後水尾天皇の皇女・大通文智2~東福門院・藤堂家との関係~

前回は文智の生涯について見ていきました。今回は因縁の相手にも見える東福門院(徳川和子)や藤堂家との関係について見ていきます。実は文智と東福門院は良好な関係を築き、文智にとって東福門院は重要な存在になっていきます。また、藤堂家は江戸時代を通じて文智の創建した円照寺を支えた存在でした。

東福門院との親交

はじめに、前回何度か登場した東福門院(徳川和子)と文智の関係について見ていきます。

※徳川和子は「東福門院」と表記します。

和子について詳しく知りたい方は下記の記事をご覧ください。

2人の間にいつから交流があったのかははっきりしていません。承応4(1655)年に後水尾上皇と東福門院が修学院円照寺の文智のもとを訪れたのは前回書いたとおりです。

東福門院に仕えていた相模という人物は修学院時代の文智の弟子となっています。相模は剃髪して文海と名乗り、文智と東福門院の間を取り持つ重要人物となります。

文智の人生に悪い意味で大きな影響を与えたであろう東福門院は、実は文智と良好な関係を築いていたと考えられるのです。

前回書いた円照寺の山村への移転において、東福門院の幕府・京都所司代への斡旋や指示を見ても、東福門院がいかに文智のことを大切に考えていたかがわかります。

自分(東福門院)が後水尾天皇に入内する前に、別の女性と天皇の間に生まれた子ども(文智)という存在は、ともすれば疎ましく思ってしまうかもしれません。しかし東福門院は逆に文智を大切にしています。自分の入内によって難しい立場になってしまった文智の事を、東福門院は気にかけていたのかもしれません。

これに対し、文智も感謝しています。山村への移転時の東福門院の尽力に対しては、「ただただ東福門院様のおかげであり、ありがたさは言葉にできません」と述べています。また、東福門院と会った時の事を思い出しつつ詠んだ漢詩も残っています。

また、東福門院の子である女三宮(文智の異母妹)も文智と親しくしていました。

文智は東福門院だけではなく、弟や妹たちとの交流も大切にし、決して自身の運命を恨んでいたようには思えません。

東福門院は延宝6(1678)年6月15日に亡くなります。この日は危篤の連絡を受けて、朝から皇族が女院御所に集まりますが、その中には文智の姿もありました。当時の皇族の日記によると、文智は朝から東福門院の側に付きっ切りだったようです。

東福門院の臨終の時、彼女の希望により側にいたのは円照寺の文海だけだったようです。文海は前述のように、かつて東福門院に仕えていた相模という人物で、文智の弟子です。

文海だけが側にいることを許されたのは、東福門院と彼女の関係によるのでしょう。しかし、東福門院にとってそれほど心を許す存在であった文海が文智の弟子であったというのは、文智と東福門院の関係において重要な事であったと思います。

円照寺と藤堂家の関係~高次期~

次に、文智にとっては東福門院入内という意味で大きな影響を与えたかもしれない藤堂家と円照寺の関係を見てみたいと思います。

まず、文智が八島へ移ったことに関する藤堂家とのやりとり等です。藤堂家の史料である『公室年譜略』に記載された様子を見ていきますが、『公室年譜略』は時折誤りも見られ、根拠史料も明示されていないので、全てが正しいかはわかりません。御注意ください。

前回書いたように、承応3(1654) 年、文智は八嶋に草庵を建てることについて、藤堂家に交渉しています。文智は叔父の奈良一乗院の尊覚法親王を通じて交渉しますが、交渉の経路としては、まず法親王の家来から藤堂家家臣の西嶋八兵衛に話がありました。次いで、八兵衛は藩主の高次にこれを伝えます。高次は幕府の老中・酒井忠清に相談の上、承知したとされています。

続いて、同年12月には、西嶋八兵衛等から高次に対し、文智が八島で屋敷や山を受け取り満足していること、年貢の取扱い等について藤堂家の意向を尋ねて来たことを言上しています。但し、文智が八島へ移るのは2年後の明暦2(1656)年なので、屋敷や山を受け取ったのが果たして承応3年のことなのかは再考の余地があるかもしれません。

明暦2年7月には、高次は家臣の西嶋八兵衛等に対し、円照寺に対して色々と世話をすることを命じています。

寛文元(1661)年1月、円照寺に堂を建立することについて、円照寺から藤堂家に対して材木運搬の人足提供の依頼がありました(材木は藤堂家領の村々から寄付)。依頼を受けた藤堂家家臣の西嶋八兵衛は高次に伺いをたて、高次はこれを認めています。

2月に堂が完成し、文智はお礼として高次へ3種類の歌書を贈っています。これに対し、高次は円照寺へ西嶋八兵衛を派遣してお礼を伝えています。

寛文2年7月、藤堂家へ文智経由で後水尾上皇が「丁子油」なる物を探し求めているとの勅が届き、高次が所有の油を円照寺へ届けています。

寛文3年7月、円照寺から、寺内での殺生禁断について西嶋八兵衛へ依頼があり、大和国内の藤堂家領内にその旨が通知されています。

延宝2(1674)年4月頃、後水尾上皇から高次へ乾香・能面が下賜されました。この時、文智へ詔が送られ、円照寺の文海・普参から奉書が西嶋八兵衛へ送られて下賜の旨が伝えられました。高次は文海・普参へ書状を送って礼を述べ、西嶋八兵衛を使者として円照寺へ派遣しました。更に八兵衛はお礼の使者として京都へ向かう予定でしたが、文智はそれには及ばないとしました。

円照寺と藤堂家の関係~江戸時代を通じての支援~

『公室年譜略』の記述時期はほぼ高次の時期までなので、以上です。

続いて、時期は不明ですが、文智が高虎の孫で津藩3代藩主の高久に宛てた書状が残されています(『三重県史』資料編近世1)。内容は、高久が所望していた後水尾上皇の短歌について、上皇から送っていただけることになったと知らせるものです。

この後の円照寺と藤堂家の関係は、藤堂家領の内、伊賀国上野城の城代の業務記録である『永保記事略』や『庁事類編』に記されています。これらの史料は多少の年の誤記はありますが、概ね信憑性のある史料と考えられています。円照寺に関する記事は非常に多いため、いくつかを紹介します。

宝永6(1709)年8月、将軍徳川家宣の御台所(煕子)から間部詮房を通じ、藤堂家に対して円照寺への財政援助依頼がありました。これに対し、藤堂家では年末に300両、翌年に200両を贈ることが決まります。ウィキペディアの情報ですが、煕子の母は常子内親王とされています。常子内親王は後水尾天皇の子(文智の異母妹)であることから、煕子は文智の姪になるので、その関係で煕子が円照寺への援助を依頼したのかもしれません。

この後も江戸時代を通じて、経済援助や円照寺の建物の建材の援助が藤堂家から行われています。

安永4(1775)年11月には高次の100回忌に伴い、円照寺で追善供養が行われています。

寛政5(1793)年10月には、文智の100回忌(寛政8年)に向けた円照寺本堂の修理について、円照寺が津藩の役所へ(恐らく資金援助の)依頼をしています。翌年1月には藤堂家から25両を寄付することが決まりました。

寛政10(1798)年には円照寺の弟子(恐らく皇族)が入寺するに際し、藤堂家が道中の警護を行っています。

この他、18世紀には円照寺と津藩主の間で互いに贈物をしています。

19世紀に入ると、藤堂家から円照寺への資金貸付けに関する記事が時折見られるようになります。しかし、藤堂家が断っている時もあります。

一方で、藤堂家の家臣が円照寺から貸付けを受けるといったことも見られます。この家臣の借金については、円照寺の家来が津藩へ何らかの相談を行っていることもあります。家臣の借金の返済催促が行われていることもあるので、家臣がなかなか返済に応じないといった相談でしょうか。

以上のように、江戸時代を通じて円照寺は藤堂家の記録に多く見られます。円照寺があった八島は藤堂家領であったため、関係が深くなるのは自然なことでしょうが、藤堂家領ではない山村へ移転した後も関係は続いています。その始まりは文智と高虎の因縁のような気がします。

両者の因縁は決して良いものではなかったでしょう。しかし、それは良い関係に代わってその後も続いたのです。高虎が文智のことを気にしていたかはわかりません。しかし結果として、江戸時代を通じて高虎の子孫(代々の藩主)が文智の創建した円照寺を支える一翼を担ったと言えるのではないでしょうか。

文智はその誕生から薄幸であったかのように見えますが、東福門院とも良い関係を築き、幕府や藤堂家の支援を受けながら、八島・山村の地で静かな生涯を送ることができたのではないでしょうか。それが文智にとっては幸せであったと思いたいものです。

《参考文献》

  • 末永雅雄・西堀一三『文智女王』(圓照寺、1955年)
  • 上野市古文献刊行会編『永保記事略』(上野市、1974年)
  • 上野市古文献刊行会編『庁事類編』上巻・下巻(上野市、1976・77年)
  • 『角川日本地名大辞典29 奈良県』(角川書店、1990年)
  • 『公室年譜略』(清文堂出版、2002年)
  • 久保貴子『徳川和子』(吉川弘文館、2008年)

本ブログは、以下のランキングに参加しています。応援いただける方は、下の応援ボタンをクリックしていただきますよう、お願いいたします。

にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
にほんブログ村

日本史ランキング
日本史ランキング

コメント

タイトルとURLをコピーしました