愛知県名古屋市の熱田訪問記の第3回目(最終回)です。今回は熱田神宮以外の熱田の歴史スポットをめぐります。
蔵福寺
熱田神宮の正門(境内南端)を出て南へ進んですぐ、道の右(西)側に蔵福寺があります。
かつてこの寺の鐘楼にあった鐘は、人々に時刻を知らせる時の鐘でした。昭和20年の戦災で鐘楼は焼失しましたが、鐘は無事で、今でも寺に残っているようです。
なお、現在は七里の渡し跡に、当時を偲んで鐘が復元されています。
伊勢湾台風浸水位標識
蔵福寺のすぐ先(南)で大通りに出ます。右(西)の方に歩道橋があるので、これで筋向い(南西側)へ渡ります。渡ったら、引き続き南へ歩いて行き、鰻で有名なあつた蓬莱軒(看板には「蓬莱陣屋」とも書かれています)のところを斜め右へ曲がります。そのまま真っすぐ進んでいくと、公園に着きます。
熱田神宮の正門を出た所から公園まで徒歩10~15分です。
公園を右(西)へ進むと、七里の渡し跡があるのですが、少し寄り道します。道を左(東)へ曲がると、道の反対側に公園の入口が見えてきます。ここから中へ入ります。
すると、正面の少し広くなった所に、伊勢湾台風時の水位を示したポール(浸水位標識)があります。横にある説明板は劣化していて、読めない箇所もありますが、この大きな説明板を目印に探すとよいと思います。ポールは説明板の右隣にあります。
伊勢湾台風は有名ですが、昭和34(1959)年9月26日に紀伊半島に上陸しました。風・雨とも大きな被害がありましたが、伊勢湾の特に奥(名古屋の方)では高潮で大きな被害が出ました。雨で増水した川と、強風によって海から陸側へ吹き寄せられる水と、高潮です。
今となっては説明だけではなかなか想像しにくいですが、説明板横のポールに示された水位を見ると、その高さがよくわかります。
ポールの矢印のところ(赤い線を引いたところ)まで浸水したということです。隣に車が停まっているので、その高さがよくわかります。
熱田神宮や七里の渡しの歴史と比べると、つい最近の出来事ですが、伊勢湾台風の被害も後世に残すべき大切な歴史の一つです。
七里の渡し跡
さて、公園内を西の方へ進んでいくと、高い塔のような建物(鐘楼)が見えてきます。これは先ほど蔵福寺のところで説明した時の鐘が復元されたものです。
このあたりが東海道の七里の渡しがあった所です。各所に説明板も設置されています。鐘楼の他にも、常夜灯や船着き場跡などが当時を偲ぶものとして復元されています。現在の船着き場も設置されていましたが、使われているのでしょうか?
慶長6(1601)年、徳川家康は江戸・京都間の東海道の宿駅を定めます。東海道の中の七里の渡しは桑名(現在の三重県桑名市)と熱田を結ぶ海上ルートで、元和2(1616)年に開かれました。
桑名・熱田の間には木曽三川があり、陸路でこれらを渡るよりも海上ルートの方が便利であるため、七里の渡しが利用されたと言われます。
この他、熱田からは、名古屋を通って美濃国へ抜ける美濃路、陸路を桑名へ向かう佐屋路が分かれ、熱田から直接四日市(現在の三重県四日市市)へ渡る十里の渡しも利用されました。
現在は、この七里の渡し跡から南を見ても川と陸地ですが、江戸時代はここから先は海でした。七里の渡しの目的地である桑名にある桑名城の櫓も見えたらしいです。
古建築物
七里の渡し跡から道を挟んだ北側には、古い建物が2軒あります。
1軒は熱田荘で、明治29(1896)年建築ですが、江戸時代の町屋の形式を継承したものとのことです。
もう1軒は右へ数軒のところにある、旧旅籠屋の伊勢久です。ここは東海道宮宿(熱田のこと)の脇本陣(大名等が宿泊する本陣に次ぐ格式の宿)でした。文化5(1808)年の建築のようですが、私が行ったときには解体修理中で、全体像を見ることはできませんでした(令和6年度中に完成予定のようです)。
源頼朝生誕地
さて、七里の渡し跡を後にし、来た道を戻ります。来る時に大通りを渡った歩道橋まで来たら、歩道橋で道の北側(熱田神宮とは道を挟んだ西側)へ渡ります(道の東側へは渡らないように注意)。そのまま真っすぐ北へ歩いて行きます。
そうすると、大きな交差点の少し手前(右側の熱田神宮の森で言うと、森が終わる少し手前)に、源頼朝出生地があります。七里の渡し跡からここまで徒歩約15分です。
現在は誓願寺という寺院になっており、道に面した門の所に説明板と石碑があります。なぜこんな所にひっそり?という感じで突然現れます。見落とさないように注意しましょう。
源頼朝の父・義朝は熱田神宮の大宮司の娘と結婚し、この誓願寺の場所にかつてあった大宮司の別邸で頼朝が生まれたと言われています。そのためか、頼朝は熱田神宮(頼朝の祖父が大宮司)への信仰が篤く、鎌倉の鶴岡八幡宮に「熱田社」を勧請(神の分身を迎えてまつること)しています。
頼朝の出生地と言われる場所が熱田にあるとは知りませんでしたが、母親が熱田大宮司の娘であることを考えると、ここで生まれたという説は現実味があります。
断夫山古墳
源頼朝出生地から更に真っすぐ進むと大きな交差点に出ます。この交差点を反対側(北側)へ渡り、そのまま大通り沿いに北へ進んでいきます。
しばらく歩くと、左に森が見えます。ここが断夫山(だんぷやま)古墳です。源頼朝出生地からここまで徒歩約10分です。
大通りから左折すると、周りに堀(水は無い)のある丘が見えます。これが古墳です。古墳の中は立入禁止になっていますが、周りに堀がある(元々あったものかは不明)ので、古墳の範囲がよくわかります。道沿いに歩いてみると、かなり大きいことがわかります。
この古墳は日本武尊(やまとたけるのみこと)の妃・宮簀媛命(みやすひめのみこと)の墓と言われています。宮簀媛命の出身地は熱田に近い、現在の名古屋市緑区大高町付近とされています。
白鳥古墳
断夫山古墳の南側の道を真っすぐ西へ進むと川に突き当たります。ここを南へ左折し、そのまま川沿いに進みます。左側にハローワークが見え、右側には橋が見えます。その名も「御陵橋」です(「陵」は天皇等の墓のこと)。
この橋の先の道がカーブし始めるあたり、道の左側(東側)に、奥へ入れる小道があります。わかりにくいので、見落とさないように注意です。この小道の奥に白鳥古墳があります。断夫山古墳からここまで徒歩約5分です。
小道が分かりにくい場合は、先ほどのハローワークの角を東へ左折すると、古墳公園の北から入ることもできます。
古墳は階段を上がった先にあります。周りが垣で囲まれており、中には入れません。木が茂っており、断夫山古墳のような堀も無いので、わかりづらいですが、中をのぞくと、丘のように高くなっており、古墳であることがわかります(垣が無く、古墳であると言われなければ、わからないだろうけど)。
日本武尊は伊吹山の神を討ちに行った帰りに伊勢国能褒野(のぼの、現在の三重県亀山市)で亡くなったとされ、亀山市や隣の鈴鹿市にその墓とされる古墳があります。
ここの白鳥古墳は、日本武尊が亡くなった後に白い鳥となって舞い降りた場所とされています。日本武尊の霊は白鳥となって能褒野から飛び去ったと言われており、白鳥古墳と同じ伝説を持つ場所は大和や河内にもあります。
熱田神宮では白鳥古墳と断夫山古墳を御陵としてまつり、毎年祭礼が行われているようです。やはり草薙神剣と日本武尊の関係からも、熱田神宮にとって重要な地なのでしょう。
更に詳しく知りたい場合は…
以上で今回の歴史スポット巡りは終了です。更に関心がある人は、熱田区役所(JR熱田駅の少し南)のところにある、名古屋市熱田図書館に行ってみましょう。熱田に関する資料コーナーがあり、詳しく調べることができます。
※記事の内容は2024年10月時点のものです。
《参考文献》
- 『新修名古屋市史』第3・4巻(名古屋市、1999年)
- 三重県史編さんグループ『発見!三重の歴史』(新人物往来社、2006年)
- 『三重県史』通史編原始・古代(三重県、2016年)
- 『三重県史』通史編近世2(三重県、2020年)
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