熱田の歴史スポットめぐり2~熱田神宮~

愛知県名古屋市の熱田訪問記の第2回目です。今回は熱田神宮の歴史と境内の各所をめぐります。

熱田神宮の歴史

熱田神宮の歴史は、2つ目の鳥居の先、道の右側に掲示されている説明を見るとよくわかります。

熱田神宮は草薙神剣(くさなぎのみつるぎ)をまつる神社で、創建から約1900年が経過しています。草薙神剣は八咫鏡(やたのかがみ)・八坂瓊曲玉(やさかにのまがたま)とともに、有名な三種の神器の一つです。

草薙神剣は、元々は天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)といい、素盞嗚尊(すさのおのみこと)がヤマタノオロチを退治した時に、その尻尾から出現した剣です。(余談ですが、神話に登場する神々や人物等はなぜこんなに難しい読み方なんでしょうか…。でも、それが格好いいと感じてしまうんですが。)

天叢雲剣は日本武尊(やまとたけるのみこと)が戦いで使用しました。ある時、敵が野に火を放って日本武尊を攻め、これに対して日本武尊は天叢雲剣で燃える草を薙ぎ払ってしのぎました。このことから、草薙神剣と呼ばれるようになったそうです。

日本武尊の死後、妃の宮簀媛命(みやすひめのみこと)が草薙神剣を熱田の地にまつったことが熱田神宮の始まりとされています。

熱田神宮は源頼朝や足利尊氏、徳川家康も信仰し、祈祷を命じたり、米を与えたりしています。意外に思えるのは織田信長かもしれません。信長は神仏を信じなかったとも言われますが、実は熱田神宮を信仰していました。

信長は桶狭間の戦いの前に熱田神宮に戦勝を祈願し、勝利したため、境内に土塀を建てました。土塀は現在も残っています。また、熱田神宮が荒廃しないように、社殿の造営も命じていたようです。

江戸時代には尾張藩初代藩主・徳川義直がたびたび参拝し、藩は定期的に修復するなど、引き続き信仰を集めます。

明治時代になると、国費により社殿が伊勢神宮と同じ神明造に改められ、皇太子時代の大正天皇も参拝しています。

昭和20(1945)年の空襲では多くの建物が焼失しますが、戦後は復興に向けて寄付が集まるなどし、復興をとげて現在に至ります。

このようにして見ると、神話時代に始まり、名だたる人物をはじめ、現在まで多くの人々の信仰を集めていることがわかりますね。戦後に多くの寄付が集まったのも、その証でしょう。私が行った日も、多くの人々が訪れていました。

熱田神宮の境内には多くの神社等がありますが、ここからは、境内のいくつかのスポットを紹介します。

佐久間灯籠

佐久間灯籠は正門から入って、2つ目の鳥居の少し手前、T字路の右手前の角(東門から入った場合は突き当たりのT字路の左手前の角)にあります。この反対側にも同じぐらいの大きさの石灯籠がありますが、こちらは明治29(1896)年に名古屋市出身の人々が寄進したものです。

この石灯籠は、巨大で(←ホントにデカいです。それまで参道で見かけた灯籠とは全然違います。)、写真で周りの木々と比較すると、その大きさがわかると思います。ただ、道の脇の木々に囲まれた中にあるので、ただ歩いていると見落としてしまします。

私も、茂みにあるとは思っていなくて、写真を撮っている人がいたので気付きました。T字路では道の脇に注目しましょう。

佐久間灯籠

さて「佐久間灯籠」という名前の由来ですが、それは江戸時代に佐久間勝之という人物が寄進したためです。このあたりで佐久間というと織田信長の家臣の佐久間信盛を思い浮かべますが、別人です(←私も最初は信盛の寄進だと思ってしまった)。

佐久間勝之は尾張国出身で、織田信長・柴田勝家の家臣として有名な佐久間盛政の弟です。蒲生氏・豊臣氏に仕え、最後は徳川氏に仕えました。

その佐久間勝之が海上で台風にあった時に、熱田神宮に守護を祈って無事であったため、御礼として寄進したそうです。灯籠の竿(下の方の柱のような部分)には「熱田大神宮」や「佐久間大膳亮平勝之」、「寛永七庚午稔正月吉日」(寄進した年月日。寛永7年=1630年。)といった文字が彫られています。

佐久間灯籠(拡大)
※「庚午」は横並びで刻まれています。

信長塀

信長塀は、3つ目の鳥居の左右にあります。鳥居の手前で道を右へ曲がった先に説明の立て札もあります。

この塀はその名のとおり、織田信長が建てた塀です。桶狭間の戦いの前に熱田神宮に戦勝を祈願し、勝利したため、そのお礼として建てられました。

信長塀

瓦と土が交互に積み重ねられているように見えますが、土のように見えるのは、土と石灰を油で塗り固めたものらしいです。

熱田神宮の歴史は古いですが、佐久間灯籠(約400年前)や織田信長が450年以上前に建てた塀は、実物で歴史の長さを体感できるものだと思います(1900年の歴史の中では、まだ最近?のような気もしますが…)。

宝物館・草薙館

2つ目の鳥居の手前の右側には宝物館、左側には草薙館があります。有料ですが、2館の共通券だと少し割引になります。2館とも貴重な宝物を展示しているので、是非見学しましょう(展示品の撮影はできないので、ご注意ください)。

※外観の写真を撮り忘れました。すいません…。

私が行った時には、宝物館では寄進された刀の展覧会が開かれていました。私は刀剣にあまり詳しくないからか、どれも同じ時代に見えてしまいます。しかし、説明を見ると、普通に鎌倉時代や室町時代の刀剣が展示されていてびっくりしました。

続いて草薙館に入ります。草薙館の名前の由来はもちろん草薙神剣でしょう。まだ新しく、中はとてもきれいです。

草薙館の中は、展示されている刀剣は多くはないのですが、それを補って余りある圧巻の太刀があります。それは戦国時代に越前国朝倉氏に仕えた真柄十郎左衛門父子が使用したとされる巨大な太刀です。

先ほどの佐久間灯籠の大きさも圧巻でしたが、この太刀も刀剣としてはありえない大きさです。当然、石灯籠よりは太刀の方が小さいですが、私は佐久間灯籠よりも太刀の大きさに圧倒されました。2口ありますが、大きい方は長さ3mです。槍レベルの長さです。とにかく行って、見てください。

こんな太刀を振り回せるんでしょうか?レプリカでいいので、どんな重さか持ってみたいものです。……ん?待てよ?そもそも3mもあると鞘から抜けないのでは?(←気付かなかったことにします。御供の人に鞘を持ってもらって抜いたんでしょう、多分。)

実際に使っていたというのは言い伝えですが、大太刀を振り回している姿が描かれた合戦図を見ると、本当に思えてきます。さぞかし真柄父子は剛力の持ち主だったのでしょう。

私は熱田神宮で以上の所を見て回って(参拝も含めて)約1時間30分かかりました(写真撮ってたせいでもありますが)。

さて、熱田神宮の主要な所を見て回ったところで、良い時間になったので、草薙館の前で昼食をとって次に向かいます。草薙館の前には飲食スペースやお店があります(平日でも昼間は結構人がいて混んでいました)。

続きは第3回で。

※記事の内容は2024年10月時点のものです。

《参考文献》

  • 阿部猛・西村圭子編『戦国人名事典コンパクト版』(新人物往来社、1990年)

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