのも、女性が即位することは神々の時代からの禁止事項であったからとします。
この考え方は荻生徂徠だけにとどまらず、反徂徠学である大坂の懐徳堂学派でも見られます。五井蘭洲(1697~1762)という朱子学者は「女性天皇は昔から先例が無かったので、蘇我馬子は『先代旧事本紀』を編纂して、天照大神を女神とした(先例を作り出した)。」と述べました。
この天照大神を男神として女性天皇を批判する考え方は、蘭洲から弟子の中井竹山(1730~1804)・履軒(1732~1817)兄弟、更にその弟子の山片蟠桃(1748~1821)へと受け継がれました。
蘭洲は伊弉諾尊(いざなぎのみこと=男神)と伊弉冉尊(いざなみのみこと=女神)による「陰陽の理」を根拠にして女性天皇を批判します。
「陰陽の理」とは『日本書紀』に書かれている事で、ある時、先に伊弉冉尊(女神=陰)が伊弉諾尊(男神=陽)に声をかけたところ、伊弉諾尊(男神)が「先に私(=男)が声をかけるべきである。なぜ女性が先に声をかけるのか?」(つまり「男の方が先・優先」ということ)と言ったとされるものです。
更に、蘭洲は女性が君主になると様々な騒乱が起きるのも「陰陽の理」の法則であるとします。例として、推古天皇時代に蘇我馬子が横暴をはたらき、推古天皇崩御後に蘇我入鹿(馬子の孫)が山背大兄王(聖徳太子の子)を滅ぼすに至ったのは、先例に背いて女性天皇を擁立したためとします。
次に、蘭洲の弟子・中井竹山は、宝暦12(1762)年に女性の後桜町天皇が皇位を継いだことを批判します。推古天皇については、「聖徳太子が『先代旧事本紀』を編纂して天照大神を女神とした。蘇我稲目(馬子の父)とともに崇峻天皇を殺害して、(天照大神が女神であると書かれた)『先代旧事本紀』を根拠にして推古天皇(女性天皇)を擁立した」とします。
奈良時代最後の女性天皇・称徳天皇の時には、僧侶である道教が台頭して政治の実権を握りました。竹山は、やがて仏教勢力の強い平城京から平安京に遷都した(竹山は仏教を良いものとは考えていない)にもかかわらず、江戸時代の初めに至って女性である明正天皇が即位したことを「寛永の襲弊」(寛永は明正天皇即位時の年号。襲弊は悪い慣わし。)とします。竹山も排仏と女性天皇批判を行っています。
中井履軒や山片蟠桃も、初の女性天皇である推古天皇は先例を破った等と批判しています。このように、懐徳堂学派では女性天皇を先例や道理に背くとして批判し、仏教や国政の混乱とも結びつけていました。
懐徳堂以外でも、推古天皇が先例に反して女性として即位したことや、女性天皇が相次いだ奈良時代に仏教政治によって朝廷が衰退したといった論が続きます。
このように、女性天皇批判と排仏論はセットで論じられていました。
国学者の女性天皇批判
ここまで見てきた女性天皇批判論は儒学者・朱子学者によるものでした。一方、儒学に対抗した国学者の考え方を見てみましょう。
まず、有名な本居宣長(1730~1801)ですが、彼は女性天皇について評価を明言していません。また、天照大神についても「女神であって何か悪いことがあるのだろうか」と述べています。
今回参考にしている論文の筆者である相良氏は、『古事記』・『日本書紀』に関する著作がある国学者として、谷川士清・本居内遠・大国隆正の考えを分析しています。
①谷川士清(1709~76)
谷川士清は伊勢国津の国学者です。本居宣長のひと世代前の人で、両者の間には交流もありました。
士清は『日本書紀』の注釈書である『日本書紀通証』(宝暦12、1762年刊)のほか、日本で最初の五十音順(いろは順)の国語辞典『和訓栞』を著しました。
士清は『日本書紀通証』において、神功皇后と推古天皇は正統な皇位についていなかった、と記しています。そして、蘇我馬子・聖徳太子の政治は、崇峻天皇殺害や女性天皇(推古天皇)擁立といったことで旧来の決まり事を破ったものだとしました。その政治は仏教の導入による「天地の間、非常の変」であるとします。「非常の変(普通ではない、変則的なこと)」というのは程頤が使っていた言葉なので、士清もその影響を受けていたと考えられます。
②本居内遠(1792~1855)
本居宣長の跡は養子・大平が本居家を継ぎます。その大平の娘婿が内遠です。本居家があった松坂を領していた紀州藩に仕えた国学者です。
内遠は嘉永3(1850)年に入門して来た千家尊澄(出雲大社大宮司)と『古事記』・『日本書紀』に関する問答をします。その問答集が「和歌の浦鶴」(嘉永5年)です。その中で女性天皇について、主に次のように述べています。
- 父子・兄弟間ではない女性の皇位継承は「変」である。(「変」は普通ではない事、といった感じの意味だと思います。)※親子・兄弟姉妹間で皇位継承した女性天皇は何人かいるので、「父子・兄弟」とは恐らく「父と男子・男兄弟」という男性間での皇位継承という意味ではないかと思います。
- 物事の変革や、物事が新しくなるのは、多くは女性天皇の時である。
- (朝鮮出兵を行った)神功皇后の時から中国・朝鮮半島との交流が盛んになり、中国の風習等が日本に入ってきた。
- 推古天皇の時から仏教が盛んになり、人々を惑わした。
- 皇極(斉明)天皇の時に政治が中国風になっていった。
- 孝謙(称徳)天皇の時に僧侶・道教が政治を乱した。
- 女性天皇の時代は、良い事は珍しく、悪い事は多かった。
このように、内遠は神功皇后や推古天皇の時代の悪い(とされる)出来事(中国の風習等の流入開始、仏教興隆)を、女性天皇の時代に変革や災厄が頻発するという「女性の変なる」法則の根拠としました(「女性天皇の時代に実際に変革や災厄が起きた歴史があるではないか!」と言いたいのでしょう)。
③大国隆正(1793~1871)
大国隆正は嘉永4(1851)年頃から津和野藩の藩校で教えていた学者です。隆正は学事や世事を一定周期で変遷する「気運」と説明する「学運論」(嘉永6年)を著しました。
その中で次のように述べます。
- 崇峻天皇殺害後に推古天皇が擁立され、聖徳太子は摂政となり、蘇我馬子が専横の振舞をし、諸国に仏教寺院を建てて思うままに仏教を流布させた。
- 上記のような2~3年間の事を考えると、「日本国古今の大変」はこの時のことを指す。
- 仏教が盛んになった時から、日本の古風は衰退した。
また、「馭戎問答」(安政2、1855年)では、女性天皇は日本に「革運」(歴史上の画期)をもたらしたとします。日本で「革運」は10回あったとし、その内の一部は次のように説明されています。
- 第5革運は神功皇后が朝鮮半島を戦いで破った時から。この時から異国との交流が始まった。この後に儒教が日本に伝わった。
- 第6革運の後は仏教が伝来したが広まらなかった。しかし、推古天皇が即位し、仏教を盛んにした。聖徳太子が摂政となり、蘇我馬子と一緒になって物部守屋(仏教反対派)を滅ぼして、仏教を盛んにした。この時を「大革運」とも言うべきである。
- 第7革運は推古天皇即位から250年にあたる。都が大和国から山城国へ移った。
- 第6・7革運で天皇の権威は大きく衰えた。それは、聖徳太子が摂政となって推古天皇を擁立したことに始まる。
内遠と同様に、隆正も変革や災厄を「女帝の変なる」法則に当てはめています。
④門人たちと明治の皇位継承法制定事業
本居内遠や大国隆正の門人は明治時代に皇位継承法制定事業に関与しました。
大国隆正の門人・福羽美静(1831~1907)が編集責任をつとめた『旧典類纂 皇位継承篇』(明治11年)では、歴代の女性天皇の皇位継承は、「事故」(恐らく皇位継承の適任者がいないことを指すと思われます)が起こり、やむをえず発生した出来事とされています。
本居内遠の門人・小中村清矩(1822~95)は宮内省制度取調局委員として旧皇室典範の編纂に関わりました。明治18年に制度取調局へ「女帝考」という書を提出します。
その中で、女性天皇を仏教や専制政治と結びつけて批判した谷川士清の『日本書紀通証』等を引用し、推古天皇の即位は「変乱」であるとしました。
女性天皇を「非常の変」とする考え方が明治時代まで引き継がれていたことを示しています。
庶民はどう思っていた?
ここまで学者の考え方を見てきましたが、最後に、一般庶民はどう思っていたのか?を見てみます。とは言っても、庶民が女性天皇に対する考えを書いた史料もなかなか無いと思います。そこで、相良氏が論文で取り上げている、庶民にも読まれた書物(但し神功皇后にほぼ限定)の内容から見ていきます。
広く読まれた書物であれば、そのようなイメージ・考え方が庶民の間に広まっていたと考えることができるでしょう。
初めに神功皇后(の伝説)について簡単に説明します。神功皇后は神話時代の仲哀天皇の皇后で、応神天皇の母です。夫の仲哀天皇は九州で熊襲(くまそ)という勢力を攻撃中に「朝鮮半島の新羅国を攻めよ」という神託を受けます。しかし、それを信じなかったために亡くなります。
当時、神功皇后は応神天皇を身ごもっていましたが、そのまま軍を率いて朝鮮半島へ出兵します。そして半島にあった新羅・高麗・百済の王を降伏させます。
実際は、朝鮮半島には百済・新羅が並立した時代はありましたが、後に新羅が半島を統一し、新羅の後に高麗ができました。なので、新羅・高麗・百済の3国が並立していた時代はありません。
神功皇后は帰国後に応神天皇を出産します。翌年に応神天皇の異母兄(仲哀天皇と、神功皇后とは別の女性との間の子)が謀反を起こしますが、それを鎮圧しました。
現在では仲哀天皇が14代天皇、応神天皇が15代天皇となっており、両天皇の間は約70年の空位期間があります。この間が神功皇后が摂政を務めた期間とされ、神功皇后は歴代天皇の代数には数えられていません。
神功皇后の話(伝説)は後の時代にも受け継がれ、やがて江戸時代には広く庶民に読まれた書物を通じて広まっていきます。よく取り上げられる場面や描かれる肖像は時期と共に変化します。
その中で、肖像では18世紀後半以降に男性天皇と同じ装束(服装)で描かれるものが見られるようになります。これは神功皇后に限らず、女性天皇である皇極天皇や持統天皇も同様でした。
更に、19世紀に入ると、神功皇后を第15代天皇(14代は夫であった仲哀天皇、16代は子の応神天皇)として数える書物も多く登場します。
元禄期(1688~1704)に水戸藩の『大日本史』編纂事業で、神功皇后は歴代天皇から除外することとされました。これ以降、思想家や知識人の間では神功皇后を歴代天皇として数えない考え方が主流になりました。
それとは対照的に、広く庶民に読まれた書物では歴代天皇に数え、装束も男性天皇の姿と同じになるという逆の考え方が広まっていたのです。
まとめにかえて
さて、今回は江戸時代の人が女性天皇をどう思っていたのかを見てきました。現在とは意味が違うかもしれませんが、江戸時代にも女性天皇に対する様々な考え方がありました。
学者の容認論は、「適任者がいなければ女性天皇でも問題無い」、「そもそも日本では女性相続もある」といった意見です。ただ、この理論の根底には、「本来は男性」という考えがあるような気もしますが。
批判論では、やはり女性であるということが注目されています。それは中国の程頤の「女性が君主になるのは非常の変」という考えが根底にあったようです。
そこに、女性天皇の時代に起きた悪い事が注目され(実際に男性天皇の時代にも悪い事は起きているのに)、儒学者の排仏思想とも結びついてしまった(たまたま?推古天皇の時代に仏教が盛んになったため)ことが大きいのでしょう。仏教が盛んになった時代が男性天皇であったら、女性天皇に対する風当たりも変わっていたかもしれません。「女性天皇だから悪い事が起きる」いうのは、もちろん科学的な根拠はありません。
対する庶民の間では、女性天皇は受け入れられていたと考えてよいと思います。なぜなら、受け入れられていなければ、多くの書物が女性天皇を容認するかのような内容にならないからです。庶民受けしない本だったら売れませんからね。
もっとも、現在と違って、江戸時代の庶民が「天皇」という存在をどれだけ真剣に考えていたかはわかりませんが。学者は様々な理論を知っているからこそ、女性天皇について理論立てて(悪く言えば、難しく考えて)容認・批判の立場を示していたのではないでしょうか。
江戸時代はどうしても江戸幕府や藩、武士等に注目しがちですが、天皇という存在も、(思想家や知識人が中心かもしれませんが)人々がその存在に注目していました。それは、奈良時代以来、長きにわたり存在しなかった女性天皇が江戸時代に再び登場したからなのかもしれません。
《参考文献》
- 『日本史広辞典』(山川出版社、1997年)
- 米田雄介編『歴代天皇年号事典』(吉川弘文館、2003年)
- 相良海香子「書物にみる近世神功皇后像の形成と変容」(『早稲田大学大学院文学研究科紀要』第68輯、2023年)
- 相良海香子「近世における女帝観」(『日本史研究』747号、2024年)
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