今月、愛知県名古屋市の熱田へ行ってきました。今回から3回に分けて、その訪問記を掲載します。有名な熱田神宮に、ヤマトタケル関係の古墳、江戸時代の東海道をしのぶ七里の渡し跡等をめぐります。
江戸時代の熱田
愛知県名古屋市の熱田(あつた)といえば、熱田神宮が有名です。東海道の七里の渡しを思い浮かべる人もいるでしょうか。熱田は名古屋駅がある名古屋市中心部から見ると南の方にあります。
熱田は江戸時代には交通の要衝として賑わいました。訪問記の前に、江戸時代の熱田の歴史を簡単に見てみましょう(熱田神宮の歴史は次回)。
熱田の町は戦国時代の永禄年間(1558~69年)頃には形成されていたとされます。織田信長や豊臣秀吉の時代には、熱田の加藤氏や熱田神宮の大宮司家が町を取り仕切る有力者であったようです。
町が発達するのは、東海道五十三次の宿場の一つである宮宿が置かれてからです。宮宿には本陣(大名等が宿泊する宿)が2軒置かれていました。
江戸時代初めの慶長16(1611)年、尾張藩は熱田に熱田奉行所を置きました。
元和2(1616)年には熱田と伊勢国桑名を結ぶ七里の渡しのルートが開かれました。熱田は七里の渡しだけではなく、名古屋を通って美濃国へ抜ける美濃路、陸路を桑名へ向かう佐屋路が分かれ、交通の要衝でした。
承応元(1652)年には熱田船番所(船奉行)が置かれ、宮の渡し(七里の渡しの出発点)を管理するようになりました。この頃から夜間の渡航は禁じられ、朝6時頃から夕方6時頃までとなりました。
熱田の町は町奉行が管轄していましたが、寛文5(1665)年に寺社奉行が置かれると、熱田神宮や寺社は寺社奉行の管轄となりました(町は町奉行のまま)。
また、尾張藩が木曽の山で切り出した材木を下流の熱田まで運び、堀川沿いの材木場に集積しました。寛文6年にはこの材木場を管理する奉行も置かれています。
江戸時代も終わりに近い天保14(1843)年には旅籠屋が248軒、家数2,924軒、人口10,342人という記録があり、東海道で一番大きな宿場でした。有名な伊能忠敬やシーボルトも熱田で宿泊したようです。
一方で、宿泊者が大名等に限られる本陣は経営難に陥ったり、熱田内部の町どうしで宿泊者の獲得をめぐって争いが発生したりするなど、順風満帆だけの江戸時代ではありませんでした。
明治時代になると、江戸時代の宿駅制度が大きく変わります。本陣の特権が廃止され、自力での営業を余儀なくされます。2軒の本陣はその後廃業してしまいます。逆に、一般の旅館は今まで認められなかった種類の部屋や建物の建設が認められる等しています。
江戸時代に熱田は宿場町として繁栄していますが、その陰には当時の人々の苦労があったこと、それらの歴史があって今の熱田の町があることを忘れてはなりません。
熱田神宮
最初に訪れたのは熱田神宮です。名古屋駅からはJR・名鉄で行けます。JRは熱田駅、名鉄は神宮前駅ですが、熱田神宮に近いのは名鉄神宮前駅です。地下鉄も名城線熱田神宮西駅・熱田神宮伝馬町駅がありますが、名古屋駅からは途中乗換が必要なので、ここではJRと名鉄の駅から行く場合で書きます。
JRの場合は、熱田駅の西口から大通りを南へ歩いて行くと、名鉄神宮前駅前(西口)に着きます。名鉄で来た場合はこの西口から外へ出ます。
ここには、最近できた「あつたnagaya」という飲食店等が集まった場所があります。お店で買って、周りで座って飲食でき、多くの人々が訪れていました。昔賑わった熱田の風景の現代版という感じがします。
あつたnagayaの南にある歩道橋を渡り、南へ2つ目の入口(中に鳥居が見えます)から入ると、熱田神宮の東門があります。東門から入り、真っすぐ進むと、後で書く佐久間灯籠の所に出ます。
熱田神宮に正面から入りたい場合は、更に南へ、神宮の森に沿って歩きます。大通り沿いに行き続けると遠回りなので、途中で森に沿って右折するのを忘れずに。JR熱田駅から熱田神宮正門まで徒歩約15分です。
鳥居で一礼して、中に入ります。まずは参拝しましょう。
正門の鳥居を入ってしばらく進み、小さな橋を渡ってすぐの所(2つ目の鳥居の少し手前)、道の右側に巨大な石灯籠(佐久間灯籠)があります。
東門から入った場合、真っすぐ進むと、この佐久間灯籠の所に突き当たります。
佐久間灯籠の少し先(東門から入った場合は灯籠の所を右折)に2つ目の鳥居があります。その鳥居を過ぎると、右側に熱田神宮の歴史が掲示されています。
更に進んで2つ目の鳥居に先に3つ目の鳥居があり、その先に拝殿があります。拝殿の前に石の階段がありますが、階段から先は撮影禁止なので、御注意ください(たしか伊勢神宮もそうですよね。神聖な場所ですから当然です。)。
拝殿で参拝します。
次回は熱田神宮の歴史と、境内をめぐります。
※記事の内容は2024年10月時点のものです。
《参考文献》
- 『新修名古屋市史』第3・4巻(名古屋市、1999年)
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