江戸時代の朝廷と幕府の関係で有名な事の一つに、徳川家康の孫(秀忠の娘)・和子の朝廷への入内(輿入れ)があります。実現したのは家康の没後ですが、生前から計画された朝廷・幕府の融和政策でした。後水尾天皇と結婚した和子は明正天皇を産み、国母とも称されました。
しかし、その裏にはもう一人の女性の波乱の人生がありました。女性の名は梅宮、出家後の名は大通文智と言います。後水尾天皇と和子以外の女性との間にできた子でした。今回・次回は時代に翻弄されながらもたくましく生きた大通文智のお話です。
徳川和子の入内と梅宮(大通文智)の誕生
大通文智について書く前に、徳川和子(東福門院)の入内について簡単に紹介します。和子は大通文智の運命に大きな影響を与え、かつ彼女にとって重要な人物と言えます。
和子について詳しく知りたい方は下記の記事をご覧ください。
※「和子」の名がいつから使用されたのかは明らかではありませんが、以下では「和子」、途中からは「東福門院」と統一表記します。
和子は慶長12(1607)年、江戸幕府将軍・徳川秀忠の5女として生まれました。
この頃、幕府と朝廷の関係は必ずしも良好とは言えませんでした。詳細は省略しますが、慶長14年の猪熊事件(官女密通事件)の当事者処分に関する天皇と幕府の意見の相違、後陽成天皇の譲位をめぐる問題等がありました。
このような中、慶長13年には、次期天皇となる政仁親王(後の後水尾天皇)への入内の噂が流れています。但し、この時点で未婚の秀忠娘には3女・勝姫もおり、どの女子とは特定せずに、漠然と「将軍の娘が入内するのか?」という噂でしょう。
慶長16年には後陽成天皇が譲位し、政仁親王が即位して後水尾天皇となります。そして同19年には和子の入内が正式に決定します。
しかし、家康の存命中には入内は実現せず、大坂の陣や家康の死去、後陽成上皇の崩御等で入内は延期・延期の繰返しとなります。
更に、元和4(1618)年には後水尾天皇と四辻公遠の娘(およつ)の間に第一皇子賀茂宮が生まれました。これが原因とは断定できないものの、この頃には和子入内延期の噂が流れています。
とはいえ、翌年も引き続き入内に向けた準備(御殿の建設等)が進んでいきます。そのような中、元和5年6月20日、天皇とおよつの間に再び子が生まれます。前段が長くなりましたが、この子こそ皇女梅宮、後の大通文智です。
和子入内の頓挫と交渉、そして入内へ
天皇の子の誕生。普通に考えればめでたい事ですが、賀茂宮や梅宮の誕生は、和子入内に向けて準備が進んでいた朝幕関係(朝廷と幕府の関係のこと)に水を差す出来事でした。
一夫多妻の時代とはいえ、娘(和子)が嫁ぐ予定の男性(後水尾天皇)と別の女性(およつ)の間に子どもが生まれた(しかも2人も)。普通に考えても娘(和子)の父親(秀忠)にしてみれば心中穏やかではありませんよね。
ましてや政略結婚です。後水尾天皇と和子の間に生まれた子が天皇になれば、秀忠が外祖父となり、朝廷への幕府の影響力が大きくなることを見越していたでしょう。天皇の外祖父と言えば、藤原道長が有名ですが、(時代は違えど)道長の絶大な権力を見れば外祖父の影響力がよくわかります。
元和5年の梅宮の誕生により、和子入内に供する女房の衣裳調製が中止されました。同年中の入内はほぼ不可能な状況になったのです。入内は暗礁に乗り上げたと言っても過言ではないでしょう。入内に向けた朝廷・幕府の交渉が必要になってきます。
ここで交渉役として登場するのが伊勢国津藩主・藤堂高虎です。高虎は幕府側の代表者の一人として入内交渉を進め、翌6(1620)年2月には入内の話がまとまりました。実は高虎は結構な強硬手段(話法)で決着をつけたという説もあります。
ところで、今回は和子入内が話のメインではなく、「再び交渉が行われ、入内が決定した」程度に書けばよいものを、なぜわざわざ藤堂高虎の名前を出したのか?それは記事を読み進めていただければわかると思います。
話を戻して、ようやく入内が行われたのは元和6年6月18日のことでした。
さて、梅宮にとっては、父親に別の女性が嫁いでくることになりました。しかも相手は権力者徳川秀忠の娘です。まだ数え2歳の子どもですから、梅宮自身には自覚は無かったでしょうが、肩身が狭い立場に置かれたのではないかと想像します。そして成長するにつれて、梅宮自身も徐々にそのことを感じるようになったのではないでしょうか。
しかし、この時の境遇とは逆に、和子は梅宮にとって生涯大切な存在となっていくのです。この後の梅宮はどのような人生を辿るのかを見ていきましょう。
結婚と離縁
和子入内延期の要因になってしまった梅宮ですが、13歳で結婚するまで、殆ど記録には現れないようです。記録が失われただけかもしれませんので、記録が無い=表立った活動や儀式が無かったとは言い切れません。しかし、誕生時からのその立場を考えると、朝廷や幕府にとってはどう処遇するか難しい存在だったのではないでしょうか。
しかも、梅宮の同母兄である賀茂宮は既に亡くなっており、和子入内前に誕生した天皇の子は梅宮が唯一となっていました。
寛永6(1629)年、後水尾天皇は幕府との軋轢の中、譲位します。新たに元和9(1623)年に和子との間に生まれた女一宮(梅宮にとっては異母妹)が即位して明正天皇となります。
※後水尾天皇は譲位後に上皇となり、後に出家して法皇となりますが、ここからは「後水尾上皇」と統一表記します。
明正天皇が即位した後、梅宮の将来が検討され始めたと推定されています。当時の皇女の将来としては、摂家へ嫁ぐ道と比丘尼御所(寺院)へ入る道がありました。
梅宮は前者の道を辿ります。寛永8年、梅宮(13歳)は鷹司教平(23歳、権大納言)と結婚します。しかし、僅か3年で離縁となります。理由は明らかではありません。
江戸時代を通じて、離縁した皇女は梅宮だけのようです。このあたりも梅宮の数奇な運命を表しているように見えます。
出家
この頃、父の後水尾上皇は仏教に傾倒し、岩倉家の出身で僧となっていた一糸文守と親交を持ちます。上皇は仙洞御所へ一糸を招いて法話を聞くなどし、梅宮も一緒に聞いていたようです。
寛永15(1638)年、梅宮の母・およつが亡くなります。これが契機になったのかはわかりませんが、2年後の寛永17年、梅宮は一糸の弟子となる道を選び、22歳で出家して大通文智と称しました。以降は梅宮改め、「文智」と表記します。
出家の翌年、文智は修学院に草庵を設けます。この草庵がやがて円照寺となります。
寛永21年と推定される一糸から文智に宛てた書状で、一糸は「修学院で末永く暮らすことはないとのこと、将来的にはそれが良いと存じます。世を捨てた身であるからには、親類が一人もいない所で暮らすのが良いでしょう」と述べています。
この書状から、文智は近いうちに修学院を離れることを望んでいたと考えられています。しかし、一方では父・後水尾上皇への孝行の思いも持っていました。母・およつは既にこの世におらず、父である上皇は文智にとって大切な存在であったのでしょう。
承応4(1655)年、上皇と東福門院(徳川和子)が円照寺の文智のもとを訪れ、粥の振舞いを受けます。和子が訪れていることから、文智と和子の関係は、少なくとも悪くは無かったのでしょう。この時が交流の最初かはわかりませんが、和子とはこの後も長く関係を保ち続けるのです。
奈良八島の地へ
※以降、徳川和子は「東福門院」と表記します。
明暦2(1656)年、文智は大和国八島(現在の奈良県奈良市)へ円照寺を移転します。なぜこの地を選んだのでしょうか。
文智の師である一糸文守の弟子に知明浄因という人物がいました。彼は八島近隣の五ヶ谷村の寺におり、以前に文智のもとを訪れて、八島の地を推薦したと考えられています。
八島は当時、津藩藤堂家の所領でした。藤堂・・・そう、文智の運命を決定づけたかもしれない東福門院の入内において、幕府側の交渉役として尽力したのが藤堂高虎でした。津藩藤堂家はその高虎を初代としています。当時、高虎は既に亡く、子の高次が藩主となっていました。
文智は、推薦された地であったとは言え、藤堂家の所領内ということをどう思っていたのでしょうか。確実なところはわかりませんが、出家した身であり、因縁のようなものはとっくに超越していたのかもしれません。
八島へ移る2年前の承応3(1654)年、文智は叔父である奈良一乗院の尊覚法親王を通じて、移転について藤堂家に依頼しました。同年9月には移転が決まったようです。
この移転には幕府の承認が必要であったと考えられており、そこには東福門院の仲介があったと推定されています。
八島に移った文智ですが、奈良に留まり続けたのではなく、時には京都を訪れて後水尾上皇に会う等しています。
奈良山村へ再移転
この後、文智は寛文9(1669)年に八島に近い山村の地へ再度移ります(山村は藤堂家領ではありません)。八島の円照寺は藤堂家から保護を受けていたものの、比丘尼御所としての体裁が十分ではなかったようです。ここで再び東福門院が登場します。
寛文7年、東福門院は京都所司代を通じて、幕府に円照寺への寺領寄進を依頼します。これに対し、幕府は200石の寄進を決定しました。将軍家綱自身が東福門院に寄進決定を知らせています。
東福門院はこの決定を受けて、京都所司代に指示を出しています。具体的には、
- 寺領200石とは別に屋敷を寄進すること。
- 年貢の管理や農民の統治も円照寺が行えるようにすること。
- 周辺の山が山村円照寺の屋敷を見下ろす形になるため、山も寺の敷地に加えること。
といった内容です。特に3点目は山村の地理を知った上でないと指示できないため、文智の具体的意向が東福門院に伝えられ、それを東福門院が幕府へ伝えたと考えられています。
寛文8年、幕府から寺領200石の朱印状が発給されます。円照寺の寺域は合計6万坪余りに及んだようです。同年中に普請が始まり、東福門院からは金1,000両が贈られました。そして11月に文智は八島から山村へ移りました。
円照寺は現在もこの山村の地にあります。私は以前に円照寺を訪れたことがあります。と言っても、境内は非公開なので、門の前まででしたが。ちょうど紅葉の季節で、門だけとはいえ、とても美しく、静かな場所であったことを覚えています。文智が翻弄された世俗を離れ、仏道に邁進する地としては相応しい場所のように感じました。
延宝3(1675)年、異母妹の女三宮(母は東福門院)が亡くなります。女三宮は生涯独身で出家はしませんでしたが、文智とは親交があったようです。
女三宮は知行1,000石を領していましたが、生前の希望でこの内100石が文智に贈られました。幕府の承認に際して口添えしたのは、またも東福門院でした。
文智はこの後終生、山村円照寺で暮らし、元禄10(1697)年1月13日に79歳で亡くなりました。
次回は文智や円照寺にとって重要な存在であった東福門院や藤堂家との関係について見ていきます。
《参考文献》
- 末永雅雄・西堀一三『文智女王』(圓照寺、1955年)
- 『角川日本地名大辞典29 奈良県』(角川書店、1990年)
- 久保貴子『徳川和子』(吉川弘文館、2008年)
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