あけましておめでとうございます。今年(令和7年)は巳年ですね。正確には乙巳の年です。
みなさんも聞いたことがある干支(えと)。子・丑・寅のことが干支(えと)だと思ってしまいますが、実は子・丑・寅だけでは「支」でしかありません。「干」の方も含めなければ干支にならないのです。「干」とは何なのか?今回はそんな干支の仕組みと、干支にちなむ色々なことを紹介したいと思います。
還暦は何故「還暦」なのか、「甲子園」の名前の由来は?歴史上の事件の名前と干支の関係とは?干支は今でも結構身近な存在であることに気付くと思います。
干支とは?
「えと」といえば子・丑・寅・・・の十二支ですよね。でも、これは「えと」の内の「と」だけです。十二支の「支」は「干支」の「支」になります。実は十二支だけで干支(えと)というのは、厳密には誤っています。
では、「干」にあたるのは何なのか?それは「十干(じっかん)」というものです。これは甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸の十種類あります。「甲・乙・丙」あたりは聞いたことがあるのではないでしょうか。昔の成績表とか、契約書(「以下、甲という」といった文面)、「甲乙付けがたい」とかですね。
順番に、こう・おつ・へい・てい・ぼ・き・こう・しん・じん・き、と読みます。訓読みでは、きのえ・きのと・ひのえ・ひのと・つちのえ・つちのと・かのえ・かのと・みずのえ・みずのと、と読みます。陰陽五行説にある「木火土金水」と兄(え)・弟(と)の組合わせです。
干と支の組合わせ
この干と支を組み合わせます。例えば、最初は十干の甲と十二支の子で「甲子」となります。
順番に行くと、10個の干と12個の支なので、10個目の「癸酉」で十二支の戌・亥が余ります。次は、十干は最初の甲に戻って、十二支は次の戌と組み合わせて「甲戌」、次は「乙亥」です。
今度は十二支が最後まで行くと、最初に戻って子、十干は次の丙を組み合わせて丙子となります。
このようにして順番に年や日に当てはめていくのです。令和6年は甲辰の年でした。令和7年は乙巳の年です。一部のカレンダーには日にちのところに「きのと とり」といった表記もあります。
みなさんは「ひのえうまの年に生まれた女性は気性が強く、夫を不幸にする」という迷信を聞いたことがあるでしょうか?気性が強いのと不幸にするのは相関性が無い気がしますし、あくまで迷信なので、誤解しないでください。
この「ひのえうま」は、まさに十干十二支の「丙午」です。なぜ丙午に迷信があるのか、理由は省略します。江戸時代に広がったこの迷信は、戦後も残っており、実際に前回の丙午の年(1966年)の出生人数は前後の時期に比べて大きく落ち込んでいます。
次の丙午は2026年、もうすぐです。2026年の出生数がどうなるのかを見れば、現在もこの迷信がどれくらい信じられているのか、わかるのではないかと思います。
繰り返しますが、「迷信」です。
次は干支にちなむ色々な事を紹介します。
60歳はなぜ「還暦」と言うのか~干支は感慨深い?~
初めは還暦のお話です。還暦を祝うのは60歳の時ですが、なぜ50歳や70歳ではなく、60歳なのでしょうか?
先ほど、十干と十二支の組合わせは、10個と12個なので、少しずつずれていくというお話をしました。この組合わせ(最初の甲子から、最後の癸亥まで)は全部で60通りになります。この60通りで干支(こよみ=暦)が一巡するという意味で、60歳を「還暦」と呼ぶのです。
平安時代には40歳以降、10年ごとにお祝いをし、次第に還暦のお祝いが重視されるようになったようです。
60通りということは、干支によっては一生に一度しか出会えないものも多くあります。昔は人生五十年とも言われます。還暦すら迎えられないことも多かったでしょうから、還暦を祝う気持ちもわかります。
現代でも、100歳まで生きるとしても、60通りの内19通りは一度きりしか出会えません。そう思うと、何か感慨深くないですか?
甲子園の名前の由来~さすが聖地?~
また、干支の最初である「甲子」で思いつくのは「甲子園」です。そうです、甲子園が完成したのは1924年で「甲子」の年です。干支の最初の年を狙って完成させたのかはわかりませんが、何か野球の聖地に相応しい気もします。
たまに、人名でも「甲子雄」といった名前を見かけますが、これも生まれた年が干支の一番目であることにちなんだものでしょうか?名前なので、命名者の考えはそれぞれですが…。
干支にちなむ戦い・事件等の名前
甲子園のように、干支にちなむ名前はいくつかあります。歴史の教科書で見られるものを4つ挙げてみます。
まずは庚午年籍(こうごねんじゃく)です。最初から少しマニアックですが、これは天智天皇の時代である670年、庚午の年に作られた日本最初の全国的な戸籍です。ちなみに、20年後の690年、庚寅の年の庚寅年籍(こういんねんじゃく)というものもあります。
2つ目は有名な壬申の乱です。天智天皇の後継者をめぐる、天皇の子の大友皇子と天皇の弟の大海人皇子の戦いです。大海人皇子が勝利して天武天皇となりました。起きた年が壬申の年(672年)であったので壬申の乱と呼ばれます。
3つ目は辛亥革命です。中国で清王朝が終焉を迎えた革命です。孫文が有名ですね。革命が発生したのが1911年の辛亥の年だったので、こう呼ばれます。
最後に、中大兄皇子・中臣鎌足らが蘇我入鹿を倒した事件は「乙巳の変」と呼ばれます(ちなみに、「大化の改新」はその後の改革政治を指す言葉です)。事件が起きた645年が乙巳の年だからです。
そう、今年(令和7年)の干支は同じ乙巳です。乙巳の変が起きたのは今から1380年前で、60年×23です。何周年という意味ではキリの悪い数字ですが、干支で考えるとキリがよくないですか?(いや、多分キリがいいとは思ってもらえないな…)
このように、現在では特に十二支の方しか身近ではありませんが、還暦や甲子園の名称、歴史上の事件等で十干も含めた干支はまだまだ私達の中に生きているのです。
《参考文献》
- 『日本史広辞典』(山川出版社、1997年)
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